アルテミスの君へ

新田 威

 アトリエには、山積みになったカンバスが無造作に放置してあった。どれも彼らしい、薄い朝陽の光が凝縮したような水彩の風景画だった。それをがちゃがちゃと動かしていくと、あれやこれやと、思うところがある作品が出てきた。美しい緑が映った窓の外からこちらを覗く青色の小鳥、香りが漂ってくるような清新な紫のラベンダー、さらさらと風が撫でた川面の波紋---。


 どれもこれも、やっぱり彼が描いたものだと分かったし、彼の面影を感じさせた。けれど、そこに彼の輪郭はなかった。抽象化された寂しげな彼の影が、色彩の薄い絵の具を通して落ちているだけだった。


 ふぅ、と思わず息が漏れる。ため息というには軽すぎて、ほっと一息というには重すぎた。ただ彼の永い永い過去の轍を踏んで、満足しているに過ぎなかった。


 そうやっていると、涙が流れた。目元から水が滲んだ。紙にじっとりと染み込む画材のように。だが、私はそれを涙とは認めたくなかった。これが涙だというのなら、私は大変な裏切り者なのだ。結局、彼の死ですら涙を流さなかった私が、彼の肉体の死ではなく、彼の残り香で涙してしまうのは何故なのだろう。


 そうやって静かで、寒くて、ガラスから差し込む淡い光だけが頼りのアトリエで、随分と泣いた。泣き声は反響もせずに木製の床に染み付いていった。返り言は何もなかった。


 涙混じりの目を擦りながら、またカンバスを整理する。どれも取っておきたいが、そうはいかない。私は彼の趣味には手出ししてなかったから、こういうものはどうすればいいのか分からなかった。そこで今日、本当に大切にできるものだけを選んで、他は彼の友人のA氏にあげる予定だった。A氏は彼の大切な絵描き仲間の一人で、生前の彼と一緒に写生旅行に出るくらいの仲だった。むしろ、A氏の影響を受けて彼は絵を始めたと言ってもよかった。


 ---でも。でも、全部取っておきたい。こんな我が儘、仕様がないかしら。


 実を言うと、彼の作品を目の当たりにするのは初めてではない。私と彼とは、正直言って同じ屋根の下で別々の人生を歩むという程度の仲だったし、当然私は彼の絵描きの事情を知り得なかった。でも、彼は絵を描くところは私に見せなくとも、完成間近の絵を見せて、「どうだろうか。不出来ではないか。」と言うのだった。


 普段絵を描くところは見せないくせに。


 そんな言葉は間違ってもこぼさなかったが、その時、私はその絵を一瞥して「そうね。いいんじゃないの。」と言っていた。絵だとか、芸術について明るくない私に出来る精一杯の強がりだった。その時見ていた彼の絵は、ギャラリーに飾るには到底劣った、ぼやけただけの捉えどころのない絵でしかなかった。


 それが、こんなにも愛おしく見える。失ったものの価値は失って初めて気がつくのではない。失ったものの姿が、蜃気楼のように遺物に浮かび上がる時に気がつくのだ。私はそう悟った。


 仕方がないから、とりあえず全部の絵ぐらいには目を通そう。そう思って絵を見ていると、すっかり日が暮れてしまった。彼の絵は感傷のない、純粋な自然ばかりの写生だったが、ひとつひとつ見ていると味があった。味、なんて言葉でたった今私は纏めたけど、これも彼の言葉の借り受けだった。絵に就て、私自身から生まれた感受性はひとつもなかったのだった。


 とにかく、暗くなってしまったら作業も出来ない。日中に切りをつけようと思っていたアトリエの整理にこんなにも時間がかかってしまったのは計算外だった。A氏が家に絵を取りに来るのは明日の昼だから、また明朝からやればいいだろう。そう思って入口の側にある机に置いてあったオイルランプに火をつける。手提げのそれは、真夜中になると本当の意味で真っ暗になる、人工の光のない田園風景の中では大変重宝した。


 ランプが油の焼ける独特の匂いを出して燃え出し、アトリエの片隅を照らし出す。すると、大量の画材が置いてあった机の下に、筆洗と一緒に梯子があったのが目に入った。梯子。家と少し離れた場所にある(とは言っても敷地内だが)この平屋のアトリエに、梯子。似合わない、というよりも平坦な言葉で言えば、不要。不思議に思っていると、その机の上の天井から、銀色の棒がぶら下がっているのが見えた。私の背でも、おそらく彼の背でも届かない場所にあったから、つまるところ、この梯子を使えということなのだろう。


 梯子を壁にかけて、ランプを手頃な机の上に置く。ランプの暖かな橙色の光は丁度私の足元を照らしてくれた。ぎし、ぎしと音を立てながら慎重に登る。てっぺん近くで壁から振り向き、棒がある方を向くと、金属の棒は私の目線から30cmくらい上にあった。多分、彼の身長ならばぴったり目の前に来たくらいだろう。思わず綻んだように笑った。声は出さずに、口元だけの笑みだ。


 例の棒は、氷のように冷たかった。まだ新春だというのに、ひんやりとしていて驚いた。それでも我慢して棒を握る。さて、ここからどうしたものか。そう思って下に一生懸命下げたりしていたが、くるりと、時計回りに回すと回転した。くるり、くるり。段々と手応えが重くなったが、それでも懸命に回し続ける。くるり、くるり、くるり---。


 がちゃんと音が鳴る。すると、真っ白な光が私の姿を暗闇の中で露にさせた。手で目を覆いながら天井を見る。そこには、満月が雲ひとつないナチュラルな夜天に佇んでいた。


 ---わあ、なんて綺麗。


 金属の棒はアトリエの天井と連動していた。あれを回すと、斜めに傾いた天井の内側につけられた木の板が動いて、はめ殺しのガラス窓が顔を出すようになっていたのだ。そこから、写真で切り取ったような夜空が見えた。絶好の機会と言わんばかりに、満月はそのフレームの真ん中に来ていた。


 月夜の光を賞賛するのは、いつの時代も変わらない。こうやって自然の木々に囲まれた山中の田舎で見ると、月はこんなにも美しかったのかと思える。まさしく、があった。


 梯子から降りてアトリエを見渡すと、月光はアトリエの中央---彼が好き好んでいたらしい、赤いクッション付きのスツール---を照らしていた。


 あなた、隠していたのね。こんなにも綺麗で、風雅で---まるで、あなたが描く絵みたいな場所を。


 恨めしい思いが、澄んだ清流に石を投げ込むように沸き立つ。それと同時に、スツールに座る、白髪混じりの男の姿が見えた。男は私に背を向けて、天井を眺めていた。一瞬、はっと思うと伴に、なんだか納得してしまった。


 「相変わらず憎たらしい背中ね。そうやって絵ばっかり描いてるから、猫背になるのよ。」


 いつものように男に話しかける。男は何も言わず、肩をすくめるだけだ。私が一歩近づくと、男は拒むようにポケットからタバコを取り出し、火をつける。懐かしい、私が買ってあげたライターだ。


 タバコの匂いが鼻につく。私も若い頃はタバコばかり吸っていたが、この田舎に移住してから一度も吸っていなかった。でも、この匂いだけは覚えている。腐るほど嗅いだ、あの人の好きな銘柄。中国産の、どうにも好きにならない煙の香り。


 煙は知らず知らずの内に充満して、私の眼前をどっぷりと満たしていた。男の姿はすっかり煙の中に掻き消えていた。


 先の見えない恐れを知らずに更に一歩を踏み出す。男の姿は浮かび上がらない。また一歩。それでも見えない。また一歩、また一歩と踏み出す。


 気がつくと、こつんとスツールの足に私のつま先が当たる。男も、煙も、タバコの匂いも寸分の間で幻の如く消え去っていた。ベールのような月の光が私の傷んだ髪に注いでいた。


 「お互い、歳をとったわね。」


 スツールの座面を撫でる。埃が指先につく。


 「二人で、都会から逃げるようにここに移住して。最初は一緒に土いじりばかりしていたけど、その内あなたは絵にご執心。」


 いじらしい文句が口先からぽつり、ぽつりと走り出す。


 「アトリエを作るなんて言った時は、私はもう大変だったわ。あなたは若い頃、詩人になるなんて言っていたのよ。あなたは芸術家もどきになりたかったくせに飽き性だったから、私も、一時の絵のために小屋を建てるなんて反対だった。---それでも、あなたは絵だけはやめなかった。」


 埃を粗方叩き終わると、スツールに腰掛ける。そこからは、美麗な夜景が最高に良く見えた。巷では工場のネオンを夜景というらしいが、私にはそれがよく分からなかった。夜の景色というのは、おそらくこういうのを言うのだと思う。


 「あなたはこうやってアトリエにこんな仕掛けまでして。本当に驚いたんだから。」


 苦しい空気が肺から上がってくる。彼が愛した月の光は、妖しいまでに蠱惑的だった。魅力的過ぎて、どこか知らない世界へと連れていくように手をこまねいているようにさえ見えた。


 「それをあなたはここに籠り切って、私には絶対に見せないで。それでも私に絵のことを訊いてきて。本当に嫌いよ、あなたのこと。」


 彼のことが、急に形を取り出したように具現する。目の奥に彼の姿が明確な輪郭を成していく。


 「---でも、その秘密も、もうあなただけのものじゃない。美しいものを見たと思うわ。あなたのように抒情的な人間じゃなくても理解できる、普遍的な美の形。」


 彼への恨み節だけが声になるのは、多分照れ隠しだと思う。そうじゃないと、おそらく朝まで泣くことになるから。


 「秘密主義のあなた。シャイなあなた。私と違うようで、同じ感性をしたあなた。」


 私だって同じだったのだ。私も大分秘密主義で、シャイで---あなたに隠し事をして、あなたに愛の言葉を囁くことはなくて---。


 「絵のことは分からないけど、私は、あなたのことが好きだった。愛していたのよ、あなたの全部が。」


 言ってしまった。もう後戻りはできない。


 「ねえ。何で、あなたは突然いなくなってしまったの?さっきまで、二人でいつも通りやっていたじゃない。」


 だから、だから。


 「どうして、あなたは死んでしまったの。私の愛する人。」


 こういうことを言ってしまうのは、過ちではないのだろう。


 



 

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