男の表情が曇る。

「俺が凶器だと? どういう意味だ?」

「あいつ、本当に自尊心が強い男でしょう? 頭もいいし、精神的にはタフだし。でも、心臓はスクラップ寸前。だから精神力さえ打ち砕いてしまえば、死ぬ。それを可能にする力は、あなたにしか備わっていなかったのよ」

「俺が……?」

 女は男の疑問を無視して話を続ける。

「昨日の晩、恵理が追い返された後、わたしは応接間に姿を現したわ。そして、あいつに話したの。本当のことを――本当のことだけを、ね。わたしの願いが自分の死だと知って、あいつは不様にうろたえたわ。突然空気がなくなってしまったんですもの、苦しんで当たり前。他人を平気で騙せる人間は、自分が騙されることに耐えられないものよ。そのうえ、信じ切っていた妻が血を分けた弟と関係を持って、2人で自分を殺そうとしている――だなんてね。あっという間に顔が土気色になったわ。パーフェクトであり続けることが誇りだったあいつが、こんな屈辱に耐えられるはずがないもの」

「おまえは……兄貴の心臓はまだもつと言っていたのに……」

 女は、くすっと笑った。

「あいつが『健二には、そう言っておけ』って。心配かけたくなかったんじゃない?」

「汚い女だ……」

「そうかしら? あいつはいつも『綺麗な身体だ』って喜んでいたけれどね。心臓が悪いくせに、しつこいぐらい可愛がってくれていたのよ」

「なんだと?」

「実はね、セックスがなくなっていたっていうのは嘘。今でも週に1度は抱かれていたのよ。腹上死でもしてくれれば、わたしだって面倒がないもの。でもさすが、長年の女遊びで鍛えてきただけはあるわ。心臓に負担をかけないコツはしっかり身につけていた。わたしたち、夫婦生活は円満だったのよ」

「まさか……」

「だからこそ、妻に裏切られたことがショックだったわけ。離婚同然の夫婦生活をしていたなら、簡単に発作なんか起こさないわよ。床に崩れたあいつは、慌ててペンダントの薬を飲んだわ。でも、人間の身体はそう簡単にコントロールできるものじゃない。自尊心をズタズタにされて、あいつは呻き続けた……。その時わたしは、花瓶を取ったの。あいつ、わたしが頭の上に花瓶を振りかざすのを見て、動きを止めたわ。恐怖が薬に勝ったのよ。わたしは花瓶を放り投げて、それでおしまい。花瓶は床にしか当たらなかった。もし警察が手袋を調べたとしても、破片がついているはずはないし、たとえついていたって死体には打撲の跡なんかないんですもの、何の意味もない。殺人事件なんて、そもそも存在しなかったんですから」

「貴様……なんて女だ……」

 女は楽しそうに肩をすくめた。

「いいことを教えてあげるわね。あいつ、あなたから憎まれていることを承知していたのよ。そして、心から悔やんでいた……『健二の性格を歪めてしまったのは、自分の責任だ』って……。あなたを愛していたのよ、息子のように。あいつがこの世で愛していた人間は、弟のあなた1人だけだったのよ……」

 男は茫然と目を見開いた。

「馬鹿な……嘘だ……だって俺は……俺はいつもあいつに頭を抑えられ、地べたに這いつくばってきたんだ。あいつに愛されていただなんて、ありえない!」

「あなた、かわいそうな人ね……。人の気持ちが全然分からないんだから。あいつはね、あなたを大人にしたかっただけ。両親が死んで以来無理をし続けて、心臓はボロボロ。いつ死んでもおかしくない身体だったんですから。だからあいつは考えた。今のあなたに遺産を残したりすれば、あっという間に自滅する。その前に、一人前にしなくてはならない――ってね。赤字会社を建てなおす仕事を与えたのも、あなたを男に変えるための試練だったわ。それなのにあなたは泣きごとばかりで――」

「嘘だ!」

「そう思いたいなら、ご自由に。でもわたしは、あいつの愉しみがあなたの〈成長〉だったことを知っていた。だからあいつに、止めを刺すつもりで教えてやったのよ。これからわたしが、あなたに何をしようとしているか――をね。あいつ、それを聞きながら息絶えたわ。最愛の弟に降りかかる災難が、自分の責任だと呪いながら……」

 男の顔からは血の気が失せていた。

「災難……だと?」

「まだ分からない? あいつは病死したのよ。でも、死体のそばには割れた花瓶がある。だからわたしはあなたが殺したと思い込んで、警察に通報してしまった……。事件の真相は、それだけのことだったのよ。うろたえた妻の、馬鹿馬鹿しいぐらいの勘違い。だいたい、警察が殺人の容疑者を簡単に逃がすはずがないじゃない。現場の刑事は、あいつが心臓発作で死んだらしいって第一報を受けていたから、あなたを家に戻らせたのよ。あなたは検死で死因が確定するまでの間の、参考人でしかなかった。なのにあなたは、警官から銃まで奪って逃げた。赤ん坊を人質に取り、わたしに夫殺しの罪をかぶせようとした……。目的は当然、遺産の独り占め。しかも最後には、わたしの口を封じるために、力ずくで犯すことまでやってのけた……」

「まさか……あれは……くそ! 抱いてくれって言ったのは罠だったのか……おまえは、そんな……畜生!」

「本当に考えが足りない人ね。こんな大騒ぎを起こさなければ、わたしだってあなたを都合よく〈犯罪者〉にできなかったのに」

「お前のでたらめなんか、誰も信じやしないぞ!」

「試してみるわ」

「お前は、はじめからこうする気で……?」

「今になって気づくようなお人好しに、遺産の4分の1も持っていかれちゃたまらないもの。あなたは、自分より上位の相続権を持つわたしを陥れようと企んだのよ。強姦という、最も卑劣な犯罪を犯して。これであなたは、相続権そのものを失った。わたしはもちろん、誰にも何も言わない。死んだ夫の名誉を守るためにも、彼の弟に辱められたなんて言えるはずがないもの。ただ、警官の前で気絶すればいいだけ。この引きちぎられた服を見れば、誰だって暴力を振るわれたと信じ込むわ。わたしは病院へ運ばれ、治療され、そして体内からあなたの精液が発見される……。証拠はわたしの身体の中。だから、あなたは逃げられない……」

「くそ……お前はそんな女だったのか……」

 男は銃を上げた。

 女は微笑んだ。

「撃ちたいでしょうね。死刑を選びたいなら、お好きなように。でも、

刑務所に入るだけなら生きてはいけるのよ」

 男は凍りついたように動きを止めた。

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