男も、女の背に腕を回した。だが、その抱擁に力はこもっていなかった。愛情も、幻のように消え去っている。

 女は驚いたように身を離し、男の冷たい笑いに戸惑いを見せた。

「健二さん……?」

 男の頬には薄笑いが浮かんでいる。

「終わったな、俺たちも。しかし、驚いたよ。君が進んで罪を認めてくれるとはね。鉄の女に見えても、結局は生身の女でしかなかったわけだ」

 女は目を丸くして男を見つめる。

「どういうこと……?」

「君は今、マスコミを前にして殺人を自白した。自白を裏づける証拠も揃っている。もう、後には引けない。そして、夫を殺した君は、同時に全ての相続権を失った。これで兄貴の遺産は俺だけのものになった。俺の計画は終わった。こんなにも簡単に、そしてこんなにも完璧に。君は、女だ……愚かな女、そのものだ」

 女は、ふっと微笑んだ。

「あら、そんなこと……。ご心配はいらなくてよ。いくら愚かな女でも、自分のしたことの意味ぐらいは分かっていますから」

 女が笑う理由が、男には分からなかった。

 女の目は、冷たく、そして鋭く光っている。

 男の背に寒気が走り抜ける。

「やけに落ちついているじゃないか……」

「そんなことはないわ。これでも動揺しているのよ。だって、あなたが本性を現わすのはずっと後になってからだと思って、あれこれ対応策を練っていたんですもの。マスコミに一言しゃべっただけで〈計画が成功した〉と決めつけるのは、不用心すぎるわ。こんなに間抜けな猿と今まで組んできたなんて、冷汗ものよ」

「何だと⁉」

「あなたの狙いは、とっくに見抜けていたってこと」

「なに……?」

「わたしを焚きつけて夫を殺させ、全ての財産を奪おうとしたこと。それを実行に移したこと。あなたがわたしに近づいてきたその日から、腹の内は読めていたわ」

「まさか⁉ じゃあなぜ、今まで俺の言いなりになってきたんだ⁉」

「そうすることが、わたしにとって好都合だったからよ」

「おまえは……? くそ……そうか……そういうことだったのか……。所詮、同じ穴のむじなだったのか……。だが、それならなぜ? なぜ今になって、兄貴を殺したことを認める? しかも、警察とマスコミに包囲された、こんな場所で。逃げ場はどこにもないのに……」

 女の微笑みは揺らがない。

「本当に逃げ場がないのかしら?」

「当たり前じゃないか。逃げ場がないからこそ、俺はあえてこんな状況に飛び込んだんだ。警察をこっちの罠に引きずり込むためにな」

「罠を操れるのは、あなただけじゃないのよ」

「何だと⁉ まあいいさ。お前がどう強がろうと、ここを出れば思い知ることになる」

「思い知るのは、あなた」

「つまらない意地を張っても無駄だ。警察の捜査は必ず真実を暴きだす。お前が兄貴を殺したという真実をな」

「わたしだって、警察の実力は怖れている。あなたと違って、彼らを欺けるなんて自惚れていないわ」

「ふん、どう言おうと、お前は刑務所入りから逃げられない」

「その通りでしょうね。ただし、わたしがあいつを殴り殺したのが〈真実〉なら――ですけど」

 男は一瞬首をひねってから、女の微笑みの意味に思い当った。声を荒らげる。

「何だと⁉ まさか……殺していないっていうのか? 血迷ったのか、間抜けめ……。それならどうして、こんなにたくさんの警官が集まっているんだ⁉ マスコミのウジどもは、いったいなんだ⁉」

「確かに、あなたのお兄さまは死んだ。床に倒れ、のたうち回り、辺りには砕けた花瓶が飛び散って……。まるで、花瓶で頭を割られたように」

「まるで……?」

 女は明らかな笑顔を浮かべた。

「わたしがこの手で花瓶を割ったんですから、当然。でも、わたしは殴ってはいない。花瓶は、あの人に触れてもいないの。恵理も、花瓶を手に取っただけ」

「馬鹿な⁉ じゃあ、兄貴はなぜ死んだ⁉」

 女は穏やかに応えた。

「心臓発作。不幸な事故、不測の事態、そして定められた運命……。あの人はね、わたしの目の前で胸をかきむしって、転げ回って死んでいったのよ……」

「笑わせるんじゃねえ! そんなたわごと、警察が信じるものか!」

「信じるに決まっている。信じるしかないの。それが真実なんですもの。人を殺すには、毒も刃物もいらない時があるのよ」

「じゃあ、どうしてサツがお前の手袋を調べているんだ⁉」

 女は笑いをこらえている。

「他人の言葉を鵜呑みにするのは、あなたの悪いくせ。手袋を持っていかれたなんて、嘘よ」

「くそ、お前って女は……だが、花瓶も使わずに……いったい、どうやって兄貴を殺したんだ……?」

「言葉で、よ」

「言葉……? そんな……おまえは、あいつを……修羅場を生きぬいてきた肝の座った男を、言葉だけで殺したというのか……」

「あいつを殺したのは、正確に言えば〈真実〉ね。わたしは、それをあいつに教えてあげただけ。あいつね、ああ見えても、わたしを心から信じていたのよ。自分が外でどんなに遊んでいても、じっと耐え、待っている〈貞淑な妻〉だって……そう信じ切っていたのよね。わたしの長い間の演技が、やっと実を結んだわけ」

 男はぼんやりと問い返した。

「演技……?」

「あなただって知っているでしょう? あいつが見ていたわたしは、全て演技で作られた幻の人格よ。でも、あなたが知らないことがもう1つ。あなたが見てきたわたしも、実は全部お芝居で作ってきた人間だったってこと」

「それじゃあお前は、いったい何者なんだ……?」

「さあ、何者なのかしら。確かなのは、昔のわたしはあいつの遊び相手すぎなかったということ。それでも小さなブティックを任されて、けっこう気楽に生きていたわ。そしてその頃、あいつは奥さんに逃げられた……。あいつが唾をつけていた女たちは、一斉にパニックを起こしたわ。誰もが後妻に居座ろうと、なりふり構わず押しかけてね。だからわたしは逆に、何もしないでひたすら待った。女たちのしつこさにうんざりしたあいつは、狙ったとおりわたしの部屋に逃げ込んで来た……。2度も奥さんに逃げられて、あいつ、やっと気づいたのね。思う存分に働き、遊ぶためには、できのいい伴侶が欠かせないって。条件は2つ。世間体を繕える才能があることと、自分の遊びに寛大であること。わたしは選ばれたわ。もちろん、最初は財産目当てだろうと周りから疑われたけれどね。ところがわたしは、良妻であり続けた。浪費はしない、わがままは言わない、家名も傷つけず、付き合いやマスコミの相手でも失敗はしない……。わたしはあいつが望む〈妻〉を演じきったのよ。おかげで、胃はストレスで穴だらけ……。自分以外の人間になるのが、あんなに辛いとは思わなかった。それでも、わたしはやり遂げた。そしてあいつは、わたしの存在を忘れたわ。わたしは、空気になったの。空気のように自然で、欠かせない存在にね。たったひとつ危険を冒したのは、あなたに抱かれたこと。わたしの計画を完成させるには、どうしても共犯者が必要だったから。共犯者と、凶器がね。あなたは、その両方だったのよ」

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