男は、自分自身を落ちつかせるように言った。

「恵理が兄貴のところへ直談判に行くことは予測できた。それ以外に子供を認知させる方法はないと、俺が手を尽くして信じ込ませてきたからな。だから恵理が動きだす時を逃がさないように、探偵を使ってずっとこのマンションを見張らせてきた。恵理を利用するチャンスは一度しかないからだ」

「探偵が警察にその事を証言したら? あなたは不利にならない?」

「恵理のガキの調査は、兄貴から命じられた仕事なんだぜ。費用は兄貴の口座から出ているし、探偵社の方でもその点は了解している。ガキの件に関するかぎり、俺は兄貴の代理人なんだ。恵理を見張らせるのは当然だ。もし恵理が兄貴の他にも男を作っていれば、認知する必要はなくなるんだからな。警察がどんなに俺を疑っても、不審なところは何一つ見つけられない。むしろ探偵社からは、俺にとって都合がいい証言が取れるぐらいだ。問題は君の方なんだ。俺が『これから恵理がそっちに行く』と電話した時は、2階で眠っていたんだね?」

 女は記憶を掘り起こしながら小さくうなずく。

「ええ、眠ろうと努力していたわ。あの人がわたしを抱かなくなって、もう3年……。わたしは世間体を保つ看板でしかない。広いダブルベッドで、いつも1人……。いつものように、たった1人で眠ろうと……」

「使用人たちも近くにいなかったね?」

「わたしのベッドルームには、夜は誰も入らない。だから、あなたから電話があったことは誰にも知られていない。でも……」

「何か不安な点でもあるのか?」

「スマホって、通話記録が残るんじゃないの?」

 男はにやりと笑った。

「俺が用意したスマホは闇ルートで手に入れたブツで、あの時しか使っていない。電話はすぐ処分したから、俺たちの関係が暴かれる心配はない。間違い電話だったってとぼけていれば、君が疑われることもない。で、俺の電話の後、兄貴はどうした?」

「恵理が時間どおりに来たわ。あの人は、わたしが眠っていると安心して、恵理をこっそり部屋に上げたのよ」

「それから君は、様子を見に応接間に降りた?」

「自分の家ですから、安全に盗み見る方法は分かっている。恵理と2人になったあの人、珍しくうろたえていたっけ……。まさか、愛人が1人で乗り込んでくるとは思っていなかったみたい。女はみんな、お金で言いなりにできるペットだと思いこんでいる人ですものね」

「恵理だって、俺が煽らなければ家に乗り込んだりはしなかったはずだ。俺は『金はびた一文出せない』と断言した。恵理が子供を認知させるには、じかに兄貴と話をするしかなかったのさ。で、恵理は兄貴になんと言った?」

「『子供を認知しなければ、あんたとの関係を週刊誌に暴くわ』ですって。まるで、安っぽいテレビドラマみたい。でも、効果はあった。あいつは大のマスコミ嫌いだし、雑誌に写真でも載ったらいい恥曝しだもの。妾を持つことが法には触れなくたって、子供のことを騒ぎ立てられたら迷惑この上ないし。恵理も、なかなかの迫力だったわよ。でも、あいつは笑っていた。恵理の腹の内はすっかり読めたみたい。前にも言ったけど、あいつ、自分でも独自に恵理を調べていたのよ」

「俺の他にも人を使って恵理を調べさせていたのは、確かだな?」

「浮気専門の興信所。ついこの間、偶然報告書を見つけたの。あいつ、あなたも疑っていたのかもしれないわね」

「〈無能〉の烙印を押されている弟だからな。そっちの報告書にはどんな結果が書いてあった?」

「恵理には男が3人いたんですって。あいつの他に、よ。当然、父親は恵理自身にも分からない。あいつ、その報告書を恵理に突きつけたわ。並みの小娘ならそれで尻尾を巻くんでしょうけど、恵理の精神状態はすでに普通じゃなかったようね。追い詰められたと知ったら、いきなり花瓶を振り上げて『殺してやる!』だもの。でもあいつ、落着き払っていたわ。どこに用意してあったのか、いきなり札束を投げつけたの。本当に1000万ぐらいあった。で『子供は他の男に認知させろ。だが、これ以上望むなら命の保障はない』って……愛人ごときとは役者が違うのよね、所詮」

「うん……あの時、君から電話で聞いたとおりだな……。何か見落としていることはないか?」

「ないと思うけど……」

「どう考えても、状況は完全だ……」

「でもあなたは、その間、何をしていたの?」

「恵理が家に来た証拠を残すために、裏口で待ち構えていた。偶然出くわしたような振りをして、家から出てきた恵理を捕まえて、『何をしに来たんだ』と脅かした。恵理は肝を潰して逃げていった。その時に、イヤリングをもぎ取った。そいつを塀の中に投げ込んでから『兄貴を殺せ』と、君に2度目の電話を入れた」

「そしてわたしはあいつを殺し、2時間待ってから警察に通報した……。でも、願ってもない条件が揃ったのに、その上にどうしてこんな策略が必要だったの? 警察に包囲されて、しかも盗聴されているって分かっている場所で、罵り合うお芝居をするだなんて……。わたし、もう耐えられない……」

「恵理が犯人だという証拠は揃っている。兄貴が渡した金も、殺して奪った裏づけになるだろう。でも、肝腎の動機が曖昧だ。恵理にとっては、兄貴が死ねば損にしかならない。逆に俺たちには強い動機がある。遺産を狙った殺人――強力すぎて、警察学校を出たばかりの新人だって真っ先に疑うだろう」

「その疑いを持たせないために、恵理を利用できるチャンスを待ち続けたんでしょう? しかも、指紋のついた花瓶とかイヤリングとか、偽の証拠まで集めたのに?」

「その証拠を警察が自力で発見すれば、問題はない。だから『恵理イコール犯人説』に警察を誘導するために、盗聴させる必要があったんだ。それでも、ちょっと頭がある刑事が関わってくれば、俺の裏工作が見抜かれる危険が残る。警察には、恵理が衝動的に兄貴を殺したと納得させなければならない。俺たちに疑わしい点があってはならない。兄貴に隠れて身体の関係を持っていたことを万が一にも知られたら、徹底的に締め上げられる。だから先手を取って、俺たちがいがみ合っていたことを印象づけたかったんだ。君はともかく、俺は隠しマイクの存在など知らない状況だった。だから、この部屋での言い合いは全て本心からの言葉だと判断されるはずだった。それが、こんな芝居が必要だった理由だったんだが……」

「それでわたしに『俺を犯人だと思え』って命じたの……? でも、よく隠しマイクをつけられることまで分かったわね」

「警察が、何の保障もなしに君をよこすはずがない。いつでも室内に飛び込んでこられるように、中の様子を探る手を打つのは当然だろう? それに向こうだって事件の真相を探らなければならない。2人の遺産相続人をぶつけ合わせて正体を暴く――それが警察の本当の狙いだったのさ」

「警察がわたしを利用したの?」

「強力な動機を持つ容疑者、だからな。その上、事件の展開が警察の常識を外れている。犯人と目される俺は〈濡れ衣を晴らすため〉に拳銃を奪って、兄貴の愛人の部屋に立てこもる。未亡人の君は〈愛人の赤ん坊を救うため〉に命を危険にさらす――。どちらも、殺人犯が取るような行動じゃない。警察も、こんな状況をどう判断していいか分からなかったはずだ。で、隠しマイクを投入しての様子見さ。そんな場所でお互いが犯人だと思い込んでいる俺たちが言い争い、恵理が犯人だという結論を出せば、警察だって信じる……そう思ったんだが――」

 男の声は不意に涙に声をつまらせた。

「どうしたの?」

「俺は……俺はいいんだ……。兄貴を殺せと命じたが、手は下していない……。でも、君は……その手で……。どんな事になっても、君を殺人犯にはできない……そんなことになったら、俺は死んだも同然だ……」

 女も胸をつまらせて声をかすれさせた。

「ありがとう……。あなたは、何も悪くないのよ。しくじったのは、わたし……。手袋を処分してさえいれば……あなたを信じてさえいれば……」

「たとえ俺たちが殺したことがばれても、俺は殺人教唆……その程度の罪だ。甘んじて受けるさ。だが君は……なんとか、君を助ける方法を考えなくては……」

「手袋、やっぱり証拠になるかしら……」

「警察は手強い。クローゼットの中にあったはずの手袋から花瓶の破片が見つけられたら、徹底的に追求される。俺にだって騙し通せる自信はない……。この芝居を続ければ続けるほど、君の罪が重くなりかねない。芝居をやめるなら、今しかないのか……。俺が犯人になれればいいんだが……」

「そんな……わたしのために……」

 男はうるんだ目でじっと女を見つめた。

「遺産なんか、どうでもよかったんだ……。俺は自由が欲しかった……。傲慢な兄貴から、ただ自由になりたくて……。お前と2人で……」

「あなた……」

 男の目は過去を覗き込んでいた。熱に浮かされたうわごとのように、つぶやく。

「俺たち兄弟は、ガキの頃から早く1人前になれと尻を叩かれて育った……。親父は、自分以上の才能を子供たちに期待したんだ。成績優秀な兄貴は、そんな親父をいつでも満足させてきた。だが俺は、駄目だった。いつも失敗し、そのたびに臆病になった……。怒鳴られ、ののしられ、軽蔑された……。いつかは兄貴のようになってやる……泣きながら、そう誓ったものさ。天分の差……そんな残酷なものがあると思い知るまではね」

 女は慰めるようにつぶやく。

「あの人も、あなたを見下していたの……?」

「そうだったら、どんなに分かりやすかったか……。だが兄貴は、いつも俺をかばってくれた……。親父に隠れて手助けをしてくれた……。できの悪い弟を思う、優しい兄……そうさ、あいつはそうやってどっぷりと優越感に浸っていたんだ……。それが分かったのは、親父が死んだ時……中学1年の頃だ……親父という心の支えを失った兄貴は泣きわめき、俺に当たり散らしたよ……。しかも、おふくろまですぐ親父の後を追ってね……俺は腹の中で笑ったものだ。もう自由なんだ……失敗を恐れる必要はないんだって……。両親を亡くして泣くことさえできなくなった兄貴を見て、本当は俺の方が強かったんじゃないかとさえ思った……。なのにあいつは、立ち直った。まだ高校生だというのに、『残された財産を守るんだ』と言い出しやがった。そしてたまげたことに、言葉どおりにやり遂げてしまった」

「あの人、確かに実力は飛び抜けていたから……」

「それだけじゃない。あいつは俺の父親代わりにもなろうとした……。厳しかったよ。なにしろ、俺の欠点を知り尽くしていたんだからな。あいつは容赦なく俺を責めたて、苦しめた……。次から次へと難題を押しつけ、採点し、不様さを笑う……。成績も、仕事も……俺は女遊びさえ、あいつに欠点を添削されてきんだ……。いつも完璧以上を求められた。できるわけはないよな。俺はただの男なんだから……。無能を呪ったよ。逃げればいい……そう考えもした。でも、自信がなかった……。俺は半端者だったんだ……。今でも同じ……結局、兄貴を打ち負かすことはできなかったんだ……」

 女は男の手を握りしめて叫んだ。

「違う! あなたはわたしが愛したたった一人の男よ! あんな冷たい人とは違う!」

 男は哀しげに微笑んだ。

「君のおかげだな……。君に出会って、俺は初めて男になれた。兄貴が俺を閉じこめた〈檻〉に挑む決心がやっとつけられたんだ。君がいなければ、俺は永遠に出来損ないだったろう……。ありがとう。罪は俺が被るよ。偶然恵理が来たことを見て、殺しに利用したことにすればいい。俺は兄貴と戦った。知力を振り絞って戦いぬいた。それで充分だ。君には、すまないと思っている。忘れない……絶対に……」

 女は、きっぱりと言った。

「殺したのはわたしよ」

「俺が考え、命じた。責任は取る」

「違うわ! 何もかも、わたし1人でしたのよ!」

 男はじっと女の目を見つめた。

「ばかな……なぜ君がそこまで……」

「わたしは、あいつを憎んでいたのよ! 淫売どもにうつつを抜かして、いつもわたしを1人ぼっちにしていたあいつを! わたしは全ての財産を奪って、おもしろおかしく暮らしたかったのよ! 結婚した時から、あいつを殺すチャンスを狙っていたのよ! そこへ、恵理があいつの子供を生んだと言ってきた……だから……」

「そんなことはできない! 君は俺の恩人だ! だめだ!」

「愛しているのよ! あなただってわたしを女にしてくれたわ! 妻を演じるだけの人形に命を与えてくれたわ! ……それに、殺したのは本当にわたしなんだもの……。たとえあなたが自首したって、警察はいつか真実を暴く。わたしは、いいの……もういいのよ……。こうしてあいつから逃げられたし、幸せな夢も見られたんだし……。あなたに会えて、よかった……お礼に、自由をあげるわ……」

「君……」

「賭けだったんですもの、負けることもあるわよ。でも、1人生き残れるなら、確率は50パーセント。上出来じゃなくて?」

「君は……すばらしい女だ……」

「他人みたいね。いいのよ。全部あなたのためにしたことなんだから」

「愛している……」

 女はうなずくと、ベランダに歩み寄った。カーテンを開いてサッシを開ける。反論を許さない強い口調で命じる。

「わたしの後で調子を合わせてね。疑われないように、乱暴な言葉で。銃もテレビカメラから見えるように」

 男は黙って、女の肩に手を添えた。

 マンション前の広場には10台を越えるパトカーが入り込んでいた。その背後に、報道関係者がうごめいている。

 どよめきが広がった。

 女は叫んだ。

「犯人はわたしです! 夫を殺したのは、妻のわたしです! 健二さんは何もしていません! この部屋に住んでいる恵理さんも、無実です! わたしがこの2人を利用しただけです!」

 女はかすかに男の脇腹を突いた。そして、涙を滲ませながらつぶやく。

「ほら、お芝居よ。そんなに悲しそうな顔をしてたんじゃ、誰も信じてくれない」

 男はうなずき、外に向かって乱暴に叫んだ。

「分かったか! 俺は何もしちゃいないんだ! 犯人はこの女だ!」

 女はサッシを閉じ、鍵をかけた。カーテンを引くと、男にしがみつく。

「健二さん……」

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