5
虚脱した身体を横たえた男の息は、まだ荒い。
女は、ぼろ布同然のブラウスのボタンを恥じらいながら止めていく。
ぽつりと、言った。
「わたしたち……終わり……」
男の意識にその意味が届くまで、数秒を要した。
沸き上がる不安を打ち消すために、男はさり気なさを装った。
「気が弱いな。君らしくない」
「わたしがやったこと……何もかも警察に知られてしまったのよ……」
「何だって⁉」
女は上体を起こした男に再びしがみつき、小振りな乳房を押しつけた。
男は、自分の心臓の鼓動の激しさを感じた。きつく抱き返しはしたものの、目は虚ろだった。
女はつぶやいた。
「あの人を花瓶で殴った時……あなたに言われたとおりに、わたし、手袋をつけたわ……あなたからプレゼントされた、あのシルクの手袋……ソファーに近づいて……花瓶を振りおろす瞬間……あいつ、いきなり目を開けて……そして、笑ったのよ……わたしの心を見透かすように……ぞっとして……でも、後戻りはできない……あいつ、笑ったまま、死んだわ……それで、終わり……じっと耐えてきた5年間が、終わった……だから、最後に、あなたに念を押されたように……あの手袋を燃やそうと……そうしようとしたんだけど……」
男は、女の恐怖の正体を悟った。血が凍りつく。
「処分しなかったのか⁉」
「できなかった……」
男は、コミュニケーションが不可能な異星の生物でも眺めるように、女を見つめる。
「まさか……なぜなんだ⁉ あれほど言ったのに⁉」
「だって、あの手袋はあなたがくれた物よ! あいつにわたしたちの関係を知られて、すべてを失うかもしれないのに……そんな危険を冒してまでわたしに手渡してくれた、大切な宝物……。嬉しかったわ。わたしの近くに、わたしを思っていてくれる人がいる……それだけで、嬉しかった……だから、わたしは耐えられた。毎晩、わたしはあの手袋を握りしめ、そして夢見た……いつかあなたと一緒に暮らす日を夢見て、待てたのよ。だから、燃やしてしまったら……あなたとの絆を灰にしてしまったら……もしかしたらわたしは、あなたに捨てられるんじゃないかと……」
「馬鹿な! 俺の気持ちは知っているじゃないか!」
「でも、あいつの笑い顔が……笑いながら死んでいった顔が……わたしを必ず不幸にするって呪っているみたいで……恐くて、恐くて……」
「で、手袋はどこに?」
「元のところ……寝室のクローゼットの中……」
「警察に見つけられたのか?」
「鑑識の人がビニールの袋に入れて持っていった……ねえ、どうすればいいの? わたし、気が狂いそう……」
男の顔からは血の気が引いている。
「お前は警察に疑われているのか?」
「分からない……でも、鑑識の人たちがわたしの持ち物を調べている……恐いわ……もう、隠し通す自信がない……どうすればいいの……?」
男は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「たとえ手袋から花瓶の破片が発見されたとしても、それだけでは殺人は立証できない。弱気になれば、墓穴を掘る。警察相手のこの芝居だって、君の身を守るためだったんだ。必死に考えた計画を、無駄にはさせない。俺を信じろ。俺は……俺たちは、自由になるんだ。絶対になれるんだ!」
「でも……恐い……助けて……」
「君は、そんなに弱い女じゃない。自信を持て。俺たちは、これまで兄貴に奪われてきた自由を取り返したんだ。鼻持ちならない高慢ちきを、やっと叩き潰したんだ。ここまできて……あと一歩なのに……状況は完璧なんだ……完璧なはずなんだ……だが……だが……」
口をつぐんだ男は、女を抱いた手を離してうずくまった。
女は男の背にそっと手を伸ばす。
「ごめんね……ごめんね……わたしが、言うことを聞かなかったから……あなたを、信じていれば……わたしが馬鹿だったから……」
数分間、沈黙が続いた。
と、男は不意に女の手をはねのけて立ち上がった。慌ただしく服を着て、ソファーに座る。
灰皿に残っていた長めの吸い殻を選んで火をつけた。
女は上目づかいに男を見た。煙草の火に浮かぶ厳しい表情に、うつむく。
「あなた……怒ってるのね……」
男は、はっと女を見た。
「まだ信じられないか? 君を怒ったりするものか。俺は、どこまでも、いつまでも君と一緒だ。逃げ道はある。きっとある。それを探す」
女はゆっくり立ち上がり、男の前に座った。
「許してもらえるの?」
「許す? そんな必要はない。君は俺の一部なんだからな」
「ありがとう……」
「それより先のことを考えよう。状況を整理する。俺は長い間この計画を暖め、チャンスを待った。練りに練った計画が、たかが手袋ひとつで崩れるはずはない。もう一度、君の昨夜の行動を教えてほしい。細かい事でもかまわない。思い出したことは、全部教えてくれ。いいね」
女はようやく理性を取り戻し、しっかりうなずいた。
「ええ」
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