第5話 魔法使い、走る!

どれくらいその場に立ち尽くしていただろうか。オレの中で、時間が止まった

気がした。

「おい、なにやってんだ、そんなとこで。早く中に入りなさい」

 いきなり話しかけられて振り向くと、そこに父さんがいた。

返事をしないでいるオレを変な目で見ながら、父さんは、家の戸を開ける。

「なにをしてるんだ」

「あっ、あぁ……」

 オレは、生返事をして促されるままに家の中に入った。

今のオレは、心ここにあらずといった感じだった。

 母さんが夕食を作っているときも、学校を早退したことは何も聞かなかった。

やっぱり、あいつの言うとおり、召し使いが母さんに何かいってくれたん

だろう。

「お兄ちゃん、今日は、偉かったわね。お母さん、見直しちゃった」

 思いがけない言葉で、ハッとした。

「えっ、なにが?」

「学校早退したでしょ。でもね、隣のマコちゃんを助けに行ったんだってね。

お隣さんから聞いたわよ」

 そういわれても、何のことかサッパリわからない。

「お隣さん、ずいぶんお兄ちゃんのこと褒めてたわよ。お母さん、もう、

うれしくってね」

 そういって、すごくうれしそうな顔をした。だけど、オレには、何のことか

わからないので返事のしようがない。

とにかく、明日、あいつに詳しく聞いてみようと思った。

その後、みんなで食事をしてから、早々と自分の部屋に戻ると、ベッド脇の

小窓から音がした。小窓を開けると、あいつがベランダの方を指さしている。

オレは、まるでふわふわした足取りでベランダに出る。

「今日は、ありがとね」

「いや、オレの方こそ、なんかカッコ悪いとこ見せちゃってごめん」

「全然、カッコ悪くなかったよ」

 あいつはそういって、片目をつぶってウィンクして見せた。

「あのさ、うちの母さんに何を言ったの?」

「そのことなら心配ないわよ。あたしが、登校途中に怪我したから、明に

連絡して、助けに来てもらったことになってるから」

「えぇっ! だって、お前、怪我なんてしてなかっただろ」

「声が大きいわよ」

 そういって、あいつは、人差し指を唇に当てる。オレは、思わず自分の口を

手で塞いだ。

「だって、お前、スマホなんて持ってないだろ」

「えへへ…… だから、これを見せたかったのよ」

 そういうと、あいつは、昼間動物園で買ったキリンの縫いぐるみを見せた。

「それって、さっき買ったやつじゃん」

「これにちょっと魔法をかけて、話せるようにしたの」

 やっぱり、魔法使いのやることは、わからない。

縫いぐるみに魔法をかけて話せるようにしたって言われても、まったく

飲み込めない。

「これから、これで明と話すからね」

「だから、意味がわからないんだけど」

「落とさないでね」

 そういうと、キリンをオレに投げた。オレは、それを受け取って、まじまじと見つめた。

「それに話しかけると、あたしに通じるから。もちろん、あたしからも明に

通じるからね」

「これって、電話みたいなもんか?」

「人間の世界では、そういうのよね」

「だけど、どうやって話すんだよ?」

「簡単よ。それにあたしの名前を言って、話しかけるだけ。それじゃね」

 そういって、あいつは、手を振って部屋に入ってしまった。

何の説明もしてないのに、これをどうするんだ?

オレは、キリンの縫いぐるみを抱いたまま部屋に戻った。

 ベッドに横になったまま、キリンを持ち上げてみていると、突然キリンが

しゃべった。

「うわっ、ビックリした」

 思わず、声を出してベッドから起き上がった。

見ると、キリンの角がピカピカ光って、口からあいつの声がした。

『もしもし、明』

「な、何だこれ……」 

『明、聞こえてるなら、なんかいってよ』

「も、もしもし……」

『ハイハイ』

「えっと、これでいいのか?」

『そうそう。できるじゃない。これは、あたしと明しか使えないから、他の人

とは話せないからね』

「てことは、オレたち専用ってこと」

『そういうこと』

 オレは、改めてキリンの縫いぐるみをじっと見つめた。

まったく、魔法使いというのは、不思議なことを簡単にやってしまう。

感心するしかない。

『それじゃ、また、明日ね。おやすみ』

「おやすみ」

 会話が終わると、キリンの角は、元に戻った。

なんだか、今日は、一日あいつに振り回されている感じがした。

だけど、それがちっともイヤではなかった。むしろ、うれしかったことに気が

ついた夜だった。


 翌朝もオレは、あいつと妹と学校にいった。

あいつと妹は、女同士気が合うみたいで、毎朝登校のときは、おしゃべりが

止まらない。

オレたちは、学校の手前で、妹と別れて高校の校舎の方に向かう。

 教室に入って、自分の席に着く。響子先生が入ってきて、朝のホームルームが始まる。このときも、昨日、オレが早退したことは、聞いてこなかった。

何事もなかったような雰囲気だった。

「お前、響子先生になんかした?」

 オレは、小声で聞いてみた。

「ちょっとね」

 あいつは、そういって、笑った。

オレは、それ以上は、聞けなかった。きっと、聞かないほうがいいと思った

からだ。

 午前中の授業は、特に何事もなく平和だった。

もっとも、黒板に書いてある文字をノートに写すときは、他の生徒にわからないようにペンを持たずに書いている。その方がきれいな字だからだ。

真面目に授業を聞いているのか聞いてないのか、あいつの態度は、

オレにはわからなかった。

 昼休みになると、各自で仲がいい人同士で、机を並べて弁当を食べる。

オレは、いつもの男子たちと弁当を食べて、あいつは女同士で食べていた。

やはり、女は女同士で食べるのが楽しいのか、おしゃべりに夢中で食べる速度が遅い。人間の女子たちとも仲良くなるのは、いいことだなと思っていた。

 そんなときだった。突然、教室の後ろのドアから大きな音がした。

クラス全員がその音に驚いて後ろを見た。すると、そこには、あのときの

陸上部の三年生の女子たちが数人立っていて、教室の中に入ってきた。

 あんなことがあってから、先輩たちは、陸上部に勧誘するようなことは

しなくなってホッとしていたのに、今になって、また来たのか?

先輩たちは、ずかずか教室に入ってくると、あいつを取り囲んだ。

いっしょに弁当を食べていた女子たちは、こそこそ逃げていく。

「何か、用ですか?」

 あいつは、箸を置いて先輩たちを見上げていった。

すると、先輩たちは、両手を合わせて拝むようにすると、体を九十度に曲げて

頭を下げた。

「お願い。今度の日曜日の大会に出てほしいの」

「えっと、悪いけど、陸上部には入るつもりはないんだけど」

「臨時でいいの。一回だけでいいから、走って欲しいのよ」

 そういうと、先輩たちは、あいつに懇願するように話を始めた。

「リレーのメンバーが一人たらないのよ。怪我しちゃって走れないの」

「今度の大会は、どうしても優勝したいの。だから、あなたに走ってほしいの」

「ねぇ、お願いだから、一回だけでいいから走ってくれない?」

 要するに、リレーのメンバーが怪我して足りないから、あいつを助っ人に

しようということだった。

助っ人だから、正式な部員でなくてもいいというわけらしい。

「お願い。このとおり」

 そういって、先輩たちは、両手を合わせて頭を下げた。

あいつは、困ったような顔でオレの方を見る。オレは、両手でXにする。

「やっぱり、ダメだって」

 あいつがそういうと、今度は、先輩たちがオレの方にやってきた。

「ねぇ、あなたからもお願いしてくれない?」

「いや、そういわれても……」

「今度の大会は、どうしても優勝したいの。だから、あの子を貸して

欲しいのよ」

 オレも困って、返事が出来ない。すると、あいつは、椅子から立ち上がると

こういった。

「わかったわ。走ってあげる。でも、一度だけよ」

 なんてことを言うんだあいつは…… 魔法使いが人間と走ったらダメだろ。

「ホント?」

「ホントよ。魔女は…… じゃなかった、女は、ウソはつかないから」

「よかった。これで、優勝間違いないわ」

「そうと決まれば、練習ね」

「後で、詳細を見せるから、今度の日曜日は、お願いね」

 そういうと、喜んで先輩たちは、教室から出て行った。

オレもあいつも、ホッと息をついた。しかし、あいつが大会で走るって、

絶対まずいだろ。

「マコ、お前……」

「だって、しょうがないじゃない。明が困ってたんだもん」

 そこか…… いや、困ってたのは、オレじゃなくて、陸上部の先輩たちだろ。

「あの人たちって怖そうじゃない。明の困ってる顔を見てたら、走るだけなら

やろうと思ったのよ」

 その気持ちは、ありがたいが、そこは、先輩たちのほうじゃないか。

「でも、大丈夫なのか?」

「平気、平気。走るの得意だもん」

「そういうことじゃなくて……」

「大丈夫だって。本気出さないから」

 そこは、小さな声で言う。だけど、リレーってわかってるのか、

そこは確認しないといけない。

「お前、リレーって知ってる?」

「なにそれ? 知らないけど。走ればいいんじゃないの?」

 やっぱり、知らなかった。そうだと思ったけど、オレのカンが当たって肩を

落とした。

「なになに、どうしたのよ?」

「わかった。あとで、教えてやるから」

 オレは、そういって、弁当の続きを食べ始めた。

クラスのみんなは、オレや先輩たちとのやり取りを唖然としてみていた。

今度の大会は、無事に終わるのか? オレのカンが当たれば、終わらないだろう……


 放課後、オレは、あいつと創作同好会の視聴覚室に向かった。

すると、三年生の会長からいきなり話しかけられた。

「神崎さん、あなた、今度の陸上の大会に出るんだって?」

「ハイ、臨時ですよ」

「がんばってね。ウチの同好会の代表として、優勝してちょうだいね」

 その前に、何で会長は、このことを知ってるんだろう?

「実はね、ウチのクラスに、陸上部の人がいるのよ。その子が、さっき

うれしそうにあたしに言ってきたのよ」

 なるほど。そういうことか。確かに、以前、陸上部に勧誘されたときに

創作同好会を辞める辞めないで、会長に話をしたことを思い出した。

会長は、陸上部の先輩たちと同じクラスだったのか。

それなら、話は早い。オレは、恐る恐る会長に話を切り出した。

「あの、それで、会長にお願いがあるんですが……」

「アラ、珍しいわね。明くんがお願いなんて。何かしら?」

「実は、マコにリレーの説明して欲しいんですけど……」

「ハァ? 何を言ってんの? 神崎さん、あなた、リレーを知らないの?」

「えぇ、まぁ……」

「呆れたわね。リレーを知らないなんて。小学校で走ったことなかったの?」

「だって、小学校なんて、行ってないし……」

 オレは、慌ててあいつの口を塞いだ。魔法の国は、小学校はないのか?

初耳だったので、オレも驚いたが、あいつが魔法使いだってことを知らない

会長たちはもっと驚いていた。

「あの、だから、その…… マコは、小学校は、余り行ってなくて、だから、

リレーとか知らないみたいなんだ」

「ふぅ~ん、あなたって足が早い割りに、体が弱かったのね」

「何のこと? 別に悪くないけど」

「だから、お前は、ちょっと黙ってろ」

 オレは、あいつを遮って話を進める。

「えっと、だから、マコにリレーを説明してやって欲しいんです。ほら、

バトンパスとかあるでしょ」

 オレは、冷や汗をかきながら会長に説明した。

「それくらいならできるけど」

 会長は、不思議そうな顔をしながら納得してくれた。

「ほら、お前は、会長の言うことちゃんと聞けよ」

 ホントなら、オレが説明して教えればいいけど、何しろ口下手で、

運動音痴なのでオレが言うより、口がうまい会長に教えてもらった方がいいと

判断したのだ。

「それじゃね、まずはリレーって言うのはね」

 会長は、黒板を使いながら、リレーのルールを説明してくれた。

そして、ノートを丸めて、バトンの代わりにして、バトンパスの見本まで

示してくれた。

 実際に、身振り手振りであいつも真似しながら、何とかやり方はわかった

ようだ。

「どう、出来そう?」

「わかりました。もう、大丈夫です」

「バトンを落としたら失格だから、ちゃんと受け取って、相手にも渡すのよ」

「ハイ、練習します」

「その意気よ。がんばってね」

 会長や他の部員たちにも励まされて、あいつも気分がよくなったようで、

楽しそうだった。

学校からの帰り道、もう一度リレーのことを聞いてみた。

「大丈夫かよ。ちゃんとバトンパスできるか?」

「平気よ。あんなの簡単じゃん。もらって、走って、渡せばいいんでしょ」

「軽く言うなよ」

 オレは、少し呆れて言った。

「それより、お前、小学校とか行ってないの?」

「うん、あたしは、ずっと魔法学校だったからね」

「そんな学校って、あるんだ」

 魔法の国は、謎がありすぎる。一から、聞いたほうがいいかもしれない。

「それと、走るときは、本気は出すなよ」

「半分も出さないから」

 その半分も出さないからというのが、一番怖いのだ。

あいつは、調子がいいから、周りから応援されたり、いっしょに走る選手が早いと我を忘れて走り出すことがある。そこが、一番心配なのだ。


 翌日の土曜日は、授業は午前中で終わりだ。

オレの様な同好会に所属している生徒や、帰宅部の生徒は、午後には帰っても

いいことになっている。

創作同好会は、基本的に土曜日は、各自の自習という名目で集まることはない。

しかし、今日に限っては、授業が終わったからといって、帰るわけには

いかない。なぜなら、あいつが日曜日の大会の練習に、臨時で陸上部の練習に

参加するからだ。

 一応、出場するので、他のメンバーとの顔合わせや練習も必要らしい。

リレーのメンバーならなおさらだ。他の選手と息を合わせないとバトンパスも

うまく行かないだろう。

あいつ一人じゃ、なにをしでかすがわからないので、オレは、見張り役と

いうことで練習をこっそり見学することにした。

 校庭に行くと、すでに着替えたあいつは、陸上部の選手たちと準備体操などをしていた。その後、先輩たちから紹介されて、いよいよリレーの練習を始める。

オレは、校庭の隅っこで、目立たないように見ている。

 とは言っても、あいつには、オレがどこで見ているかわかるらしい。

ときどき、オレの方に手を振ったりしている。そんな余計なことはしなくて

いいんだが……

 先輩たちと何か話している。打ち合わせやリレーのコツなどを話している

ようだがオレには聞こえないので、何を言ってるのかわからない。

そして、しばらくすると、メンバーの四人がトラックに分かれていよいよ

リレーの練習が始まった。

どうやら、あいつはアンカーらしい。女子のリレーは、二百メートルなので

一人五十メートル走るわけだが、あいつだったら、楽勝だろうなと思った。

後は、うまくパトンをつなげるかということだ。

 合図とともに第一走者がスタートした。今は練習で、競争相手がいないので

どれくらい早いのかは見当がつかない。

きっと、今は、バトンを上手につなげるかの確認なのだろう。

 第二走者にバトンパスが繋いだ。見た目だが、陸上部だけあって、

すごく早い。第三走者にもバトンパスが成功した。問題は、あいつだ。

アンカーという、責任重大なポジションなのを、わかっているのか不安だ。

 第三走者が近づいてきた。あいつは、後ろを見ながらタイミングを計って

いた。

そして、少しずつ走り出しながら、左手を後ろに突き出す。

そこまでは、昨日の同好会で練習したとおりだ。アンカーだから、バトンを渡す必要はない。もらったら、そのままゴールすればいいだけだ。

 第三走者が近づいて、あいつにバトンを渡す。だが、あいつのが早くて、

バトンを渡せない。

「ダメだって、早すぎるんだよ」

 オレは、思わず声に出てしまった。

うまくバトンパスが出来ずに、先輩たちがあいつの周りに集まって、

もう一度確認している。見ているこっちのがイライラしてくる。

 そして、もう一度、第一走者からスタートした。

第三走者までは、順調にバトンが渡った。オレは、祈るような気持ちで

あいつを見た。

「頼むぞ」

 オレは、手を合わせて神様に祈った。

今度は、さっきよりも足を緩めている感じだった。第三走者に合わせている。

そして、バトンを受け取った。

「よし! やった」

 オレは、思わず、ガッツポーズを作った。

だが、あいつを見れば、ものすごい速さでゴールを走りぬけた。

「あのバカ……」

 オレは、ガックリと肩を落とした。飛び出して、ゆっくり走れといいそうに

なるのを堪えるのが大変だった。

あいつにとって、五十メートルは短すぎるのだ。男子レベルの四百メール

くらいが丁度いい。それなら、一人百メートルだから、走りがいがある。

しかし、女子だから、半分なのだ。

 ゴールすると、あいつの周りにまたしても選手たちが集まりだした。

何を言ってるのか、聞きたい衝動を我慢するのが苦痛だった。

あいつを見れば、へらへら笑っているだけで、なにを話しているのかわからないのがもどかしい。

 それからも、何度かリレーの練習を繰り返した。

どうにか、バトンリレーも無事にそつなくこなせるようで、まずは一安心だ。

しかし、あの足の速さは、どうにかならないかと考える。

まさか、重りをつけて走らせるわけにもいかない。

 見ていると、女子の選手ばかりか、男子選手たちも集まりだした。

顧問の先生も加わって、何か話をしている。

何か嫌な予感がする。胸の中に、黒い靄のようなものが渦巻きだした。

 オレの心配をまったく知らないあいつは、一度スタート地点に立つと、

他の選手たちと競走を始めようとしていた。

「まずい」

 オレは、何とかして止めないといけないと思った。

しかし、オレが飛び出して止めると余計混乱するだろう。

「どうする……」

 オレは、数秒の間で考えた。しかし、オレの頭では、何も考え付かない。

その間にも、あいつは、号令とともに走り出した。

「やめろ!」

 オレは、我を忘れて声を上げていた。

しかし、オレの声は、生徒たちの歓声であいつには届かない。

見れば、女子はもちろん、男子の選手もいっしょに走っていた。

「ダメだって、走っちゃ」

 すでにオレの声は、かき消されてあいつには聞こえていない。

見れば、あいつは男子選手に合わせるように走っている。

しかも、余裕の表情だ。それに引き換え、男子選手は、かなり必死の表情だ。

併走するように走っている。そして、ゴールの寸前で、抜き去ったのだ。

 体を曲げて、両膝に手を置いて、苦しそうに呼吸している男子選手を尻目に

あいつは、汗一つかいてない様子で、笑っているのだ。

「もうダメだ。明日も大変なことになる」

 オレは、明日のことを思うと、落ち込んでいく。

隠れていた大きな桜の木に寄りかかってガックリしていた。

すると、そこにあいつが笑顔で駆け寄ってきたのだ。

「えへへ、勝っちゃった」

 オレは、今ここで、説教をしてやろうと思った。

しかし、あいつの笑顔を見ると、とてもそんな気にはなれなかった。

「本気出すなって、言っただろ」

 やっとの思いでいったのが、この一言だった。

「ごめん。明日は、うまくやるから」

 そういうと、両手をパチンと合わせてニコッと笑った。

「練習終わったから、着替えてくるね」

 そういって、更衣室に戻っていった。あいつの後姿を見送りながら、

ホントは拍手を送りたかった。


「お待たせ」

 制服に着替えと戻ってきたあいつは、後ろに束ねていた髪をいつものように

戻していた。

「なんか、疲れちゃった。走ってないけど、気を使うわね」

「あのさ、さっき、先輩とか先生になんか言われてただろ?

「うん。本気で上を目指さないかって言われたわ」

「それで、なんていったんだよ」

「興味はないって、いったのよ」

 そのときの先輩たちや先生たちの落胆は予想できる。なんか悪いことを

したような気がした。

「だって、明は、その方がいいんでしょ」

「そうだけど……」

 オレの気持ちは複雑だった。確かにあいつが走れば、新記録も夢じゃない。

学校としても名誉だ。こんな選手は、二度と生まれないだろう。

なにが何でも、大会で優勝して欲しいと思うのも当たり前のことだ。

「男子と走って、勝っちゃダメだぞ」

「わかってるけど、遅いんだもん」

 あいつは、あっさりそういった。本気を出してなくてもこれなのだ。

「明日は、頼むな」

「わかってるって。ちゃんと明のいうとおり、力は出さないから」

「でも、優勝はしろよ」

「もちろんよ」

「優勝したら、思いっきり、走らせてやるから」

「ホントに?」

「約束するよ。好きなだけ、走っていいから」

「やったー! ホントは、思いっきり走りたかったんだ」

 あいつは、ホントにうれしそうだった。さて、どこで、走らせるか。

それをこれから考えないとな。

「明日は、絶対優勝するからね」

「わかってるよ。オレも見に行くから」

「明も応援に来てくれるの? それじゃ、がんばらなきゃ」

「イヤイヤ、がんばらなくていいから。お前の力なら、がんばらなくても

優勝できるから」

「う~ん、でも、それじゃ、他の人たちに悪いじゃない」

「確かにそうだけど、だからといって、ぶっちぎりで勝ったら、後が大変だぞ」

「それもそうか……」

 あいつは、わかったようなわからないような、中途半端な返事をしていた。

「とにかく、明日は、適当にがんばれよ」

「うん。適当にがんばる」

 あいつは、そういって、ガッツポーズを取った。


 その晩、オレは、いつものように家族と夕食を食べると部屋に篭もって、

明日優勝したら、あいつをどこで走らせるか、考えていた。

 そんなときだった、あのキリンの縫いぐるみからあいつの声がした。

『もしもし、明、聞こえる?』

 オレは慌ててベッドから降りて、キリンに向かって返事をした。

「ハイ、聞こえるよ」

『ちょっと、外に出て話さない?』

「わかった、今行く」

 オレは、そういってベランダに出た。

「ヤッホー。明日、がんばるからね」

 あいつは、そういって、手を振っている。

「がんばれよ。応援するからな」

 オレもそういって応えた。

「早く、明日にならないかな……」

 あいつは、そういって、夜空を見上げた。珍しく星が見える夜だった。

「明日のこと、執事とか召し使いには言ったの?」

「一応ね。絶対、本気出したり、魔法は使うなって、明と同じことを言われたわ」

 あいつの言うことに、思わずオレは、笑ってしまった。

オレも、ついに、執事や召し使いと同じレベルにまでなったのかと思った。

「もう、笑わないでよ」

 あいつは、そういって、プイと横を向いてしまった。

「ごめん、ごめん。みんな心配してるんだよ」

「そうかなぁ……」

「そうだよ」

 そして、あいつは、少し黙ると、不意にこっちを向いてこういった。

「ねぇ、明日、優勝したら、お祝いして」

「いいよ。思い切り、走れる場所を探しておくから」

「それじゃなくて、違うことよ」

「違うこと?」

「そう。明日、勝ったら、優勝パーティーするの。だから、明も来てね」

「パーティーって、どこでやんだよ?」

「決まってるじゃん。あたしんちよ」

「えっ、おまえんちでやるの?」

「ポロンが張り切って、料理を作るって。だから、絶対来てね」

「行くのはいいけど……」

 オレの頭の中では、あいつの家で食べている料理のことが気になった。

パーティーと言うからには、きっと豪華な料理なんだろう。

だけど、それがどんなものなのか、まるで想像がつかなかった。

ウチみたいに、いわゆる寿司とか、から揚げとか、焼肉とか、余り普段は


食べないようなものしか思い付かないが、きっと、想像も付かない豪華な

料理なんだろうと思った。

パーティーに行くのが、楽しみなようで、不安なような、微妙な気持ちだった。

「それじゃ、また明日ね。おやすみ」

 そういって、あいつは、部屋に戻っていった。

ちなみに、今夜もあいつのパジャマは、ピンクで胸にキリンのマークが

ついていた。優勝したら、キリンのことも聴いてみようと思った。

 

 そして、翌日、日曜日の朝は、見事に晴天で雲ひとつない青空だった。

まさに、大会日和だ。オレは、母さんに弁当を作ってもらってあいつを迎えに

行った。

「おはよう」

「明、おはよう。今日は、がんばるからね」

 あいつは、そういって、元気よく家を出て行く。

会場までは、陸上部の人たちと、学校で手配したバスで行くらしい。

オレは、一足先に、電車とバスで会場に向かう。

あいつを一人にさせるのは、ものすごく心配だけど、いっしょに行くわけには

いかないので仕方がない。 学校まで、いっしょに行って、そこで別れる。

「しつこいようだけど、一人で大丈夫か? 先輩たちに何か言われても我慢しろよ」

「わかってる、わかってる」

「それと、魔法を使うなよ。それから、魔法の国のこともないしょだぞ」

「もう、明しつこいよ」

 そういうと、オレに手を振りながら、走っていってしまった。

「じゃあね。また、後でね」

 オレも手を振り返すが、あいつの後姿を見て、不安しかなかった。

初めてオレから離れて一人だけで、他の人たちといっしょになる。

会場までは、バスで三十分の距離だ。すぐに着くから心配ない。

 しかし、車内は、魔法使いだということを知らない生徒たちばかりなのだ。

なにを聞かれるかわからない。あいつのことだから、口が滑ることだって

十分考えられる。オレが傍に居てやれないのが、心から悔やまれる。

 オレは、別の路線バスで会場に向かうが、その間も気が気ではない。

少し遅れて会場につくと、オレは、チケットを買って観客用のスタンドに

いった。

あいつと陸上部員たちは、すでに来ているようで、ユニフォームに着替えているところらしい。

オレは、あいつがわかるように、一番前の席に座った。

他の席には、学校関係者や父兄の人たちが応援に来ていた。

 入場するときにもらったパンフレットを開くと、まずは、入場式がある。

「いかん、入場式のことは、教えてないぞ。大丈夫か……」

 あいつのことだから、きちんと整列して入場行進とかできるのか? 

関係者が挨拶しているときに、じっとしていられるのか?

限りなく不安が募る。かと言って、今更、グラウンドに下りて教えることは

出来ない。陸上部の先輩たちが頼みだった。

 時間丁度に大会が始まった。まずは、開会式だ。そして、入場行進が始まる。

入場するのは、あいうえお順なので、ウチの学校は、すぐには出てこない。

オレは、今か今かとあいつが出てくるのを首を長くして待っていた。

 そして、いよいよ、ウチの学校が呼ばれて、選手たちが入ってくる。

オレは、あいつを目を皿のようにして探した。

「どこだ。どこにいる」

 身を乗り出して、あいつを探す。すると、いきなり肩を誰かに叩かれた。

こんな大事なときに、だれだ。今は、それどころじゃない。

オレは、それを無視して柵に手をかけてあいつを探す。しかし、どこにも

見当たらない。まさか、遅刻したのか。それとも何か事故でもあったのか。

 そんな不安で一杯なところに、またしても肩を叩かれた。

邪魔をされて、仕方なく振り向くと、あいつが笑って立っていたのだ。

「な、何で…… なんでいるんだ?」

 オレは、ビックリして、声が裏返るほどだった。

「つまんないから、出番まで明といる」

 あいつは、そういって、オレの隣にジャージ姿で腰を下ろした。

「ちょ、イヤ、そうじゃなくて…… おまえ、ここにいちゃダメだろ」

「なんで?」

「なんでって…… おまえ選手だろ。あっちにいなきゃダメだろ」

「だって、あたしは、臨時の選手だから、いなくていいって言われたんだもん」

「えーっ!」

「だから、始まるまで、ここにいるの」

 突然のことで、頭の中がパニック状態のオレを横目に、あいつは涼しい顔を

して座っている。

「ねぇ、お腹空いた」

 こんなときに何をいってるんだ。あいつは、ことの重大さをまるで

わかってない。

「飯なんて、後でいいだろ。それより、みんなのとこにいなくていいのかよ」

「リレーの時間て、まだ先なんだよ。だから、お腹空いちゃうし」

「イヤ、走る前に食ったら、走れないだろ」

「そうなの?」

「そうなの。だから、もう少し我慢しろ。終わったら、好きなだけ食べて

いいから」

「ちぇっ…… つまんないの」

 そういって、あいつは、横を向いてしまった。緊張感の欠片もない。

プログラムを見ると、確かにリレーは、最後の方だ。まずは、短距離などの

予選から始まる。フィールドでは、走り高跳びとか幅跳びなどの競技もあった。

オレは、観念して、あいつの相手をすることにした。

 あいつは、オレの隣で、まるで観客のようにグランドで始まっている競技を

見ていた。

「あたしだったら、もっと飛べるんだけどなぁ……」

 走り高跳びを見ながらそういった。そりゃ、そうだろ。

あいつは、魔法使いなんだから。

魔法を使えば、高層ビルくらいひとっ飛びだ。

「もっと、ジャンプできないのかしら?」

 今度は、走り幅跳びを見て呟いた。

「だから、それが人間なんだよ」

「そうなんだ」

 余り感心がなさそうにいった。あいつの目から見れば、人間の体力など

たいしたことがないのだろう。

今日は、大会日和で太陽の陽射しで眩しいくらいで暖かかった。

気がつくと、あいつは、オレの肩にもたれかかって、居眠りをしていた。

どこまでも緊張感がない。オレは、あいつの寝顔を見て、ため息しか

出なかった。

 

 競技は、順調に進んで、いよいよリレーの時間がきた。

「おい、そろそろ起きろよ」

 オレは、肩を揺らして起こしてみた。

「あっ、ごめん。気持ちいいから寝ちゃった」

 これが、これからリレーに出る選手の態度かと、説教の一つもしたくなる。

「ほら、そろそろ行けよ。みんな待ってるぞ」

「は~い、それじゃ、行ってくるね」

「がんばれよ。それと……」

「わかってるって。本気は出さないから」

「絶対だぞ」

「ハイハイ、それじゃね」

 あいつは、笑ってグランドに下りていった。

他の選手たちとも無事に合流できたようで、まずはホッとした。

 会場アナウンスで、いよいよリレーの順番が来た。

選手たちが誘導されて、各コーナーに向かう。あいつの様子を見て、

緊張はしてなさそうだ。

後は、無事にバトンを受け取れるかだ。何はなくとも、それに限る。

バトンをもらえなかったら、いくら一位でゴールしても、失格なのだ。

あいつより、オレのが緊張してきた。そして、いよいよそのときがやってきた。 

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