第23話

「耕貴も、歌ってよ。」

日付は、三月十九日に変わっていた。耕貴と香は、あれから、関内のBARで、日付が変わるぐらいまでお酒を楽しみ、今はカラオケボックスの一室にいる。

「香ちゃん、飲み過ぎやで、もう、帰ろうや。」

「あっ、そんな事言って、部屋に連れ込んで、私の事、抱きたいんでしょ。」

この言葉から、わかる様に、香は、完璧に酔っ払い、出来上がっている。裏を返せば、それだけ、楽しいのであろうし、うれしいのである。

「そんな事よりも、歌ってよ。耕ちゃんが、歌わないんだったら、私が、入れちゃお。」

…耕貴は、呆れかえると云うよりも、困っていた。この状態であれば、耕貴も、ある程度飲んでいる。しかし、酔えないでいた。こんな香の状態を見ていたら、酔いたくても、酔えない。

「はい、入れました。(リンダ・リンダ)だよ。一緒に、歌おう。」

マイクを握り締め、耕貴の手を引いて、カラオケボックスのステージの上に移動する。耕貴の隣で、リズムに乗り、飛び跳ねている香の姿に、頭を抱えてしまう。

「耕ちゃんも、ほら、リンダ、リンダ…!」

<わかったよ、わかった>香に付き合い、ステージ上で、飛び跳ねている耕貴。こんな状態を楽しんでいる自分もいた。

(耕ちゃん、耕ちゃん)香のそんな言葉が、気になり始める。香が、耕貴の事を呼んでいるだけなのに、なぜか、気になり始める。

「耕ちゃん、今度、これ、歌おう。じゃあ、これ、歌ってよ。私が、耕ちゃんに、歌ってもらいたい曲、ねぇ、ねぇ!」

「別に、ええけど、俺が、歌える奴やで…」

香が耕貴の事を呼ぶ名称が、(耕貴君から、耕貴、耕ちゃん)になっていた。別に、呼び名なんて、どうでもいいのであるが、何か、気になってしまう。不快と云うわけではない。香は、酔っぱらっているのであるのだから、仕方がない。

「耕ちゃん、入れたよ。多分、大丈夫。はい、マイク持って…」

耕貴は、マイクを持って、曲を待っていると、聞き覚えのあるメロディーが、この空間に流れている。(もうひとつの土曜日)浜田省吾の曲である。三時間以上、このボックスで歌い続けているが、バラードは初めてである。香の選曲にも驚いたが、歌える曲なので、モニターの画面を見つめていた。メロディーが流れ出し、歌い出す。耕貴は、歌いながらも、モニター画面に映し出される砂浜の映像に、気がいってしまう。波打ち際、夕暮れの海岸。夜の海に浮かぶ船の灯り。耕貴は歌っているのであるが、そんな風景画像が、気になってしまう。間奏に入り、<耕ちゃん上手いね。耕ちゃん…>そんな香の言葉が耳に届いた時、モニターの映像と、香の(耕ちゃん)と云う言葉が、重なりあった時、何か、懐かしいものを感じた。記憶の奥底にあったものが、動き出した。はっきりしたものが、奥底から、ゆっくりと浮かび上がってくるような気がした。


耕貴が手を上げて、タクシーを止める。

あと、一時間もすれば、日の出の時刻。耕貴は、酔い潰れた香を支えながら、大通りに出ていた。一日が動き始める、少し前の時間帯。隣の香は、半分意識が飛んでいた。

「すいません、近いですけど、吉野町まで、いいですか。」

タクシーの運転手に、気遣いの言葉を入れ、タクシーに乗りこむ二人。時計の針は、午前五時を廻っていた。少しではあるが、周りの景色が、明るくなってきている。タクシーの運転手も、夜勤疲れをしているのであろう。必要以上の会話もなく、車を走らせる。

香は、耕貴の腕を放さない。もう半分夢の世界にいるのだろうに、耕貴の腕にしがみつき、身体を預けている。正直、耕貴も疲れているのに、気になっている事があるのか、頭は働いていた。

【もう一つの土曜日】を、歌っていた時の感覚。モニター画面の砂浜の映像と、(耕ちゃん)と云う呼び名。とても、大事な事を、思い出せないでいるような気がしていた。

(何なんだろうな。何か、大事な事。思い出さな、あかんねん)

(あの砂浜、海、香が云う耕ちゃん、気になる。思い出されへん)

そんな言葉が、頭に浮かんでは、消えていく。

「すいません、次の交差点、右に行ったところで、止めてください。」

タクシーの運転手に、そんな言葉を声にすると、隣にいる香にも声をかける。

「香ちゃん、起きてや。起きて、もう着くで!」

絡まっている腕を抜いて、香の身体を揺すってみる。

「起きてや、起きィ、香ちゃん!」

<うぅん、ふぅん?>香が目を覚ますと、同じぐらいに、タクシーが止まる。耕貴は料金を払い、まだ、起き切っていない香の腰に手を回し、力を入れる。エレベーターを使い、自分の部屋に向かった。

「あぁ、着いたで、ほら、ここでねとき。」

自分の部屋の鍵を開けて、面倒なので、土足のまま、ベッドに寝かせる。そして、香の靴を脱がせてやると、キッチンに足を向ける。ワンム―ムマンションの据え付けの小さい冷蔵庫から、ミネラルウォーターを、グラスに注ぎ、香に飲ませてやる。

「香ちゃん、これ飲んで、眠りや。」

ゴックン・ゴク…!

そんな言葉を添えていた。上半体を起こして、グラスの水を一気に飲み干した香は、目を大きく見開き、こんな言葉を口にする。

「耕ちゃん、しよう。エッチ、しよう。」

<えっ!>空になったグラスを、持っている耕貴。飛び着く様に、抱きついた。

「危ないよ。飲み過ぎたんやから、寝ぃって…」

「いや、したいの。耕ちゃんと、したいの。」

そんな香の誘いの言葉。耕貴も、健康な男性である。断る理由もなく、グラスをベッドの脇に置くと、唇が重なり合っていた。長いディープキス。その時、耕貴の後頭部を、ハンマーで殴られた様な衝撃が走る。それと同時に、耕貴の頭の中に、色々な映像が浮かび上がってきた。十年前、夕貴と見ていた【樽井の浜】の映像が、次々と流れ始める。

(樽井の浜・夕貴ちゃん・十年前・この場所で…)

耕貴の心の叫び。忘れてしまっていたものを思い出した。

『…十年後、夕貴ちゃんの誕生日に、ここで逢おう。』

幼い耕貴が、口にした言葉。十年前、夕貴の約束。

「香、今日は、何日や!」

耕貴は、目を見開き、香の唇から離れる。思わず、そんな言葉を、香に問いかけていた。キョトンとする香をよそに、周りを見渡し、カレンダーに視線を向ける。

「今日は…三月十九日や。…今日やん。どないしよ…ごめん、香。」

そんな言葉を発して、頭を抱える。香にとって、一瞬の出来事であった。頭を抱えていた耕貴は、部屋を飛び出していた。咄嗟にしてしまった事。しかし、耕貴は、振り返ろうとはしない。タクシーに乗って、【新横浜】に向かい、新幹線に飛び乗っていた。香を一人にして、部屋を飛び出した事よりも、夕貴との約束を忘れてしまっていた自分を、恥じている。あんなに大事にしていた夕貴への想い。いつの間にか、忘れてしまっていた自分を、責めていた。無我夢中で、新幹線に乗り、夕貴との約束の場所、【樽井の浜】向かう。


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