第19話

―京都―

三月十五日、清涼寺。嵯峨野お松明と云う行事が、行われている。涅槃会の法要の後、すっかり暗くなった境内に、高さ六・七メートルの三柱の逆円錐形の大松明に、護摩木の火を点じた、藁束で火をつける行事。簡単に云えば、でっかいキャンプファイヤー。この行事を見に行く事が、夕貴の家の年次行事になっていた。

夕貴は、会社からの早めの帰宅、支度を済ませて待っていると祖母の小町と、タクシーに乗り、清涼寺に向かう。母、千鶴子とは、清涼寺の仏門の前で、待ち合わせをしていた。碁盤の目の様になっている京の道を、嵐山の方に向かう。一時間程タクシーに乗り、清涼寺の近くで降りる事にする。人の通りが多いので、清涼寺の仏門まで、歩いて行く事にした。三月と云っても、京都は、まだ寒い。小町の歩幅に合わせて、ゆっくりと、清涼寺に向かう夕貴。仏門の前で待つ事、数十分。参拝者も増えてきた中、母、千鶴子の姿が、夕貴の瞳に映った。

「母さん、こっち、こっち!」

大声で、千鶴子に手を振り、自分の位置を知らせる。そんな夕貴の大声に気付き、周りの人間に気を配り、仏門前で待つ二人に駆け寄る。

「お婆ちゃん、夕貴、かんにんな。仕事で、遅れてもうて…」

「母さん、遅いで、何しとったん。」

仕事を早退して、家に戻り、小町をここまで連れてきた。夕貴は、少しおかんむりの様子。

「そやかて、仕事やったんやから…」

「私も、仕事、やっているちゅうねん。」

機嫌が悪いのか、そんな言葉を、千鶴子にぶつけてしまう。

「ほんま、堪忍や。急いで、来たんやから、堪忍してや。」

「謝れば、ええってもん、ちゃうっちゅうねん。」

ちょっとした、親子喧嘩を始めてしまう二人。

「ちょい、待ち、夕貴。しゃぁないやろ。仕事やったんやから、あんたに、そこまで、言われる筋合いないわ。」

「何やて、母さん。そんな言い方ないやろ。待たせる方が、悪いとちゃうん。」

「何、喧嘩腰に…やから、最初に、謝ったやろ。ブツブツと、うるさいわ。」

確かに、遅れてきた千鶴子が悪いし、始めから、喧嘩腰に言葉を発した夕貴も悪い。

<千鶴、夕貴!>間に立たされた小町が、二人を恫喝する。二人の口喧嘩が止まり、視線が、小町に向けられる。

「あんだら、仏様の前で、みっともない。いい大人が、こんな所で、恥ずかしくないんか。仏さまの前で、喧嘩するなんて、罰が当たるで!」

生粋の京女の恫喝が、二人を鎮める。これから、仏様に手を合わせようとする人間が、喧嘩をするなんて、みっともない事である。

「わかったか。ほな、行くよ。」

そんな言葉を発して、境内に入っていく小町。何も言い返せない二人は、小町に続いたのは云うまでもない。

大松明の周りを、大勢の人達が取り囲んでいる。参拝をし終えた三人も、この取り囲んでいる群衆の中にいた。

「毎年の事やけど、ぎょうさんいるね。」

「今年は、少ない方とちゃう。」

さっきまで、喧嘩していた二人が、そんな言葉を交わす。仏様の前で、気が治まったのか、小町の恫喝が効いたのか、穏やかに、会話をしている。

「母さん、ちょっと、聞いてもええ。」

「何、夕貴。」

「ずっと前から、疑問に思っていた事なんやけど…」

大松明に、火が入るのを、今か今かと待つ千鶴子に、こんな言葉を投げかけていた。

「何、疑問って、難しい事、聞かんといてや。」

二人は、大松明に視線を向けながら、そんな言葉を交わしている。

「あんな、どうして、毎年、ここに来な、あかんの。」

<えっ!>思わず、視線を大松明から逸らし、夕貴の横顔を瞳に映す。千鶴子が、考えもしなかった疑問。夕貴は、まるで小学生の質問口調で、問いかけていた。

「どうしてって、言われてもやなぁ。母さんも、子供の頃から、毎年、足を運んでいた事やし…」

言葉に詰まった千鶴子に、続け様に、こんな言葉を重ねた夕貴。

「ワケがないの。やったら、来なくてもいいって事…」

「まあ、確かに、母さんも泉州におる時、来んかったし…」

「…って事は、私も、来年からは来なくても、ええって事やね。」

益々、言葉に詰まる千鶴子。来なくてもいいって事は、言い切れないでいる。千鶴子が、子供の頃からの行事。毎年、三月十五日には、ここ清涼寺に来て、目の前の大松明が、燃え上がるのを見ると云う事が、当たり前となっていた。

「来なくても、いいって事はないわ。理由は分からんけど…あっ、お婆ちゃんなら知っているやろ。」

そんな言葉を発すると、千鶴子の視線も、夕貴の視線も、祖母、小町の方に向いた。そんな時、火がついた護摩木を持ったお坊さんが姿を見せた。自祭と周りの群衆が、ざわめき始める。二人の会話が途切れ、当たり前の様に、視線を、お坊さんが持つ護摩木に集中する。お坊さんが、大松明の根元に敷かれた藁束に、火を近づける。藁束に火がつき、ゆっくりと大松明に、火が広がっていく。しばらくすると、勢いよく、大松明が燃え上がる。

『うォおお…!』と、群衆から、地響きのような声が上がる。もちろん、その群集の中にいる三人も、声を上げている。

<今年も、豊作やね>隣の小町がそんな言葉を発した。

「夕貴、この大松明は、火の勢いで、今年の農事の吉凶を、占うとされている。」

次に、夕貴に問いかけ、こんな言葉を口にする小町。大松明の火の勢いから、目を逸らして、小町の視線を向けてしまう夕貴。

「わしも、千鶴と同じように、子供の自分から、毎年、ここに足を運んで来とった。」

先程の二人の会話が、耳に入っていた小町。千鶴子に問いかけた夕貴の疑問に、答えようとしている。

「だから、毎年、ここに足を運ぶ理由など、知らへん。でもなぁ…」

大松明が、燃え上がる中、暗くなった境内を、夕日の様に、真っ赤に染めている。

「もしかしたら、わしらのご先祖様は、この辺の農民やったのかもしれん。ここに釈迦像を納めた僧侶の子孫なのかもしれん。嵯峨野と云う土地に、何だかの縁が、あるのかもしれん。」

小町の姿が、大松明の火勢で、真っ赤に染まる。そんな姿を目にして、小町の言葉が、夕貴の耳に届いていた。

「まァ、理由なんてもんは、どうでもええんよ。お雛さん、お精霊さん、お月見、えびすさん、四季にはぎょうさんの祭礼、行事がある。伝わり、続けられてきたものには、なんかしらの意味があるもんなんよ。その意味が、しょうもないものであっても、こうして、三代に渡り、この場にいるって事に、大きな意味があるんとちゃうか。大それた事とちゃう。仲好くここにいる事に、続けていく、伝えられていくと云う、意があるんとちゃうかな。」

祖母、小町の言葉が、重たい、心に沁みていく。夕貴が口にした疑問は、小町の言葉で、解決をしたと云うよりも、無くなってしまっていた。元から、何もなかったように、沁みていくとは、こう云う事などであろう。

「そんなもんで、ええのかも知れんねぇ。」

千鶴子にも、小町の言葉が響いていた。理由なんてわからなくても、【三月十五日には、大松明を見る】と云う、行事があれば、それでいいのだろう。自分のご先祖様が、毎年、やり続けていた事。守ると云う、大きな事は言えないが、残していこうと思う夕貴がここにいた。

三人は、大松明の火が燃え落ちるまで、何も言わず、この場で見つめていた。もう近くまで、春と云う四季が近づいている。


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