第18話
―樽井の浜―
【夕貴ちゃんの二十歳の誕生日に、この場所で、逢おう!】
そんな言葉が、十年振りに、樽井駅に足を降ろした夕貴の頭に浮かんでくる。朝日を浴びながら、幼い耕貴が口にした言葉。幼い夕貴は、その言葉に、静かに頷いた。夕貴が、まだ、この土地に住んでいた頃の話。小学四年生、十歳の誕生日、早朝の出来事であった。
「ここ、ロータリーになったんやなぁ。」
樽井駅を正面にして、右の方向を歩いていくと、昔、木造の長屋があった場所。確か、もっと手前に、パチンコ店があった様な気がする。古ぼけた、狭苦しい空間だったのが、広々とした、見通しのいいロータリーが、今、目の前に広がっている。寂しい様な、哀しいような…
「十年も経てば、変わるもんやねぇ。」
そんな言葉を呟き、歩き始める。風景が変わっても、懐かしいさは変わらない。所々に残る、見に覚えのある場所。そんな中を、ゆったりと歩を進める。
新しくなった郵便局。田んぼが広がっていた場所に、多くの住宅が、建ち並んでいる。昔のままの上り坂。その先には、十年前に住んでいた団地が見える。夕貴は、立ち止まり、団地を眺めていた。
<あっ!>思わず、声が出てしまう。胸の内で、まだあるのかなぁ、と続ける。
夕貴は、思い出していた。この土地を出て行く日の早朝。耕貴に、さようなら、と云う言葉を言えずにいた。その後悔が、自分の心に襲いかかり、自分では、どうしようも出来ないでいた。あの時の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
―さくらのき―
チッチッチっ…ベッドの脇にある目覚まし時計の秒針の音が、耳触りになる。時間にして、午前二時を回っている。
<もうっ!>蒲団を頭からかぶり、そんな言葉を吐き捨てる。全く、眠れないでいる夕貴。数時間前の砂浜の出来事もある。とにかく、目が冴えて、眠れないでいた。
しばらく、布団の中で、モジモジしていたが、眠る事を諦めたのか、勢い良く、蒲団を捲っていた。まだ、耕貴に、サヨナラ、と言っていない事の後悔が、重く圧し掛かっていた。
不意に、起きあがり、窓のカーテンに手が伸びる。月明かりが、窓から差し込んできた。夕貴は、視線を下に向けた。
<あっ!>ある記憶が、頭の中に飛び込んでくる。視線の先には、桜の木があった。
ガサ・ガサ…荷造りをした段ボールの中から、一冊のアルバムを取り出すと、勢いよく捲っている。
<あった、あった>小声で、はしゃいでみせる。幼稚園の入園時の写真。桜の木の下、赤いポストの前での写真。満開の桜の木の下、薄ピンクの花を背景に、幼い二人が映っていた。
「あっ、もう一枚あったはず…」
アルバムのページを、数枚捲ると、同じアングルで撮られた写真が出てくる。ほぼ、同じ風景。違うところと云えば、ランドセルを背にして、制服を着ているところぐらいなものか。一枚目の写真よりも、少し背が伸びた、小学校の入学時の写真。二人は、写真を撮られる事で、少し緊張をしている表情。思わず、吹きだしてしまう。夕貴は、それぞれの写真を取り出し、机上に並べてみる。
<春だねぇ>そんな言葉を呟き、視線を窓の方に向ける。カーテン越しに、外灯の光が映し出されていた。おもむろに、立ち上がり、カーテンを全開に開けてみる。外灯に照らされた桜の木が、瞳に映し出される。まだまだ、写真の様に、満開の花びらがついているわけではない。
<まだまだですねぇ>そんな言葉を呟く。薄ピンクの蕾は、出始めている。でも、今日、三月十九日、夕貴の誕生日に、この土地を出て行く。そんな事を思うと、熱いものが、込み上げてくる。
「もう少し、ここに居たかったなぁ。あの桜が咲くまで、ここに居たかった。」
涙が溢れだす。今、瞳に映る景色。月明かりが、闇夜を照らしている。外灯に照らされた桜、満開の桜の風景が、頭の中で浮かんでくる。毎年、当たり前の様に眺めていた風景が、もう見えなくなる。そんな事を思うと、涙が止まらない。
「何でや、なんで、耕ちゃんに…」
耕貴に、サヨナラ、と言えなかった自分に問いかけている。窓側に、崩れる様にしゃがみ込み。声を殺して、泣き続けた。後悔と云う念が、夕貴の身体を襲っていた。
泣き疲れた夕貴の姿が、窓側の床、膝を抱える状態で丸まり、浅く、眠っている。時間は、午前五時。朝方の冷え込むが、夕貴の身体を丸くしていた。浅い眠りの中、夕貴の瞼に映ったもの。それは、毎年、眺めていた桜。満開の桜の風景が、映っていた。
<あっ!>と、言う言葉。驚いたと云うか、思い出したと云うか、飛び起きると、キョロキョロと、周囲を見渡し始める。桜の風景に、耕貴の姿が映し出されていた。
「耕ちゃん…。夢、夢か、寝てもうたんやね、私…」
数時間前の自分の事を思い出す。冷たくなった身体に、カーディガンを羽織りながら、ベッドの上に座りこむ。しばらく、ボーとしてしまう。身体の力が抜けて行くのを感じた。そのまま、ベッドに寝転んでいた。
<何、やってんやろ>また、そんな言葉を呟いてしまう。何も、変わる筈もない現実。只、後悔と云う言葉しか、出てこない。さようなら、を言うチャンスは、いくらでもあった。一週間前の図書室。昨日の下校時、正門の前。それ以外にも、何度も何度も、言うチャンスはいくらでもあった。帰宅して、耕貴の電話を待っているだけ、自分から、掛けようともしなかった。
<ハぁー!>溜め息しか出てこない。ベッドの上で、自分の勇気のなさに、呆れるしかなかった。外は、まだ暗い。夕貴の心にも、暗闇がかかっている。
ブゥウ・ブゥウ・ブぅ~ン!夜明け前の音のない空間。今日と云う日が、始まろうとしている瞬間。新聞配達のバイク音が、夕貴の耳に届く。ベッドに身体を預けて、寝ころんでいた夕貴が、身体を起こして、カーテンに手を伸ばしていた。
…シ~ン…心なしか、月明かりが、弱くなっている様な気がする。自然と、視線が、桜の木に向いた。
<はぁっ!>夕貴は、目覚めた時の瞼に映っていた映像を思い出す。息を吸いこみ、驚きが表情に出る。瞬きをして、右手で目を擦る。夢ではない。夕貴の瞳に映ったのは、間違いなく、耕貴の姿であった。自転車を肩脇に置き、部屋の窓を見上げる耕貴の姿。夕貴に気付いているのか、手を振っていた。夕貴は慌てる。無我夢中で、服を着替えて、家を飛び出していた。
ガタン・カタ・カタ・カタ…
まだ、夜明け前の物音のない空間。夕貴の慌てる足音が、響いている。身体が、勝手に動いてしまっていた。この行動が、今の夕貴の気持ちを、表しているだろう。
「どうしたん、耕ちゃん。」
息を切らしながら、耕貴の前に駆け寄り、平然を装う夕貴。当たり前の言葉である。一日が始まろうとしている、この時間に、耕貴がこの場にいるのである。まだ、蕾だけの桜の木の下で、見つめ合う二人。
「よかった。ここに来れば、夕貴ちゃんに逢えそうな気がしたんよ。」
耕貴も、夕貴も、同じ記憶を、思い出していたのかもしれない。共有する、たくさんの思い出を持っている二人が、この【桜の木】の記憶を、チョイスをしたのだろう。
<…>夕貴は、何も言えない。逢いたいと思っていた耕貴を見つめていると、言葉が、詰まってしまう。
「夕貴ちゃん、ちょっと、樽井の浜に、いかへんか。」
<えっ!>突然、耕貴の姿に、頭の中が真っ白になっていた。何も考えられずにいた。
「えっ、とちゃうよ、行こう。早く、後ろに乗って…」
耕貴は、こんな言葉を口にすると、夕貴の腕を掴んで、半ば強引に、自転車の後ろに乗っける。
「夕貴ちゃん、ちゃぁんと、掴まっときや。行くで!」
耕貴は、勢いよく、自転車を漕ぎ始める。自分の気持ちを、急かす様に、飛び出した。夕貴は、そんな耕貴の背中に、頬を当てて、力強くしがみ付く。夜明け前の空の下、二人の身体に、冷たい風を浴びていた。偶然と云うか、必然と云うか、二人の気持ちが重なり合い、起こった出来事。二人が乗った自転車は、まだ、車が走っていない公道、坂道を、勢いよく下っていく。その先には、オレンジ色に染まり始める水平線が、広がっていた。
“キィー!”
二人が乗る、自転車のブレーキ音。そして、二人の耳に、淡い波音が届く。自転車から降りた二人は、当たり前の様に、堤防に登っていく。その場に座りこむ。昔からの指定席。目の前には、水平線の上に雲がかかり、その周りがオレンジ色に染まり出していた。二人は、満面の笑みを浮かべて、そんな朝焼けを眺めていた。
<夕貴ちゃん…>そんな中、夕貴の横顔に視線を送り、こんな言葉を続けた。
「僕に、何か、ゆうことないか。」
夕貴は、すっかり、忘れてしまっていた。逢いたいと願っていた耕貴が、来てくれたと云う事で、胸がいっぱいになり、忘れてしまっていた。
<あっ!>綺麗な朝焼けに、目を奪われていた夕貴、視線を耕貴に向けた。
「ごめん、そうやわ…」
そんな言葉を発しながら、背筋を伸ばし、姿勢を整える。
「耕ちゃん、私は、京都に行きます。今まで、ホンマにありがとう。」
堤防の上、オレンジ色に染まった樽井の浜を背景に、深々と頭を下げた。夕貴は、(さようなら)と云う言葉を、口に出していない。一番、言わなければいけない言葉であった。でも、あえて、言葉にしない。厳密にいえば、言いたくなかったのである。
「テヘぇ、でも、ホンマに、良かった。あの桜の木の下に行ってみて…」
とても、いい表情を浮かべている。そして、視線を、また、刻々と色鮮やかになっていく水平線に戻す。
「太陽が昇るまで、待ってようと思ってたんねん。まァ、思いのほか、早く、夕貴ちゃんが、気づいてくれたから…。ドキドキやったんやで、もし、気づいてくれへんかったら、どないしよって、あの桜の木の下にいたら、もしかしたらって…」
「耕ちゃん、ホンマに、ごめん。一週間前、図書室で言おうと思ってたんよ。でも言えなくて…その後も、いくらでも、ゆう機会あったのに、なかなか、言えなくて…」
夕貴は、必死に頭を下げている。そんな夕貴の姿を見ようとしない耕貴。さわやかな潮風が、二人を包んでいた。
「夕貴ちゃん、前、見てみてよ。」
静かに、そんな言葉を口にする。オレンジ色に染まった朝焼け。ゆっくりと、青色に近づく空が、瞳に映っていた。
ぶぉ~ん!静かな波音の中、遠くから、漁船の汽笛でいいのか、二人の耳に届く。見慣れている景色の筈なのに、何か、新鮮なものに思えてくる。隣で、もぞもぞしている耕貴の事など、気にならないほど、綺麗な朝焼けの風景。
<これ!>不意に、そんな耕貴の言葉が、耳に入ってくると、夕貴の手の平に、何かを入れ込んだ。
「夕貴ちゃん、誕生日、おめでとう。」
朝焼けの様に、顔を紅色に染めて、しっかりと、夕貴の手を握り締める耕貴。突然の言動、ハッと、視線を隣に向けるが、正面を向いている。ゆっくりと、手を離れて行く耕貴の手の平、視線を自分の手の中に移動する。釣り糸で繋ぎ合せた貝殻のブレスレット。
「こんなもんしか、あげられなくてごめんな。夕貴ちゃんが引っ越すって、周りから聞いた時、正直、ムカついたよ。僕達って、それだけの関係やったんかって…でも、桜の木の下で待っている時、僕を見つけてくれた。思い出を、共用しているんだと、実感した。夕貴ちゃんが、僕の前に駆け寄ってくれた時、そんな蟠りも、ぶっ飛んでもうた。めっちゃ、うれしかった。」
真っ赤に焼けた朝の光が、二人に注ぎ覆うと、視線を夕貴に向ける。貝殻のブレスレットを手の平に乗せたまま、耕貴に視線を向けたままである。自然と、手の平のブレスレットに、手が伸びる。優しく、夕貴と云う女の子を見つめながら、手首にはめようとする。
「こうやって、夕貴ちゃんと、話しできたし、それだけで十分や。だから、もう、謝らんとして…」
ブレスレットをはめながら、そんな言葉を口にした。
<耕ちゃん…>二人は、見つめ合う。焼けた太陽の光が、和らいでいく。耕貴は、自分の手の平を、太ももと堤防の間に入れた。照れている様に、正面を向いた。
「僕、夕貴ちゃんの笑っている顔が、めっちゃ、好きやねん。やから、笑って、さようならしよう。」
夕貴も、視線を海の方に向ける。(さようなら)と云う言葉を、耕貴が口にした。出来れば、聞きたくなかった言葉。口にはしたくなかった言葉。
<ありがとう>夕貴は、ある意味の覚悟を決めた。だから、言葉を続ける。
「耕ちゃんは、いつも、優しいね。私も、耕ちゃんが、笑っているとこ、大好き。耕ちゃんは、いつも、私の隣に居てくれる。こうして、耕ちゃんの隣にいると、とても落ち着く。」
初めての告白。自分自身の言葉を、口にした。
「これって、耕ちゃんの事、好きってこと何やね…」
そんな言葉を口にした時、夕貴は、自分から手を伸ばし、耕貴の手を、軽く握りしめる。あえて、耕貴の方を見ない。照れているのか、恥ずかしいのか。でも、繋いだ手から、お互いの気持ちが、お互いに伝わってくる。言葉がいらなくなった二人は、太陽が昇りきるまで、この場にいた。冷たい潮風が、思いのほか、温かく感じる。
耕貴にとっても、夕貴にとっても、思いもよらない出来事。この場で、お互いの手を握り締め、早朝の海を眺めている事が、二人にとって、予期しなかった出来事。この場にいる事が、二人の心が繋がっている事を、証明していた。
<もう、行かないと…>どれぐらいの時間が、流れたのだろう。耕貴の口から、そんな言葉が、零れ落ちた。
「おじさん達が、起きる頃やろ。」
続けて、そんな言葉を口にした。正直、耕貴も、夕貴も、この場を離れたくはない。このまま、ずっと、一緒に居たいと思っている。でも、そんなわけにはいかない事は、お互いに理解していた。
「そうやね、もう、行かないとね。」
夕貴と耕貴の、繋がっている手の平が放れていく。堤防の上に立ち上がり、空に向かって、思い切り背伸びをする耕貴。
「耕ちゃんって、こうやってみると、背が高いんだね。」
背伸びをする耕貴を、見上げながら、不意に、そんな言葉を口にする。
<何、言ってんねん>少し、照れている。そんな耕貴に、手を差し出す夕貴。そんな手を、しっかりと握り返し、二人は、堤防の上に立っている。
「あぁ、行かへんと、いけないのか。」
思わず、口にした夕貴の言葉。二人にとっての、本音の言葉なのだろう。
「ホンマやなぁ、このまま、ずっと一緒に居たいな。」
空は、もう青色に染まっていた。二人は、見つめ合っている。
「耕ちゃんに、言いたい事、いっぱいあったのに、言葉に出てこうへん。」
夕貴の瞳には、涙が溜まってくる。
「何で、何でやろうね。おかしいよね。」
「夕貴ちゃん、うまい事言えへんけど、僕、忘れへん。ずっと、ずっと、夕貴ちゃんの事、忘れへんよ。」
耕貴も、潤んだ瞳を見つめていたら、涙が溢れてきた。そんな自分を誤魔化す様に、こんな言葉を口にする。
「だから、泣くなよ。」
「だって、だって、しゃぁないやん。」
耕貴を見つめながら、泣き崩れていく。そんな夕貴を、思わず、抱き締めていた。
「夕貴ちゃん、十年後。そうや、十年後、夕貴ちゃんの二十歳の誕生日に、ここで逢おう。」
突然、出てきた言葉。今日で逢えなくなってしまう夕貴の事を想って、自然と、口から出てきた言葉。別れる、この悲しい気持ちを、埋める言葉が、これであった。
「僕、忘れへんから、十年後、ここで逢おう。だから、さようならとちゃう。」
夕貴を胸に抱き、力強く、そんな言葉を言い切る。
耕貴の胸に抱かれたまま、力強い言葉が、夕貴の耳に届いていた。さよならとは言いたくはなかった。このまま、永遠に時が止まってくれれば、いいとさえ、思っていた。力強い、さよならとちゃう、と云う言葉が、耳の奥で響いている。
「うん、わかった。ここで逢おう、耕ちゃん。私の二十歳の誕生日!約束やから、忘れへんでよ。」
夕貴は、そんな耕貴の言葉が、うれしかった。朝の太陽が、二人を照らしていた。もう、二度と会う事が出来ないと感じていた夕貴に、明るい光が差した。この約束が、二人の未来を繋いだ。
堤防を降りた二人は、自転車を押しながら、手を繋いで歩いている。ここに来た時の悲しい気持ちではない。十年後、逢えると云う希望が、二人を包んでいた。
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