第17話

―さんぽ―

<今日は、豪勢やな>母親が、腕を振るった手料理が、夕卓の上に並んでいる。家族にとっての最後の晩餐になるのか、大袈裟かもしれないが、そんな意味も含まれているのも確かであろう。

『いただきます!』

家族三人が揃って、手を合わせる。一週間前には、考えられない風景。

(おい、醤油、取ってくれ)〈はい〉

離婚をする夫婦とは思えない会話も、飛び交っている。

<おいしい>笑みを浮かべながら、そんな言葉を発する母親。

「おお、おいしいに決まっとるやろ。そやな、今日で、お前の手料理を食べれるのも、最後になるんやな。」

哀しそうな表情を浮かべる父親に対して、(寂しい)を付け加えた。

「何、ゆうとるんや。寂しいわけあるか。」

父親は、照れているのか、侘びしいのか、複雑な気持ちが交差していた。

<お母さん、おかわり>そんな言葉に救われる。夫婦の会話に、入ってくる夕貴。

「夕貴、ものすごい勢いやなぁ。」

「うん、だって、おいしいんやもん。」

母親にとって、うれしい言葉を発している。心なしか、笑みを浮かべて、立ちあがる母親。何度も云うが、一週間前には、想像できない風景。父親が、仕事を辞める前の夕卓の風景に戻っただけであるのに、こんなにも、楽しく、心地良い空間であるには、間違いない。


「御馳走さま。父さん、これ片付けておくね。」

そんな言葉を口にしながら、父親の食器に手を伸ばす夕貴。

<ありがと>父親は、コップに注いだ冷や酒を手に持ち、口に運んだ。母親は、洗い物をする為に、立ち上がっていた。テレビのリモコンで、電源を入れる父親。

台所では、母親と夕貴が、二人並んで洗い物をする中、父親は、煙草に火をつけて、冷や酒を片手に、テレビを見ていた。

<明日か>不意に、そんな言葉を呟く父親。この数カ月の自分の事を、思い返してみる。自分の恥ずべき姿が、浮かび上がってきた。仕事を辞めた原因、それは、上司とのいざこざ。妻に当たり、娘にまで、当たり続けた。情けない自分の姿が、駆け廻っていた。

<何を、やっていたんやろ>今となっては、そんな言葉には意味がない。明日から、一人になるのは、もう決めた事なのだ。何を思ったのか、煙草の火を消して、テレビの電源をオフにして、足を台所に向けた。

「なぁ、今から、散歩に行かへんか。」

そんな言葉が、口から出てくる。今の自分の心境を、言葉にしたら、こんな感じになってしまった。明日から、一人きりの生活。仕事も探さなければいけない。大事な家族を守れなかった男が、一人で生きていかなければいけない。

「えぇ、今から、暗いし、寒いよ。」

夕貴が、顔をしかめる。母親は、そんな父親の心境を察したのだろう。

「散歩ねぇ、たまには、いいかも…夕貴、行こうか。」

父親の方をちらりと見て、そんな言葉を、夕貴に向かって、発していた。

<わかった>夕貴も、そんな両親の心境がわかったのか、気持ちのいい返事をしていた。家族三人の夕卓、父、母、娘が台所にいる。家族そろっては、最後の散歩になるであろう。ゆっくりと、ゆったりと、時間は流れていた。


<父さん、寒いよ>まだ、夜風が冷たい、三月の中旬。外灯が、まばらの夜道を、夕貴を前にして、三角の形を作って、歩いている親子。

<そうやな>ジャンパーのポケットに、手を突っ込み、背を丸くして歩いている父親。夕貴は、そんな言葉を発しているが、元気に先頭を歩いていた。

「夕貴、そんなに、急がないの。」

早足になっている夕貴に、そんな言葉を掛ける母親。背を丸めて歩く父親と、並んで歩いていた。

「ねぇ、あんた、なんで、散歩なん…」

父親の耳に、そんな言葉が届く。散歩するのに、理由などなかった。

<…>母親のそんな言葉に、なぜか、考え込んでしまう父親。色んな言葉が、頭の中を駆け巡っていた。

「さみしんよ。明日から…」

ぼそりと、そんな言葉を口にしていた。ハッと、父親の方に、視線が向く。

「この数カ月、お前にも、夕貴にも、嫌な思いをさせてしまった。最後ぐらい…だからや。」

そんな言葉を続けた。ニコリと笑みを浮かべて、父親の横顔を見つめる。

<カッコつけて…>母親も、ボソリと、そんな言葉を呟いていた。二人とも、どんな思いで、この一週間を過ごしていたのだろう。そんな事は、当人同士にしか、わからない事。傍から見ると、とても仲のいい夫婦。でも、離婚をしてしまう。

「そうやね。たまには、散歩もいいね。」

二人の会話が聞こえているのか。夕貴は、二人を導く様に、樽井の浜に向かって歩いていく。外灯は少なくなると、微かに、波の音が、三人の耳に届いていた。


ザワぁ・ザワぁ・ザワぁン…

月明かりに、照らされた波打ち際の白い砂浜が、浮き上がって見える。親子三人、並び座っていた。三人の視線の先、水平線の方向には、季節外れの蛍の様に、漁船の灯りが、点々としている。

「父さん、あの船、戻ってくるの。」

波音がざわめく中、夕貴が、そんな言葉を口にした。

「フぅん、沖に向かっているから、今から、漁やろう。」

沖に向かって進む漁船の灯りを見つめながら、おもむろに、言葉を口にし出した。

「夕貴、悪いな。明日、お前の誕生日なのに、何もしてやれん。」

月明かりで、波が淡く輝いている。父親の言葉は、淡々と続く。

「母さんにも、すまないと思っている。自分が、情けないわ。自分の宝物であった筈のものを、自分で壊してしまった。自分が弱く、自分が情けなくて…ホンマに、すまん。」

父親が、押し出す様に、口にする言葉。家族のことを宝物だと、表現する。この数カ月、こんな自分と闘っていた。情けなく、弱々しい自分と、モミやっていた。押し殺した言葉が、夜の砂浜に、波音の中に響いていた。

「何、言ってんのよ。あんたは…」

突っ撥ねる様な言葉であるが、瞳には、涙を溜めている母親。深々と、頭を下げている父親の姿を、見ない様にしている。そんな二人に挟まれた夕貴は、どうしていいのか、わからないでいた。しかし、こんな空間が、居心地よく、感じる自分もいた。お互いが、惹かれ合い、結婚した二人。一人の娘を授かり、うまく流れていた時間。ちょっとしたきっかけで、流れを遮られ、別れる事になった二人。

<…>沈黙の中、自分を責める父親。そんな父親を、支えきれなくなった母親。そんな想いが、お互いに分かっていたからこそ、この一週間、離婚をする夫婦とは思えない、仲の良さだったのかもしれない。

波音が、寂しげに聞こえてくる砂浜。親子三人の最後の時間が流れている。月明かりが、三人を優しく覆う。波の囀りの中、夜は更けていく。


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