第14話

―横浜―

 プル・プル・プルル…耕貴が、マンションの玄関に入ったところで、携帯の呼び出し音が鳴る。

 <もし、もし、木村ですけど…>電話の相手は、バイトの引っ越し屋の課長であった。

 「はい、わかりました。明日は、休みと云う事ですね。」

 急に、引っ越しのキャンセルがあったらしく、明日のバイトが休みになった。ここ一ヵ月間、休みなしのバイトの掛け持ち。正直、身体の疲れがピークに達していた。

 <フぅう、休みか>ホッとしている自分がいた。緊張が、緩んでいく。大学の春休みに入ってからの毎日のバイト生活。折りたたみの携帯電話を、そこら辺に置いた後、徐々に、瞼が下りてくる。気が張っていたものが、解けていく様に、ベッドになだれ込む。灯りがついたままの部屋で、耕貴は、眠りに落ちていった。

 ザワ、ザワ、ザワぁ…ザワぁ…

 深い闇の中から、急に、そんな波音が聞こえてくる。眠りが浅いのか、自分が眠りの中にいるのは分かる。砂浜に、寝そべっている自分。瞼をゆっくりと開いていく。空らしき空間には、満月が輝いていた。意識なく、起きあがる自分。

 <あっ、うみや>口にした言葉が、第三者的に感じてしまう。月明かりに、照らされた波打ち際。波音と海以外、何もない世界。そんな空間を、ジィーと見つめている自分がいる。

 <あっ、ぎょせん>月明かりに照らされた水平線に、漁船の灯りが見えてくる。しばらくすると、一隻が、二隻、三隻と増えていく。五隻目の灯りが見えたかと思うと、高波防止の堤防と、周りの風景が出来上がっていく。第三者的な自分は、驚いているのだが、砂浜で起きあがった身体は、微妙に動いているだけで座っている。

 <あっ、つめてぇ>冷たい潮風が、砂浜に座っている自分の頬に当たると、視界が浮き上がったように感じた。そして、気づくと、さっきまで砂浜に座っていた自分が、堤防の上に移動して、海を眺めていた。第三者的には驚き、周囲を見渡したい気持ちはあるのだが、堤防に座っている自分は、冷静に、海を眺めていた。

 しばらくすると、

ザワぁ・ザワぁ・ザワ…

そんな波の音が心地よく、目の前の景色に、懐かしさを感じている自分がいた。


プル・プル・プルル…

<はぁッ!>勢い良く、瞼が開く。反射的に、折りたたみ式の携帯を開いていた。

<もしもし…>ガラガラの声で、言葉を発している。

「何、寝てたのか、耕貴。」

聞き覚えのある声。電話の相手が、清である事に気付いた耕貴は、肩の力が抜ける。

「何やねん、清か。」

「何やって、なんだよう…ところで、今、暇か、出てこいよ。」

無意識に、時計の針に目が行く。帰ってきてから、一時間しか経っていない。明日の引っ越し屋のバイトが、キャンセルになった事を思い出す。

「あぁ、そうや、バイト、休みになったんや。」

「耕貴、何、言ってんだ。」

「あぁ、いや、こっちの話しや。まァ、暇と言えば、暇やけど…」

身体は、完璧に寝たがっている。言葉を濁した。

「暇なら、いいじゃん。出てこいよ。」

「そうやな、明日の事考えんでもええし、たまには、行くか。」

「そうそう、出て来い、出てこい。」

囃し立てる。そんな清との会話で、久し振りに、外で飲む事になる。耕貴は、携帯を折りたたんで、煙草に火をつけた。何の意味などない。只、落ち着きたかっただけだろう。煙草を吸い終わると、鍵を手にして、部屋を後にする。

“バタン!”玄関のドアが閉まる音が、マンションの廊下に響く。

スタ・スタ…耕貴が履く、雪駄を引きずる足音。少し、渇いた喉を鳴らしていた。


ガヤガヤ…!重たい鉄製の扉を、体重を乗せて押すと、煙草の匂いと一緒に、ちょっとしたざわめきが聞こえてくる。この時間にしては、結構、客が入っていた。

(いらっしゃいませ)低いトーンの店員の声。カウンターに座っている清を見つけると、何も言わず、隣に座る。

<とりあえず、ミラー>ジーンズのポケットに入っている煙草を取り出し、カウンターに置き、そんな注文を入れる耕貴。チラリと、清に視線を向ける。

「わりぃ、悪い。待ったやろ。」

「耕貴、遅いぞ、何やってんだよ。」

清の台詞は当たり前かもしれない。清が、呼び出してから、ゆうに四十分は経っていた。耕貴のマンションから、この店まで、さほど距離があるわけではない、タクシーを使えば、十分以内には着く筈である。

「だから、ワリぃって…。気分いいから、歩いてきてもうた。」

「何だって、タクシー、使えよ。」

清のちょっとした怒りに、心地よさを感じる。別に、お金がないわけではなかった。タクシーで、ワンメーターぐらいの距離である。それぐらいのお金は持っている。

「もう、出来上がってんのか。ええやん、まだまだ、時間あるやん。夜も長いんやし、さぁ、飲もうや。」

懐かしい雰囲気がする。この一カ月、バイト漬けであったから、清の顔を見たのも、久し振りである。目の前のミラーの瓶を手に取り、清の前に突き出し、乾杯を求める。清は、ダルそうにロックグラスを重ね合わせた。

カキィンと、静かにグラスが重なり、音が軽く響いていた。


「耕貴よ。最近、付き合い悪いよな。」

二人で飲み始めて、六十分ぐらい経っただろうか。ミラーの瓶から、ロックグラスに変わっている。

<なんやねん、急に…>他愛のない会話をしていたのに、突然、そんな言葉を振られてしまう。

「ちょっと前までは、よく俺に付き合ってくれたのによぉ。」

「しゃぁないやろ。バイトがあるんやから…」

清は酔っている。言葉が、乱暴になり始めたのが、この言動を確定させている。耕貴は、店員に、静かに合図を送り、清のグラスの横に、氷水を置かせる。

「お前よ、そんなに、金に困ってんるのか。なに、急に、引っ越し屋のバイト、始めやがってよ。」

「清、もう酔ったんか、絡んでるで…」

「酔った。酔ってなんかないわい。俺は、ただな、お前に…」

氷水のグラスを口に運び、こんな言葉を口にし始める。そんな清に対して、空になったロックグラスを、何も言わず、店員に差し出す耕貴。

「最近のお前の変化をだなぁ。おかしいと思うから、何か、あったんなら…」

バーボンの入ったロックグラスが、耕貴の前に置かれる。隣にいる清とは、あと数カ月で、丸二年の付き合いなる。大学に入って、初めての友人と呼べる人間であった。そんな事から、考えていると、清がこんな言葉を口にするのは、頷ける。

「清よ。お前、覚えているか。俺が、百円のボールペンを置き忘れたのが、お前との出会いやったな。」

耕貴が、そんな言葉を口に出した瞬間、清の愚痴が止まり、視線を耕貴に向ける。

「百円のボールペンを、お前は、必死になって、廊下を走ってきて(君、君)って…正直、気持ち悪かったわ。百円のボールペンやで、ほっとけばええやろ。」

そんな言葉を口にして、笑みを浮かべて、グラスを口に運んでいる。

<ごめん、水、頂戴>清は、手にしていた氷水を、一気に飲み干し、空になったグラスを、店員に差し出した。

「チョっイ待てよ。人の親切を、気持ちが悪いって、どういう事よ。」

笑みを浮かべている耕貴とは、逆に、清は怒りで拳を握る。

「お前は、いつもそうだ。自己主義と云うか、周りの事なんか、気にもしないで、思った事を、すぐに口にする。挙句の果てに揉めて、いつもその間に入るのが、この俺だ。」

「そうやな。ほっとけばええのに、お前はいつも、必死になっている。」

<耕貴、お前!>弱火でやかんのお湯を沸かしている様に、徐々に、清の怒りが、頂点に近づいていく。

「あんな、あん時、本当はうれしかったかもしれん。関東弁に、慣れんで…電車の中で、男同士が、喋っている時なんか(オカマか!)って、叫びたくなっていた。そんな時に、お前が、必死に、百円のボールペンを持って、(君、君)って、駆け寄ってきた時、なんて言うやろ、うん、うれしかったわ。気持ち悪いとか、ほっとけばええのにって云うのもあったけど、ホンマは、うれしかった。」

<…>タイミングがいいのか、清の怒りの表情に、気づいているのか、あの時の情景を思い浮かべて、言葉を発していた。

「清、俺なぁ。いつから、世間と云うか、社会を、冷めた目で見る様になっていた。上手く言えへんけど、上辺だけ、表面上だけ、うまくやっていればいいやって…ホンマ、いつから何やろな、胸に大きな穴が、ポカーンって、空いたままで埋まらんねん。」

清の前に置かれた、氷水のグラスを口に運んでいた。ゆっくりではあるが、沸騰していた怒りが、冷めていく。

「耕貴よ。お前って、難しいよな。知り合った頃は、酒を飲んで、女を引っ掛けて、楽しんでいたのに…いつしか、みんなと楽しんで飲んでいると思えば、喧嘩を売る様な事を口にして、場を乱して、挙句の果てには、俺まで、疎外し始めた。なんなんですか、お前は…」

頭を冷やしながらも、そんな言葉を、耕貴にぶつけてみる。広く、浅く、接してきた。ナぁナぁの友人だと思っていた清の言葉に、何も言えなくなる耕貴。ムカつくわけでもなく、イラッとするわけでもない。違う感情が、芽生えてくる。友人と呼べる人間に言われた言葉。こんな感情が込み上げてきたのは、いつ振りであろうか。

<…>記憶の奥底に、しまい込んだ感情なのかもしれない。

「お前が、どう思っているのか、知らないけどな。こんな事を言うのは、恥ずかしいんだけどな。耕貴と一緒に、酒を飲むから、楽しいいんよ。お前と一緒、女の子と騒ぐ事が、楽しいのよ。お前といっしょにやるから、馬鹿ができるんよ。でないと、お前みたいな、トラブルメーカーと、付き合ったりするもんか。」

清の胸の内の言葉。清の本音。今まで、言葉に出来なかった本音が、耕貴の耳に届いた。

<清、お前>耕貴が、やっと、口にする言葉。清は、ロックグラスを口に運ぶ。バーボンの強い香りを、喉に通す。すでに、耕貴に怒りを感じていた清はいない。静かに話しを続ける。

「香の事だって、そうだろ。あいつは、ずっと、お前の事を見ていたんだぜ。お前に好意を持っていた。でも、耕貴、お前にとっては、成り行きの女かもしれんけどな。香ちゃんの事、もう少し、考えてやれ!」

こんな言葉を言い切る清。この後、沈黙の時間が流れた。耕貴にとって、頭の中を整理する為には、十分な時間であった。


「清…」

「何!」

耕貴が隣にいる友人の名前を口にして、二人の会話が再開する。

「俺、うまく言えへんけど、お前の言う通りや。お前の事、只の友人としか、思っていなかったかもな。」

「ああ、そうだろうよ。」

静かな口調で、耕貴に言葉を返す。

「知り合った頃は、お前とツルんで、馬鹿騒ぎする事が、楽しくて、楽しくてな。いつの日からか、お前とツルむ事が、うざくなってきて…なんで、やろな。」

「そういえば、耕貴、お前って、自分の昔話する事って、あまりなかったよな。俺が、高校時代の事を聞くと、言葉を濁して、誤魔化す。まァ、お前の事だから、虐めにあっていたって事は、ないだろうけど…」

清は、何を思ったのか、思い出したように、そんな言葉を口にした。

「ああ、そうやな。話す事がないねん。まァ、それなりに遊んでいたし、嫌な思い出もなければ、いい思い出もないねん。中学時代もそうやな。勉強、勉強で…ごく普通なのか、知らへんけど、あんまり、話したくないんよ。」

「そう云えばよぉ、耕貴って、昔の写真ってのも、ないよな。普通、田舎から出てくる時、寂しいとかで、持ってくるもんじゃないのか。」

そんな清の言葉に、反応してしまう。今、記憶にあるだけで、卒業アルバム程度しか、写真と云うものを、撮っていなかったように思える。

「そうやねん。実家には、子供の頃の写真はあるんやろうけど、自分で保管しているもんはないわ。」

「お前って、本当に、変わっているよな。」

「はっはっ、そうやな。俺もそう思うわ。」

お互いに、派手に笑う。耕貴は、清に対して、温かみを感じていた。知り合った時に、感じていたかもしれない感覚。二人の距離が、ぐぅんと、縮まった瞬間であった。


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