第11話

―横浜―

チッチッチぃッチ…

「木村君、もう時間過ぎているよ。」

時計の針が、午後三時を少し、過ぎていた。早朝六時から、九時間。店に出すドーナツとパイを作り続けた耕貴に、そんな言葉を掛ける副店長。

「はい、もうちょっと…」

今日の一日、予定していた商品は、ある程度作り終えている。やり残した事を、手早に動かせて見せる。

「後は、やっとくよ。」

副店長のそんな言葉を無視する様に、手を止めない。とにかく、やり残した事を終わらせようとする。普通のバイトであれば、あっ、そうですか、なんて口にして、帰り支度をするのであろうが、耕貴は、そうではなかった。生真面目と云うか、耕貴の性格が、かい見られる。そして、数分後、耕貴の手が、ピタリと止まる。

<フぅう、終わった>そんな言葉を呟き、身体が微動たりしない。軽い達成感に包まれる。頭に乗っている紙製のコック帽とエプロンに手をやる。

「副店、終わったので、上がりますね。」

「ああ、ご苦労様。」

副店長を前にして、軽く頭を下げると、キッチンを後にする。この店舗は、横浜駅、(五番街)と云う通りにある。店の事務所と着替える場所は、少し離れたビルの一室にあった。エプロンを丸めたものを手に持ち、私服のジャンパーを羽織り、店の外に出て、事務所に向かう。平日だと云うのに、人間の多さに、げんなりしてしまう。当たり前の光景であるのだが、人波をかき分けながら、歩いている。町の雑音、人々のざわめきの中。ビルの谷間に、溶け込んでいく耕貴の姿が見えた。


(吉野町、吉野町…)市営地下鉄の車内アナウンスが、耕貴の耳に届く。何も考えまいとする。正直、疲れていた。今日は、ドーナツ屋のバイトの後、家庭教師のバイト。連日のバイト三昧に、体力的に、精神的に疲れていた。地下鉄の車両のドアが開くまで、席を立とうとしない。

シュゥウ!ドアが開いた音が、耳に届いた瞬間、前屈みになり、反動をつけて立ち上がり、勢いをつけて、ホームに降りる。時間は、午後九時を過ぎていた。平日と云う事もあり、まばらな乗客が瞳に映る。耕貴は立ち止ると、頭の中を空っぽにして、そんな風景を見つめていた。

<あっ!>聞こえるかどうかの小声で呟く。地下鉄のホーム、明かりがついているはずなのに、薄暗く感じる。

カタ、カタ、カタ…!耕貴の瞳に映る人間達は、足早に、ホームを去ろうとする足音。閉じ込められた空間から、逃げ出そうとしているのだろうか。耕貴も、改札口に向かって、歩き出した。耳に届く足音とは違い、ゆっくりと歩き出していた。

地下鉄、吉野町駅から、数分の所に、耕貴が住むマンションがある。

<まだ、いるやん>耕貴は、自分の部屋に明かりがついているのを目にする。一人暮らしの耕貴、部屋に明かりがついていると云う事は、誰かがいると云う事なる。

<なんや、まだ、おるんか>立ち止まり、自分の部屋を見上げ、少し乱暴な言葉を発していた。その場で考え込む耕貴は、自分のアパートを素通りして、足をコンビニに向けた。

<すぅ、フぅう…>コンビニ弁当をぶら下げて、自分の部屋の扉の前で、深呼吸をしている耕貴は、軽く自分に気合いを入れる。

ガチゃ!鍵穴に鍵を差しこみ、ドアノブに手をやり、ドアを開ける。

バタ、バタバタ…俯き、履いている靴を脱ごうとしている時、慌てて駆け寄ってくる足音が、耕貴の耳に届く。

(やっぱり!)耕貴の心の叫び。顔を上げてみると、香の姿がある。

(なんで、いるんよ!)顔を上げる前に、そんな言葉が、口から出てきそうになる。

「何や、香ちゃん、おったんか。」

しらじらしい言葉、自分の意志とは、全く違う言葉を口にする。

「うん、待っていた。夕ご飯、作ってあるよ。」

耕貴の視線が、玄関の脇にある、小さいキッチンに向く。そして、自分の部屋に入っていく際、こんな言葉を付け加えていた。

「あっ、ごめん。コンビニで弁当、買ってきてもうたわ。」

狭い玄関先、香の脇を素通りして、奥の部屋に足を進ませた。

「えっ、そうなの…余計な事したかなぁ。あっ、ビール飲むでしょ。」

耕貴のよそよそしさが、伝わったのか、慌ててしまう香。

<あぁ>自分が、描いていた展開とは、全く違っていたのだろう。据え付けの小さい冷蔵庫から、35缶のビールを手に取り、グラスと一緒に、テーブルの上に置いた。

<ありがと>香の顔を見ずに、つっけんどんな言葉を発した耕貴。淡々と、買ってきたコンビニ弁当に箸を付け始めた。

「出かける時、何も言わなかったもんね。」

自分の方も見てくれず、買ってきたコンビニ弁当を頬ばる耕貴の姿に、寂しい思いが込み上げてくる。

伊勢崎町で、偶然に逢ってから、毎日、香はここにいた。押しかけ女房気取りなのか、正直、うざく思っている耕貴。当たり障りのない言葉を口にしていた耕貴が悪い。バイトでいない昼間の行動はわからないが、今日と同じく、疲労感に包まれ、マンション前の公園で、自分の部屋を見上げると、明かりがついている。

「耕貴君、もしかして、私がいると迷惑。」

正直、迷惑である。二週間前の飲み会で、ノリと云うか、勢いで、エッチをしてしまった女性。好きとか、嫌いの感情は全くない。

耕貴のつっけんどんな態度を目にして、哀しそうに、そんな言葉を口にする香。

「そんな事は、ないよ。」

また、自分の気持ちとは違う言葉を、発してしまう。

「洗濯、掃除までしてもらって、感謝しているよ。」

確かに、この数日前の部屋とは、違う状態。溜まっていた洗濯物、埃の被っていた部屋中の物が、綺麗に片づけられている。

<でも、タダな…>言いにくそうに、言葉が詰まってしまう。やっと、耕貴の言わんとしている事に、気づいたのか、慌てて、こんな言葉を発する。

「あっ、そうか、そうだよね。ここ、耕貴君の部屋だもんね。そうか、そうか。」

早口になっている。恥ずかしくて、逃げ出したいと云う思いを持っているのかもしれない。

「ごめん、私、自分の事しか、考えていなかったね。私は、只、耕貴君の傍にいたくて、だから…」

香は、慌てながらも、耕貴の瞳を見つめていた。耕貴は、そんな香の真剣な眼差しに、目を逸らす事が出来ないでいた。

「私ね。ずっと前から、耕貴君の事が…だから、こんな事になって、うれしくて、でも、これじゃあ、ごり押しだよね。一人で、舞い上がっちゃって…」

何か、とんでもない方向の話が進んでいく。耕貴にとっては、行きずりの女。香にとっては、想い焦がれていた男。この時点で、二人の気持ちはズレていた。

「今日は、これで、帰るね。…耕貴君、合い鍵、貰っていいよね。あっ、嫌だ。また、私…」

またまた、とんでもない方向に、話しは流れていく。話しの流れから、嫌とは言えない雰囲気。そして、耕貴にも、香の本気度が、徐々に伝わってきていた。

「あぁ、ええけど…」

<えっ、本当に!>哀しい表情を浮かべていた香が、飛び跳ねている。合い鍵を渡すと云う事は、付き合うと云う事。耕貴の気持ちとは、全く違う、言動を取ってしまっていた。

香は、耕貴から、合い鍵を受け取ると、部屋を出ていく。一人になった耕貴は、テーブルから離れて、ベランダの窓を開けていた。

「明日も、来るんやろか。」

35缶のビールを手にして、そんな言葉を呟く。テーブルの上には、食べかけの弁当が置いてある。

「何、やってんやろ、俺。」

また、小さく呟いた。さっきの自分に、腹をたてている。本音は、香とは、付き合いたいと思ってはいない。成り行きに身を任せて、言いたい事も言えず、自分と云うものを出せない事に、腹をたてていた。こんな風になってしまったのは、いつ頃からなのだろうか。

「俺って、何やねん。」

自分で、自分を殴れないのが、もどかしく思う。手に持つビールを、一気に飲み干す。次のビールを、手に取る為に立ちあがる。アパートを並走する街道。自動車が走る騒音が、耳に届く。都会と云う憧れが、地元の大学ではなく、この横浜と云う土地を選んだ。

ゴク、ゴク、ゴク…続けて、ビールを一気に飲み干す。身体の中に、アルコールを入れる事で、今の状況から、逃げ出したいと思っている。都会と云う騒音の中で、今の自分を忘れてしまおうと、部屋中のあるアルコールを飲み始めた。


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