第8話

―横浜―

 <耕貴!>大学内の食堂、一人でうどんを啜っていると、後方から、そんな声が聞こえてくる。仲のいい友人と云うわけではないが、広く、浅く付き合っている友人達の中では、比較的仲のいい、山川清の声だと云う事は、すぐに分かった。

 「何やねん、うっさいねん。」

 <何だよ、冷たいなぁ>うどんを啜っている耕貴の席の隣に、馴れ馴れしく座る清の態度に、ムカッときてしまう。

 「でぇ、そんな事よりも、香ちゃんとは、どうなりましたか。」

 うどんを啜っている動きが止まってしまう。聞き慣れない名前と、昨日トボトボと歩いていた街並みの風景が、頭の中に浮かんできた。

 <かおり?>

 「何、すっトボケてんだよ。この前、お持ち帰りした女子だよ。」

 箸を止めながら、昨日のベッドの女性の事を思い出す。耕貴の記憶には、二日前、寝た女性の事は消えていた。

 「あぁ、あの子、かおりって言うや。」

 「何だよ。名前も、知らなかったのか。なんで、こんな奴が、モテだよぉ。」

 記憶が、飛んでいたわけではない。しっかりとした記憶は残っている。しかし、耕貴にとっては、どうでもいい記憶であった。少しほろ酔いで、近くに居た香と云う女性を口説いて、そのまま、香の部屋に行っただけの事。

 「お前って、クールと云うか、冷たいと云うか…まあ、その事はいいか。ところで、今夜、暇か。」

 「俺、いいわ。バイトやし…」

 飲み会の誘いと云う事が、すぐに分かってしまう。清に、あっさりと、断りの言葉を返す。

 「何だよ。まだ、何も言ってないだろ。」

 「飲み会やろ、当分、いいわ。」

 「そんな事言うなって、女の子達に、お前も来るって、言ってしまったんだよ。頼むよ。耕貴。」

 <…>清の懇願する言葉を無視して、うどんを啜りだす耕貴。全く、行く様子を見せない耕貴に、詰め寄ってくる。

 「なぁ、いいだろ。女の子も、結構、集まったし、また、お持ち帰り出来るって…」

 軽く笑みを浮かべながら、そんな言葉を口する清に、目尻が吊りあがっていくのがわかる。思い切り、睨みつけていた。

 なぜか、耕貴は、女の子に人気があった。どうしてか、自分にも分らない。女の子が、寄ってくると云う事が、モテると云う事なのであれば、しょうがない。そんな耕貴を、女の子を釣る餌代わりにする清と云う男に、ムカっ腹がたった。

 「どうせ、この前、お前もうまくいったんやろが、俺は、お前がいい思いをする餌か。ええ加減にさらせよ。」

 泉州弁を撒き散らす。正直、この半年くらい、自分にイライラしていた。国立大学に入学して、親の期待は、ひとまずクリアした。親元を離れて、横浜と云う都会の一角での一人暮らしにも、慣れてきた。そんな中、ナぁナぁな友人の言葉に、ムカついてしまう自分が居る。

 「えっ、何、何、怒ってんのよ。怖いって…」

 冷静なのか、少しビクつきはするが、軽くこの場を流す清。それだけ、何も感じなく、どうも思っていない、広く、浅い友人関係とは、こんなものだろうと思う耕貴。

 「ムキになってしもうた。ワリぃ。」

 澄ました清の顔を見ていると、ムカついている自分が、馬鹿らしくなる。殴りかかっていきそうな勢いが、一気に冷めた。

 「まぁ、気が向いたら、来てくれよ。いつもの場所だから…」

 そんな言葉を残して、耕貴の隣から離れて行く。表面上だけの言葉。周りには、たくさんの人間が居るのに、お互いに無関心な会話だけが、ざわめいている中、耕貴は、何も考える事なく、うどんを啜っていた。こんな温かみのない空間に、慣れてしまっている自分が居る。耕貴自身、どう思っているのかは、当人しかわからない事、只、一つだけはっきりしている事は、この状況の居心地は、最悪と云う事は、確かであった。


 長い春休みに入り、耕貴のバイト生活が始まる。実家からの仕送りで、贅沢をしなければ、やっていける。そこは、大学生。遊ぶお金が、必要になってくる。今までは、週二度の家庭教師と、他に、大手チェーンのドーナツ屋でバイトをしていた。この春は、短期で、引っ越し屋のバイトも入れた。家庭教師は、時間帯がどうしても、七時以降になる。その日の昼間に、ドーナツ屋のバイトを入れて、他の日は、フルで引っ越しのバイトに当てた。目的は、お金と云う事もあるが、身体を動かしたかった。時間を無駄にしたくはなかった。時間に追われる生活をする事で、身体を疲れさせる事で、胸の奥底にある、言葉に出来ない何かを、誤魔化したかったのかも知れない。

 

 「お疲れ様です。」

 「お疲れ!木村君、明日も、頼むね。」

 引っ越し屋のバイトの日、いつもよりも、早く仕事が終わり、倉庫街にある会社を後にする。日給一万円の肉体労働。金額の割には、大変な仕事である。身体のあっちこっちが痛い、完璧な筋肉痛に苦しんでいた日々も過ぎ、やっと、この仕事に慣れてきた頃。気分的に、陽が長くなってきたように感じる。右手を、腰の所に当てて、トボトボと歩いていた。

 「はぁ、しんどいわ。はよ、帰って、寝よう。」

 思わず、そんな情けない言葉を口にする。耕貴は、この肉体労働に慣れてきた頃であるから、そんな言葉が出てきているのだろう。

 ザワザワ、ザワ…倉庫街から離れて、市営地下鉄で、この伊勢崎町の商店街に来ていた。いつもであれば、市営地下鉄の(吉野町)で降りるのであるが、今日は、気分的にブラブラしたかった、三つ手前の駅(関内)で降りていた。

 伊勢崎町は、商店街と云うよりも、アーケードと云う言葉が似合っている。近くにある中華街や元町とは違い、程よい賑わいの下町と云う言葉が似合う場所。耕貴は、そんな伊勢崎町を、心地よく思う。

 <耕貴君!>耕貴が、気分良くブラブラ歩いていると、そんな言葉と一緒に、目の前に一人の女性が現れる。見に覚えのある女性。耕貴にとっては、気まずさを感じてしまう。なぜなら、酒の勢いで、抱いてしまった【香】であった。

「偶然、こんな所で逢うなんて…」

<…>キャピキャピとした雰囲気と、イライラする言葉使いに、息をのんでしまう。

「何よ。まさか、覚えていないわけないよね。」

「そんな事、あらへんよ。きゃぁんと、覚えているよ。香ちゃんやろ。」

思わず、そんな言葉を口にする。この場合においては、【香】の名前を教えてくれた清に感謝する。広く浅く、平和的に、人に嫌われたくないと云う耕貴の人格が、そんな言葉を言わせていた。

「よかった、覚えてくれてないだと、ドキドキしちゃった。この前の飲み会に、来なかったから、嫌われたかと、思っちゃった。」

学食での清の言葉を思い出していた。香の言葉をフォローするかのように、反射的に、こんな言葉を口にしていた。

「あぁ、あの時か、行きたかったんやけど、バイト、入っていたねん。」

「そうなんだ、良かった。あの日も、目が覚ましたら、耕貴君いないし、連絡したくても、連絡先知らないし…」

正直、面倒臭さを感じている耕貴。会話の展開から、このまま、別れるわけにもいかず、自分からお茶を誘い、近くの喫茶店に足を運んでいた。

それから、二人は、たわいのない会話で時間を潰していた。

たまたま、気分でいつもとは違う、市営地下鉄の関内駅で降りて、伊勢崎町商店街をブラブラしていた。成り行きで、一夜を共にした女性と出会ってしまい、コーヒーを飲もうとしている。只、それだけの事。耕貴は、何の感情も見せず、当たり前の様に会話をしていた。

(お待たせしました)店員が、湯気が立つコーヒーカップを、二つ運んでくる。耕貴は、何もいれず、口に運ぶ。

「耕貴君、ブラックなんだ。私は、駄目!」

そんな言葉を発しながら、シュガーポットから、三杯の砂糖。ミルクも多めに入れている。そんな香を見ていると、どこなく、幼く感じてしまう。考えてみれば、飲み会で、二度ほど顔を合わせた程度の関係。香の事など、何も知らない耕貴。そんな二人が、親しく話しをしているのだから、滑稽に思う。

「ねぇ、あの日、どうして、何も言わずに、帰ちゃったの。」

<あぁア>あまり、触れてはほしくない事を、突っついてきた。まァ、一夜を共にしたのだし、何の言葉を交わさないまま、彼女の部屋を後にしたのだから、仕方がない。

「あぁって、私の事、簡単にやらせる女だって、軽い女だと、思ッてんだ。」

一瞬、悲しげな表情を見せる香。反射的に、言葉を発してしまう。

「そんな事、あらへんよ。香ちゃん、ぐっすり眠っていたし、俺、学校の講義あったから…」

思ってもいない事を、口にしてしまう耕貴。話しが、変な方向に流れていく。

「じゃあ、今から、遊びに行こう。」

益々、耕貴が意図しない方に、流れて行ってしまう。

「ぅ~ン、行きたいのは、山々なんやけど、明日も、バイトあんねん。」

自分の意図とは違う、言葉を並べ始める。

「バイトなんて、休めば、いいじゃん。」

「そんなわけにはいかんよ。今のバイト、やり始めたばっかやし、それに、お金もいるし…」

とにかく、この場から、目の前に居る香から、逃げ去りたかった。それが、本意である。目の前の人間との、当たり障りのない会話。本意を口に出せない、自分の情けなさが嫌になる。

一言!《お前とは、遊びやねん》と、口にすれば、終わるのだろうが、いい恰好をしたいのか、只、セックスが出来なくなるのが嫌なのか。誤魔化し、誤魔化しで、生きている自分を恥じる。

「ねぇ、ねぇ、聞いている、耕貴。少しだけ、飲みに行こうよ。耕貴、いいでしょ。ねぇ、ねぇ。」

猫撫ぜ声で、耕貴を誘う。呼び名が、【耕貴君】から、【耕貴】に変わった瞬間、頭の中をリセットした。もう考える事を、止めようとする。なる様になる。あとは、男と女の話しである。流れに身を任せて、喫茶店を後にした。三月に入ったばかりの出来事であった。


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