第7話

―だんち―

 “カタ、カタ…”団地の階段を、ゆっくりと、踏みしめる音。

 “ドゥン!”鉄製の玄関の扉が閉まる音。片付けられていない台所。洗い物がたまっている。隣の四畳半の部屋で、鼾をたてている父親。最近では、当たり前の状況に、夕貴は、ランドセルを自分の三畳の部屋に置くと、腕まくりをして、台所の片付けに取り掛かる。酒を飲んで、寝ている父親の姿に見向きもしない。正直、父親とは、顔を合わせたくない。なんせ、狭い団地の住まい。顔を合わせないわけにはいかない。

 冷たい水に手をつけ、皿を洗い出す夕貴。母親は、最近、夜の仕事だけではなく、昼間の仕事も始めていた。どうしても、雑になってしまう家事を、自分から進んで手伝うようになっていた。

 一日中、酒を飲み、何もしようとしない父親の鼾を聞きながら、冷たい水につけている女の子の後ろ身が、ここにある。

 洗濯物を、ベランダで干し始めた頃、母親の声が聞こえてくる。

 「ただいま。遅くなって、ごめんね。今、夕飯、作るから…。」

 玄関から、母親の心地良い言葉が、流れてくる。今の夕貴には、この母親の存在が、唯一の救いであった。

 鼾をたてている父親を無視する様に、大きな音をたてて、料理をし始める。夜の仕事に出かけるまでの約二時間が、夕貴に笑顔を戻させる。

 「夕貴、いつも、ありがとうね。洗い物とか、洗濯とか…。」

 洗濯籠を手にして、台所に顔を出す夕貴に、そんな言葉を掛ける。

 「ウぅん、気にせんといて、お母さんの方が、大変なんやから…。」

 忙しなく、料理を続ける母親の後ろ身を見つめる。

 「ありがとうね。そんな事言ってくれると、母さん、うれしいわ。美味しいの作るから、宿題でもして、待っといてね。」

 「ウぅん、私も、手伝う。」

 夕貴は、そんな言葉を口にして、母親の横に立つ。母親にも、笑みがこぼれる。そんな穏やかな空気、母子の時間が流れている。夕貴が落ち着ける、唯一の時間が訪れる。ふんわりとした温かい空間が、夕貴の身体を覆っていた。


 「クワぁ…、おお、飯か、俺の分、あんのか。」

 起きて、早々の台詞。そんな父親の出現で、穏やかな時間が、一瞬に弾け飛ぶ。夕貴は、一瞬、身構えてしまう。

 「飯か、じゃあないでしょ。あんたは、何言ってんのよ。全く!」

 母親は、振り向き、そんな言葉を口にする。呆れ顔と云うか、母親の目尻が、吊りあがっていくのがわかる。

 「作ってあるから、自分で、よそおって!」

 穏やかな夕卓が、一瞬にして、重たい空気に変わっていく。母親は立ち上がり、鏡台の前に座り、夜の仕事の支度をし始める。父親は、座イスの位置に座り、夕貴と目を合わせない。おもむろに、テレビのリモコンを手にして、スイッチを入れる。夕貴は、母親が作ってくれた夕食に手をつけながらも、俯いている。座イスにもたれて、煙草を吹かす父親に、恐怖を感じていた。

 「あんた、お酒飲むのもええけど、たいがいにしいや!」

 鏡に映る父親の姿に向かって、喧嘩口調になる母親。

 <…>テレビに視線を向けたまま、なんの言葉を返そうとしない父親。

 「じゃあ、母さん、行って来るから、いい子にしててね。」

 支度の終わった母親が、夕貴の頭に手をやり、優しく撫ぜてくれた。

“ガっタン!”鉄製の扉が閉まる音。慌てて出て行く母親に、何の言葉も掛けない父親。夕貴は、残っていた夕飯を、口の中にかっ込む。食器を、台所の水場に置くと、急ぎ足で自分の部屋に戻る。明かりもつけず、ベッドの枕に、顔を埋めていた。自分の部屋と云っても、カーテンで仕切られている三畳ほどのスペース。父親の言動が、丸聞こえの状態。

夕貴が部屋に戻ったのを確かめる様に、父親は立ち上がり、台所に向かう。一升瓶の日本酒を手に取ると、居間のコタツの上に置き、そのまま、コップに注いだヒヤ酒を飲み始める。大人しく、飲んでいる時もあれば、独り言をブツブツ言っている時もある。これは、まだいい方で、何度か、部屋に入ってきて、酔っぱらっている父親に殴られた事もあった。とにかく、夕貴は、この時間が、大嫌いであった。

“ワイワイ、ガヤガヤ”

居間から、テレビの音が聞こえてくる。枕に顔を埋めている夕貴の頭に、耕貴の言葉が浮かんでくる。〖殺人〗と云う言葉が、浮かんでは、消えていく。父親が、酒を啜る音が、誇張され耳に届く。呼吸をしている音さえも耳に残り、気分が悪くなってしまう。

<殺人か!>静かに、言葉にしてみる。じわじわと、身体に染み渡る響き。今は、戸惑う事より、殺意に近いものを感じている。

(確かに、お母さんが、こんなに苦労しているのは、あいつが居るからだ。あいつさえ、おらんくなれば…。)

今の夕貴には、口に出してはいけない言葉なのかもしれない。間違えなく、自分の父親に、殺意を感じている。

「耕ちゃんの言う通りかもしれん。このままやと…。」

自問自答を繰り返す夕貴。天使と悪魔が戦っている。そんな言葉を呟いた時には、父親は、酒に酔って、テレビをつけたまま、眠っていた。そして、夕貴の中で、結論が出た。決意と一緒に、腹を決めた。


―としょしつー

静まり返った空気。誰もが音をたてないようにする空間。放課後、夕貴と耕貴は図書室に居た。生徒会の図書委員、数人の書物好きの小学生が、この独特の雰囲気の中に居る。二人は、人目に付かない奥の方、本棚と壁の薄暗い場所で、声を潜めて、話しをしていた。

「耕ちゃん、やろう、殺人!」

耕貴は、ドキドキしていた。昨日の今日の事である。夕貴から、こんな言葉を聞くとは、正直、思っていなかった。自分の父親を、殺そうなんて発想は、よほどの事情がない限り、言葉に出ないでだろう。

<えっ!>殺人を提案した耕貴の方が、(豆鉄砲に鳩)状態。思いもよらない夕貴の言葉に、自分の耳を疑ってしまう。

「えっ!て、耕ちゃんが、言い出しっぺやろ。」

そんな夕貴の言葉に、慌てて、背筋を伸ばす。

「そうやんな。何、驚いてんやろ。」

聞こえるか、聞こえないかくらいの独り言発して、手に持っていたノートを、夕貴に手渡した耕貴。

「これなぁ、昨日一晩、考えた計画やねん。時間なかったから、大まかな事しか、書いてないけど…。」

少し胸を張り、自慢げな心が見え隠れする耕貴の態度。夕貴は、手にしたノートを捲り始める。図解入りの殺人計画が書かれていた。少し胸を張る耕貴の態度に、理解してしまう。

殺人計画の内容は、こんな感じである。

《対人(夕貴の父親)を、睡眠薬入りのお酒を飲ませて、眠らせる。そして、両手両足を、頑丈なロープで縛りあげる。暴れない様に、柱やベッドに縛り付けるのがベスト。

 霧吹きなどで、対人の身体を濡らしておく。

 家庭用コンセントを使用する。交流を直流に変える装置を作り、上半身と下半身にプラグをはめて、電流を流す。》

 このような内容が、図解入りで、書かれている。

 夕貴は、ノートに書かれている内容を読んで、<薄い>と云う言葉が、浮かんできた。

 「ある小説の内容を、ヒントにしたねん。このやり方やと、子供でも出来ると思うんよ。どうかな。」

 「この方法で、殺そうと思えば、細かく計画を練らんと。」

 夕貴は、ふと、思った事を口にしてしまう。真剣に、(殺人)と云う事を考え始める。

 <そう、そうやねん>そんな夕貴の言葉に食いついてくる。耕貴も、夕貴と同じ事を考えていた。

 「昨日、書いている最中に、まだ、薄いと感じてたねん。」

 「ウぅうん、そうやねぇ、まずは、あいつの行動パターンを把握せな。二人で、行動を起こすんやから、学校を抜け出しても、ばれない時間帯、もしくは、お母さんが、働きに出ている夜にするか。それに、身体が濡れていると云うのも、何か不自然の様な気がするし…。」

夕貴の方から、積極的に、意見を述べ始める。耕貴は、自然と身を乗り出し、耳を傾ける。

 「行動を起こす時間は、夕貴ちゃんが、おじさんの行動パターンを把握した上で、考えるとして、身体を濡らさない事には、ショック死を装えないよ。」

 「夏やったら、汗をかくから、不自然には、ならないと思うねん。今の季節やったら…。あっ、風呂場なんて、どうよ。」

 「それは、どうやろ。子供の力で、寝ている大人を、風呂場まで、運べるかどうか。それに、あくまでも、自然死をよそわなあかんねん。夜か昼かで、状況が変わるやろ。」

 図書室の奥の方で、声を潜めて、殺人計画を話し合っている十歳の子供二人。尋常な事ではないと思う。二人は真剣であった。耕貴は、夕貴に笑顔を取り戻してもらう為に、夕貴は、母親の事を想い、平和な家庭を取り戻そうとしていた。


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