第2話

―こうえん―

 一月の寒い空の下。小学四年生の夕貴が、赤いランドセルを背負い、小学校の近所の公園のベンチに座っていた。

 『お前まで、そんな目で、俺の事、見るんか!俺は、何も、間違えた事はしとらん!』

 夕貴は、耳を塞ぐ。数分前の出来事。そんな父親の怒鳴り声の後、手の平が、夕貴の頬に飛んできた。父親の鬼の形相。目を真っ赤にした夕貴は、赤いランドセルを手に取り、ヒリヒリと痛みが残る頬に手を当てて、家を飛び出していた。

 昨夜の父親と母親の喧嘩が、耳に残っている。夕貴は、蒲団の中で、震えていた。深夜遅く、母親が父親の事を、罵倒する。酒を飲んでいる父親は、母親に手をあげる。ここ二、三か月、毎晩の様に起こる出来事。夕貴は、蒲団の中で、耳を塞ぎ、物音が聞こえなくなるまで、透明人間の如く、ジィーと、している事しか出来なかった。

 シク、シク…登校をする。時間までは、まだ時間がある。公園のベンチで、大粒の涙を流している夕貴。自分に手をあげた父親の形相を思い出すと、小さい身体が震え出す。寒さから来るものではなく、父親への恐怖が、幼い夕貴の身体を震わせていた。父親の鬼の形相を、必死で掻き消そうとする。優しかった頃の父親の事を思い出し、身体の震えを飛ばそうとするが、それが、なかなか出来ないでいた。

 夕貴は、父親の事を嫌いではない。幼い私を、膝の上に座らせて、楽しそうにお酒を飲む。公園で、私の身体を持ちあげて、滑り台に乗せてくれる。一緒に遊んでくれた。笑ってくれた父親が、大好きであった。しかし、最近は、優しい笑みを浮かべてくれる父親を見ていない。夕貴の身体の青痣は、増えていくばかりであった。

 (幼児虐待)、そんな言葉が、この時代にあったのかはわからない。(躾の為)といえば、通る時代であった。

 今の状況を、十歳の女の子には、どう解決していいのか、わからなく、只、その日その日を過ごし通すしかなかった。笑う事を忘れ、大人の顔色を窺い、息を潜めて、生活をするしか術しかなかったのだ。

 “チュン、チュン…”俯いて、ベンチに座り、塞ぎ込んでいる夕貴の真っ赤な耳に、そんな鳴き声が届く。顔をあげて、目の前のジャングルジムに視線を向ける。

 <スズメだぁ>夕貴は、そんな言葉を発した。ジャングルジムの天辺、数匹の雀が止まっている。頭の部分だけを、ピコピコと細かく動かせていた。どこにでもいる雀なのだが、今の夕貴には、とてもかわいく見えた。

 「あっ、昨日の給食のパン!」

 そんな言葉を口にして、赤いランドセルの中を探り出す。言葉の通り、昨日の食べ残していたコッペパンが、ビニール袋に入っている事を思いだした。そのコッペパンを取り出し、小さくかわいらしい手で細かく千切って、地面に撒いてみる。

 “チュン、チュン、チュゥ、チュッ…”

 ジャングルジムに止まっていた雀達が、一斉に飛び降りてきた。頭の部分を、細かく動かせて、夕貴が、ちぎりばら撒いたコッペパンを、突っ突いている雀達。沈んでいた気持ち、表情が、少し、笑みを浮かばせた。今の夕貴には、こんな情景が、出来事が、とてもうれしく思える。楽しく感じる。なぜか、瞳から涙が溢れ出す。雀達のお陰で、緊張していた糸が切れたのか、涙が止まらない。

 「夕貴ちゃん、こんなに所で、一人でどうしたん。」

 しばらくして、夕貴の後方から、そんな言葉が聞こえてくる。夕貴は、慌てて涙を拭い、振り向くと、木村耕貴が黒いランドセルを背負い、ちょこんと立っていた。

 <耕ちゃん>思わず,そんな言葉が出てしまう。瞳を真っ赤にして、チョッピリ頬を腫らしている夕貴の姿に、慌てて、駆け寄る耕貴。そのまま、夕貴の肩に手をやると、力を込めてしまう。

 「どうしたんや、その顔。何か、あったんか。」

 夕貴の目の前に、耕貴の真剣な顔が近づく。驚きのあまり、身体に力が入ってしまう夕貴。

 「さっき、転んで、ちょっと、泣いてもうた。慌てん坊やろ。」

 咄嗟に、そんな嘘をついてしまう。父親に、殴られたなんて、恥ずかしくて言えない。

 「何でや、そんなに目を真っ赤にして、ホンマに、転んだだけなんか。」

 いつもは、夕貴に悪戯ばかりしている、幼馴染の耕貴は、ここにはいなかった。幼稚園からの長い付き合い。悪戯と云っても、かわいいもの。

 「ホンマかって、耕ちゃんに、嘘っていも、しゃぁないやん。」

 耕貴は、夕貴の目を、ジィーと見つめて、視線を外さない。すると、目を逸らしてしまったのは、夕貴の方であった。耕貴には、すぐに、嘘だという事がわかってしまう。夕貴が、目を逸らすという事は、自分にやましい事があり、話しをはぐらかせる時の仕草。

 「耕ちゃん、そんなに力強く、握らんといて、痛いやんか。」

 バツが悪そうに、そんな言葉で、この場を誤魔化そうとする。

 <あっ、ごめん>耕貴は、そんな言葉を発して、反射的に手を離す。つい、力を込めてしまっていた事に気づく。そして、夕貴の嘘に気付いているのに、これ以上、言葉にしない。長い付き合い、夕貴の性格は、よくわかっている。これ以上、問い詰めても、本当の事を口にする夕貴ではない事を、知っていたからである。良くいって、頑固!悪くいって、融通が利かない。とにかく、間が持たない耕貴は、夕貴の隣に座る事にした。

 「何や、転んだけか、驚かせるなや。びっくりするやん。」

 「何よ。耕ちゃんが、勝手に勘違いしただけやん。」

 耕貴は、話しを合わせる。夕貴の嘘に付きやってやる。夕貴も、耕貴が話しを合わせてくれているのに、気づいていた。そんな耕貴の優しさに、感謝する。

 「でも、目を真っ赤にして、ほっぺた、腫らしとったら、勘違いするやろ。」

 <…>耕貴の言葉に、返答しない夕貴。そんな状況も、耕貴は流した。立ち上がり、夕貴の手を取ると、軽く力を込める。

 「行こう、学校。ちょっと、早いかもしれへんけど、先生、誰か、来てるやろ。」

 夕貴は、何も言葉を発せず、耕貴に手を引かれて、立ち上がり、公園を後にする。夕貴が、ばら撒いたパンの欠片を、突っ突いている雀達。そんな中で、二人、手を繋いで歩く。耕貴は、今日だけでなく、最近の夕貴の変わり様に、気づいていた。顔では、笑っているが、時折見せる、夕貴の悲しそうな姿に気づいていた。そして、今、はっきりとした。夕貴は、何かを隠している。言葉に出来ない、何かを、背負っている。夕貴と手を繋ぎながら、ある決意をする。

 【夕貴ちゃんを、助けられるのは、僕しかいない】

 そんな言葉を、胸に刻む。そして、耕貴は、本当の夕貴の笑顔を見たいと、幼心に、そんな事を思う。赤と黒のランドセルが、二つ並ぶ後ろ身。まだ、十歳の男の子と女の子の姿が、そこにあった。


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