手をつないで 幼き頃、抱いた殺意
一本杉省吾
第1話
―樽井の浜―
電車が、プラットホームに、ゆったりと入ってくる。春の足音が、もうそこまで来ている三月十九日の午後。
(泉佐野、泉佐野…)そんな駅内アナウンスが響く中、一人の女性が、電車から南海本線泉佐野駅のホームに足を踏みしめていた。初春と云っても、頬に当たる風は、まだひんやりと冷たい。
周りを、キョロキョロと見渡している女性。同じホームの反対側、【岬公園】行きの普通電車に乗り込む。平日の午後、普通電車と云う事もあり、まばらの乗客の中、空いている席に座らず、閉まっているドア付近に、身体を預けて、外の景色を眺めていた。見に覚えのある風景。幼い頃の記憶が、脳裏に浮かんでくる。懐かしい風景。十年振りに、生まれ
育ったこの土地にやってきた。
(この電車は、岬公園行き、普通電車…)
聞き覚えのある、特徴的な車内アナウンス。もちろん、車掌は違う人であるのだが、独特のアナウンスの仕方、言い回しに、懐かしさを感じている。この女性が行こうとしている場所は、この駅から、四つ目の駅【樽井】と云う場所。この女性が、少女期を過ごした土地であった。幼かった自分の思い出が詰まっている場所。十年振りに、思い出の土地に向かっていた。小野夕貴と云う名前のこの女性は、今日、三月十九日で、二十歳になる。二十歳の誕生日に、少女期を過ごした土地【樽井】に向かって、電車は、ゆっくりと動き出した。
(岡田浦、岡田浦…)夕貴は、海側の風景を、ドア側に立ち、眺めていた。樽井駅の一つ前の駅、【岡田浦】は、字の如く、漁港がある土地であった。岡田浦から樽井にかけての区間、電車の車窓から見える海の風景が、夕貴はとても好きであった。堤防の壁の向こうに広がる海の風景が、記憶の中に、印象強く残っている。
ガタン・ガッタン…岡田浦の駅を後にして、電車は動き出す。幼い頃の記憶を胸に、海側の風景を眺めている夕貴。
<えっ、あれ!>思わず、そんな言葉を発してしまう。記憶の中の風景が、目の前に現れてこない。完璧に、海の風景が無くなっていた。津波防止の堤防の向こう側に、水平線が広がる海があった筈であるのに、今、目の前の風景は、空き地らしき荒地が広がる。身を乗り出して見てしまう夕貴。自分の記憶には、高速で思い返してみる。自分の記憶には、間違いない。でも、十年も前の記憶、思い違いと云う事あるかもしれない。
「えっ、堤防があるやん、って事は、海があったと云う事やんなぁ。」
今も、堂々と残っている堤防壁を眺めながら、何度も、瞬きをしてしまう。
(樽井、樽井、降り口は…)南海電鉄の独特のアナウンスが、夕貴の耳に入ってくると、工場の建物で、風景が変わってしまう。納得がいかないまま、電車は樽井駅に入っていく。頭を傾げながら、夕貴は、プラットホームに足を降ろした。しかし、樽井駅からの風景は、十年前の記憶と、さほどの変化はない。変わっている所と云えば、自動改札になった事くらいなものか?駅の海側には、大きな繊維工場。そして、斜め横にある自動車教習所。反対のホームに行く為の階段、通路も、昔のままであった。夕貴は、そんな事に気付いているのか。あまりにも、海の風景が無くなっていた事が、ショックであったのか、トボトボと改札口に向かって歩き出す。切符を自動改札に通して、【樽井】と云う駅の看板の下に立った時、懐かしい匂いが、夕貴の身体を覆っていた。さびれた樽井駅前。昔は、まだ、活気があったようにも思える。
<ここは、そんなに、変わらないねぇ>そんな言葉を口にして、振り向いた。改札口の見つめる夕貴。十年前、母親と利用していた樽井駅が、そこにはあった。幼稚園の遠足の岬公園、小学校の大阪市内への社会見学。この樽井駅から、電車に乗っていた。水筒、母親の手作りのお弁当、三百円以内のおやつ入りのリックサックを背負っていた、あの頃を思い出す。そして、ゆったりと、あの場所に向かって歩き出す。
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