第2話 ウルゲンチとカンクリ

 ウルゲンチ。


 モンゴル侵攻の直前にここを訪れた地理家(ヤークート)は、これまで訪ねて来た都城の中で最も大きく最も豊かとその栄華の時を伝える。

 

 このあたりは平坦な地となっておる。大河アムダリヤ川の土砂が長の年月に渡り堆積した結果であった。このゆえにそもそも流れる先が定まらぬアムダリヤ川であったが、当然ながら土砂はその流れる先に更にどんどんたまってゆくことになるので、余計に定まらぬとなる。歴史的にみて、アムダリヤ川は北方のアラル海に注ぐ時もあれば、西方のカスピ海に注ぐ時もあった。


 この時のアムダリヤ川はウルゲンチの人々の造ったせきにより、アラル海の方に主流を逃がし、それより分流する運河がこの都城をうるおしておった。この堰が決壊しては、都城が半ば水没することになるので、毎年の如くに修復作業が必要であった。


 北城は都城の略北半分に当たり、高台を中心に最初に発展した。その始まりはペルシア帝国(アケメネス朝)の末期(紀元前四世紀)にまでさかのぼりうる。その高台には本丸が建てられておった。南城は都城の略南半分に当たり、ホラズム帝国の繁栄に伴い急速に発展した。その北城と南城を運河が隔てており、また両城共に濠にてほぼ囲まれており、アムダリヤ川のおかげで常に満々と水をたたえておった。




 ここに拠るのがカンクリ勢である。


 ホラズムの勃興にその武力が大きくあずかったのは言うまでもない。そしてその始まりが、先々代のスルターンたるテキッシュとテルケン・カトンの結婚であることも。この2人は前スルターンのムハンマドにとっては父母、現スルターンのジャラール・ウッディーンにとっては祖父母に当たる。歴史家のナサウィーが伝えるところでは、テルケン・カトンの父系はイメクのバヤウト氏族であると。この歴史家はジャラールに仕え、またその伝記を著しており、ならばジャラール本人に聞いたと考えて良く、これを疑う理由は無い。


 では、イメクとはなんぞやとなると、どうも北東の方におり、徐々に南へ西へと移動しつつ、勢威を増していったらしいと、あまりはっきりしない。


 ただ、重要なのは、このイメクが突厥(テュルク)や当初これに臣従した諸勢力(ウイグル、カルルク、トルギッシュなど)とは異系統とみなせることである。突厥帝国以降の中央ユーラシア草原の歴史は、これらを中心に展開したと言って良い。また遊牧勢というのは、血統を重視するので、何百年経っても、その血筋の後裔がある程度の勢力として留まることは珍しく無い。


 つまるところ、これらの勢力が強大な時は、その外側におり、その弱体化と共に、という訳であろう。


 例え、その出自をさかのぼるのに限界があるとしても、この時、ウルゲンチを拠点にして生き残りを図ったのは、間違いなくカンクリ勢であり、イメクのバヤウト氏を支配者一族とする軍勢である。


 往時、しばしば遊牧勢の拠点として語られるは、むしろシルダリヤ沿いのジャンド(現クズロルダ近郊)である。しかし、野戦最強を自任し、加えて投石機部隊までもたずさえるモンゴル軍相手ならば、城壁と水濠で囲まれたウルゲンチこそが最善であるは――城の国の民と言って良い日本の読者に対してならば――多くを説く必要もあるまい。




 てつく寒風にさらされながら、城門の上から見張る兵が待つは、普段ならば暖かき春の訪れであった。グール朝の君主ムイッズ・ウッディーンの攻囲の後の17年の間は少なくともそうであった。しかし今年は明らかに違った。恐怖と共にであった。そしてそれをはねのけるために、自らの奮戦により撃退するという願望とも空想ともつかぬものを抱く兵も少なからずおった。

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