第101話 スルターン・ムハンマド2

   人物紹介

  ホラズム側

 スルターン・アラー・ウッディーン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主。父テキッシュもアラー・ウッディーンの称号を帯び、その死後、引き継いだものである。混同を避けるため、本書では一貫してムハンマドの名で記している。

   人物紹介終了




 さざ波が岸辺に打ち付ける。にぶい陽光がその水面を薄汚れて見せる。そしてここであれば大丈夫かと想う。今までは隠れては逃げ、逃げては隠れの繰り返しであった。ここには確かに隔てるものがあった。モンゴル軍はその軍馬の勢いのままにここに至ることはできぬ。


 浜を群れとなってそぞろ歩きする小さな水鳥さえ大陸の災厄を逃れて来たのかと、スルターンには見える。


(ここなら見つからぬ)


 しかしむしろその期待がスルターンを暗澹あんたんたる想いに引きずり込んだ。我は死ぬのか。それが神の定め給うたことなのか。逃げるばかりの日々、スルターンの体調は悪化の一途をたどっておった。




 渡って二日目。島は夜の闇の中にあった。島民から入手した木の寝台の上にフェルトを敷き、その上にて横たわっておった。


 我は本当に死ぬのか。死にたくない。何と恐ろしきこと。この我が本当に死ぬのか。このホラズム帝国のスルターンが。ここで死ぬとしたら、我は何のために父祖の事業を引き継ぎ、この国をここまで大きくしたのか。神はそれで良いのか。それでご満足なのか。あやつら異教徒どもの去った後、再びダール・アル・イスラームをこの地に再興しなくて良いのか。それを治めるのが我でなくて良いのか。


 母后や后妃たちはモンゴル軍に捕らえられたと聞いた。我は既に大きな犠牲を払っておるではないか。それでもまだ神は我を許して下さらぬのか。




 モンゴルに見つかることを極端に恐れる余り、スルターンは室内にてさえ夜の火の使用を禁じておった。冬迫るこの時、日ごとにつのる寒さが弱ったスルターンの体に良かろうはずはありませんとして、火の使用を願い出る王子や側近たちの進言をことごとく退けて。




 島に渡って数日後の昼。


 手にぬくもりを感じて、スルターンはひっとばかりに引っ込めた。己を死後の審判の場へと導く案内人の手としか想えなかったのだ。連れて行かれてなるものか。


 おぼろな視界を通して、何人もの顔が見えるが、最早スルターンには誰か分からぬ。激しい耳鳴りの中、何者かの声が聞こえた。スルターンには最早聞き取ることもできず、答えることもできなかった。生理的な反応を返したのみであった。


 世界が失われてしまう。


 スルターンはその時、確かにそう想った。

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