第96話 ジャンド戦2:ティムール・マリクとブジル5

   人物紹介

  ホラズム側

 ティムール・マリク:ホジェンド城主。今は船団を率いる。

 

  モンゴル側

 ブジル 百人隊長 タタル氏族

   人物紹介終了




「どけ」

 二度目であった。

 そのつがえた矢は、目当ての男に既に向けられておった。

 しかしその男の頭と言わず体と言わず、まるで覆う如くに、子供たちが覆っておった。

「どけ」

 三度みたび叫ぶ。

 子供たちのうちの一人、女の子が立ち上がり、更には近付いて来て、矢に自らの身をさらし、何かを言い返した。トルコ語に不案内な己には、はっきりした意味は分からぬが、父を意味するアターとの言葉は聞き取ることができた。恐らくはティムールの子供たちなのであろう。




 あたら好機を逃したか?


 つい最前のことであった。


 船尾の敵を倒した後、船内から男が数段しかない階段を上がろうとしておるところに鉢合わせし――しかも、その男は半ば後ろを向いて何ごとかを叫んでおり、こちらに気付くのが遅れたので――剣は最早手許になく弓のみを手に持つブジルは、慌てて蹴り落としたのであった。


 その倒れ落ち行く時にはっきりとその顔を見て、それがあの男であるを確認した。ブジルは急ぎ弓に矢をつがえ、船内に落ちた者へ放たんとしたのだが、その時には一人の少女が既にその側らに寄り添っておった。


 誤って射るを嫌ったブジルは、そこで、最初の「ドケ」を叫んだのであったが。


 すると却って他の子供たちもまたという状況になった。男の子もおれば、女の子もおる。女の子の方が多く、その中にはもう少女とは呼べぬ者も混じっておった。


 恐らく最初の子供は単に父の身を案じてだったのだろうが。今となっては、あの時、射るべきであったかと悔やまれる。あくまで万が一を恐れての一言であり、またこうなるなど想像もせぬゆえでの一言であったのだが。


 敵兵は船上に出て来た者で全員であったのだろう。残るは矢の先におる者たちをのぞけば、少し離れたところで悲鳴や泣き声をあげている女たちであった――恐らくティムールの妻妾なのであろう。




 このまま撃つか否か迷っておるブジルの目の端には、これにぶつかった他船の上を向かって来ておるホラズム兵の姿が既に入っておった。


 ブジルは矢を放った。


 ただ少女に向けてではなかった。その乗り移らんとする者たちの先頭に向けてであった。


 その者は矢を受けて倒れた。しかし、すぐ背後に他の兵が続いておった。しかもその中の数名はそこで足を止め、まずはとばかりに己に向けて矢を構えつつあった。


 ブジルが反射的にしゃがむと、頭上を矢が数本通過した。立つことはせずに、しゃがんだまま、先に己が剣を投げつけた者の死体を乗り越える。それから、舷側を越え、川へと飛び込んだ。


 とはいえ、己が泳げぬのを忘れた訳ではない。ただ今は船が密集し、しかも船橋ふなばしにせきとめられる形となっておる。一端、矢を避けるを優先し、再び船につかまって這い上がれば良いと、瞬時にそう判断したのだ。


 ただ何としたことか、船はすぐそこにあるのだが、船縁ふなべりに手が届かない。


 ずぶずぶと沈んでしまう。


 クソッタレ。こんなところで死ぬのか。


 懸命に浮き上がらんとするも、腕に力を込めれば込めるほど、余計に沈むことになった。


 先ほどは頭と変わらぬ高さにあった船も、今では血と土砂で濁った水越しに、その底を見上げる。

 

 とんでもなく息は苦しく心臓は破裂しそうに脈打つ。

 

 そうした時、まさに何かを求めて闇雲に伸ばした手が、触れるを得た。


 懸命につかみ、それをたどって上にあがる。そうして何とか頭を水上に出すを得た。


 見上げてみると、味方の兵が、ブジルのつかまる長棒を持っておった。そして左右から脇の下に手を差し込まれ、手助けされつつ、己もようやく手をつけるものを見出して、自らの体を引き上げる。


 船橋の上であった。既に引き上げられたらしき者が何人かうつろな顔で座っておった。その多くは自らの百人隊であった。


 ブジル同様、戦っている途中で落ちたり自ら水に飛び込んだりした者を、引き上げておるのである。そのおかげで己もまた救われたのだった。


 兵に混じって、船橋の上でへたり込んで息を整える。


 何とか助かったか。


 そして今頃になって寒さに襲われ、全身が震えだした。


 不意にメリメリとの音がする。


「つかまれ。橋につかまれ」


 ブジルは叫ぶ。


 他の者も事態に気付いた者はやはり同様のことを叫ぶ。


 そうしておるうちに、メリメリとバキバキと何かが崩れ出し、そしてまさに橋が動き出した。


 ブジルは再び落ちてはならぬと必死でつかまる。目を上げると、橋がバラバラになり流れ始めておった。


 そうして、そうなれば、ホラズムの船も皮肉なことであるが、互いに仲良くという如く流れ出す。ここで遂には攻勢守勢は逆転し、橋上にはいつくばるモンゴル兵や船に飛び乗っておったモンゴル兵は、いいように狙われたり、そうでない者も攻撃を避けようとして水に飛び込んだりした。


 先ほど溺死できししかけたブジルには、その道はありえず、敵に撃たれぬことを祈って、その態勢のまま川の流れに身を任せるしかなかった。

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