第87話 母と子6:イラクのスルターン1(ルクンとイマド)

前注 話の題のイラクは、現在の国でいえば、イラン西部です。歴史的には、この地は――バグダードを中心とした現在のイラク国と併せて――イラクと呼ばれて来ました。ここは史料の伝える異郷のロマンを感じていただきたく、イラクとしています。




 ニーシャープールを発したスルターンは再び一路西へと逃げ、レイ(現イランの首都テヘランの近く)に到着した。ニーシャープールからレイまで直線距離で約七〇〇キロ弱。やはり長駆逃げて来たと言って良い。そしてここはテルケンが逃げ込んだマーザンダラーンの山岳の南にあり、それほど離れておらず、同一所でないにしろ、近くに隠れ潜むことを図ったのであった。


 ところが見知らぬ軍勢が近くにおるとの報告が入った。スルターンは心臓を鷲づかみにされるが如くの恐怖を味わった。ずっと逃亡を続けて来たとはいえ、モンゴルの追手が間近に迫ったのではと恐れたのはこの時が始めてであった。


 スルターンはこの地に斥候を残して、そこから南西にクム(現在のコム)を越えファラジーン城(かつてのスルターナーバード、現在のアラークの近く)に逃げた。この逃避行に際して、再び近侍することになったイマドの言に従ったものであった。このような時こそ、ご子息を頼られるべきとの。


(注、グーグルマップでは「イラン レイ」「イラン クム」「イラン アラーク」と検索欄に入れれば良い)




「お久しぶりです。父上」


 そう言ってひざまずいて出迎えたルクンと会うのは、カリフの首のすげかえを目的にバグダード方面に侵攻して以来――その際このホラズム西端の地の統治をこの者に委ねて以来であった。


 スルターンは自らもしゃがみ込んで息子の肩をつかみ、立ち上がらせた。その肩はより厚みも増し、その顔付きにもかつて見られなかった自信――傲慢さではなく――がうかがえた。


 そもそも年数にすればわずか一年半ほどではあれ、確かに若い息子がその間経験を積みたくましくなったと、その成長を感じることができた。ただ壮年のスルターンがそのことを随分昔と感じるのは、まさに己の身と祖国を見舞う変転のゆえであったろう。


 ルクンはその地の軍勢を糾合し、総勢3万を率いてスルターンを待っておったのだ。そうであればその告げる言葉は決まっておるようなものであった。当然こうなる。


「父上。どこでモンゴル軍を迎え撃ちましょうか。この城にて、それとも、いずこかへお移りになられますか」


 スルターンはさも嫌なものを聞いたという如く顔を引き歪めてから、


「それについては後でそなたの配下の者たちから話を聞こうと想うておる。現地の者の方が良く地勢を理解しておろうから。今日は長旅でとても疲れた。悪いが休ませてくれ」


「おお。これは気が利かず。無論、お引き留めはしませぬ。是非、そうなさって下さい。お休みになられる天幕は用意しておりますゆえ」


「そうか。しかし今夜は城内で休もうと想うておる。我も年を取った。若い時分の如く天幕の暮らしを気楽な心地よいものとは想えなくなっておる。城の中の方が安心して眠れるのだ」


 最後の言葉は本心から出たものであった。この城下にてモンゴル軍に襲われたらどうするのだとの。


 ルクンがそれを読み取れるはずもなく、何か父の癇に障ることを申し上げたのかという表情で、イマドの顔をうかがう風であった。


 イマドは今もまたこの謁見に同席し、ひざまずいて傍らに控えておった。明らかにその視線に気付いたようであったが、困惑した表情をしてみせるのみであった。


 スルターンは一部始終その様を見ておったが、やがて殊更なごやかな表情を作ってから穏やかな声にて告げた。


「おお。そなたたちにとっても久方ぶりの再会であったな。サマルカンドからここまで、イマド・アル・ムルクは良く尽くしてくれた。そなたに早く返すべきであった」


「いえ。返すなどとんでもない。サイラームにモンゴルが進駐したと聞き、まさにこれは祖国の危急の時、そう想い、父上の下に赴かせたのです。父上におかれましては、これからますます必要とされましょう。お側に留め置きお仕えさせたく想います」


「いやいや、そなたこそ、この者の経験を必要としよう。そう想ってそなたにアター・ベグとして授けたのだ」

 ルクンはまだ何か言おうとしておったが、スルターンはそのいとまを与えず、言葉を続けた。

「まあ良い。それはまた後で話せば良いこと。避難先を話す時にでも。積もる話もあろう。イマド・アル・ムルクにはしばらくそなたの下に留まるべく命ずる。今宵は久方振りに主従の間で言葉と酒を酌み交わせ。よいか。これは命令であるぞ」


 そしてスルターン一行はイマドのみをルクンの下に残して、城に入った。


 この地に集った軍勢を以てすれば、追って来ておるモンゴル軍と一戦交えることは十分可能であったろうが、それは望むところではなかった。その点、スルターンはかたくなであった。ただただ自らの考えに従って動いた。




(ルクンにイマドを授け、その2人をイラクに留め置いた出来事は、第1部第9話『和平協定2(スルターンと王子ルクン、そしてイマド)』にあります)

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