第62話 オトラル戦28:突破作戦3日目の夜から4日目の朝にかけての動静
オトラル軍の攻囲突破作戦において、これまで記しておらなかった動静を、ここに伝えておこう。
まず、居残り部隊であるが、他の城門にての騒ぎが遠くに聞こえる頃――つまり、騎馬隊に続き歩兵隊が攻囲の突破を図る頃には、3夜連続の出撃のゆえに、隊長のビルゲ・カンと兵の九割方を失っておった。
生き残ったおよそ五十人の兵は副官に率いられ、まさに最後の突撃を敢行した。仲間を一人でも逃がすため、できるだけ多くのモンゴル兵を引きつけるため、そして何より一人でも多くのモンゴル兵を殺すために。
初戦にてはなばなしき戦果を挙げた三人の百人隊長の内の一人トガンも騎馬に乗り、8人の騎馬兵と共に脱出を図っておった。
薄闇の中では、全速力で逃走を図ることは却って危険である。進むべき先を見出すのにこの夜の月明かりのみでは心細いが、しかし逃げるべき方向は明らかであった。オトラルの周囲を照らすモンゴル軍のかがり火から遠ざかる方向を目指せば良かった。
またモンゴル騎兵はいずれも松明をかかげて追って来たので、これを避けるは容易であった。問題はこれからであった。まずはモンゴル軍が追うのをあきらめるほどの距離を稼ぐ必要があった。払暁の薄明かりの中ようやく騎馬にムチを当てることができるようになった。各騎馬は逃げる速度を上げる。トガンも無論。
この4日前のこと、ソクメズが隊を率い、敵の追撃を引きつけると聞いた。その意味するところを、つまり死を賭して我らを逃がそうとしていることに想い至ると、トガンは、本丸の内にあてがわれたソクメズの居室を訪ねた。日没の礼拝を終えて後のことであった。それまでは、突破作戦のための準備に忙しいであろうと想い、遠慮してのことであった。
是非、わたくしもソクメズ様の旗下に加えていただきたいと、その想うところを率直に願い出た。
「そなたにはそなたの役割がある。まだ我らは負けた訳ではない。母后テルケン・カトンの下に至り、ウルゲンチにて決戦するのだ。その時、そなたがおらねばどうする。それにそなたはまだ若い。死に急ぐな」
その最後の言葉を言った直後に、疲れが見えるその顔に、しまったとの表情が浮かぶのを見たトガンは、ならばと願い出る。
「ソクメズ様こそ、是非にも必要な御方。わたくしと代わってください」
「愚か者が。傲慢にもほどがある。そなたが我よりこたびのことを為し遂げ得るというのならば、我の方からそなたに頭を下げて頼み込んでもやってもらうわ。良いか。誰かが、これをやらねばならぬ。ただとりあえずやってみましたではダメなのだ。成し遂げねばならぬのだ」
そう言われたならば、トガンは口ごもるしかなかったのだ。
「しかも、あの黒トク相手だ。分かろう。あれがおらねば、そなたでもなし得よう。ただこたびばかりは、我でさえうまくなし得るかどうか。しかしそなたよりはましであろう。どうだ。異論はあるか」
「ありませぬ」
低い声音、かぼそい声量にてそう答える。
「それにそなたには頼みがある」
「何なりとお申し付けください」
トガンはひざまずいた。
「ふっ。そう、堅苦しくするな。個人的な頼みだ。それにそなたにしか頼めぬ」
トガンは量りかね、言いつけられるのを待った。
「ブーザールの仇だ。無論、今回、我も黒トクを討つつもりではおる。ただ相手が相手。討ち漏らすこともあろう。下手すると、というより、恐らくは、指揮官としての力は黒トクの方が上」
(いえ。そんなことは)
トガンは、そう言いたかったが、そんな嘘を、ソクメズが喜ぶはずはなかった。
「頼むぞ。そなたならばこそ、頼むのだ。我の言う意味は分かるな」
その声がトガンの心の中に今も響いておる。
ブーザールは、あの出撃の後、矢傷が回復せず、体力を奪われ、高熱を発して亡くなっておった。もちろん、ブーザールがそうなったのは、トガンやソクメズのせいではない。イナルチュクを始め、誰もそれでトガンらを責める者はおらなかった。
ただ、トガンの心にそれは棘の如く引っかかっておった。もし己があの時こうしておれば。あるいは、もし己にもう少し力があれば。ブーザールは、そして、あの戦にて亡くなった多くの者たちは死なずに済んだのではないか、そう想うのは一度や二度ではなかった。
年長者であるソクメズならなお一層であったろうとは、この時初めて気付いた。まさにそれを託されたのだった。
それに応えるには、生き延びてこそ。ただそれのみを念じ、シルダリヤ川からそれほど離れずに、馬にムチを当て続ける。春間近となり、日中の寒さは緩み始めておるも、川は未だ凍結しておった。その氷を割れば、容易に水は得られたし、何より道しるべとなった。
そう、ウルゲンチへの。
(注 ブーザールが矢傷を負った戦は、第3部の16~18話『オトラル戦13~15:カンクリ騎馬軍の出撃、再び1~3』にあります)
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