第22話 西域の地勢

 ここで少しばかりここの地勢の大略を。ヒマラヤ山脈ができたのが、インド・プレートがユーラシア・プレートにぶつかり、押し上げるゆえというのは良く知られた話である。その西北に位置するこの地の造りもその余波にあり、総じてヒマラヤ側の東南が高くアラル海側の西北が低い。


 広さはだいぶ異なるとはいえ、(ヒマラヤ山脈を挟んで)東のチベット高原と対をなす形で西のアフガニスタンの高地がある。


 また(やはりヒマラヤ山脈を挟んで)東の中国の川は全て東流すると言われるが、西(厳密に言えば西北)のこの地では多く西流する。


 目印となりまた境界をなすのが北のシルダリヤ川と南のアムダリヤ川である。ほぼ平行にそして共に西北西に流れアラル海に注ぎ込む。2本の大河が流れ込むことより明らかな如く、アラル海周辺は総じて低地であり、少し離れて西に世界最大の湖カスピ海がある。


 そのシルダリヤ川とアムダリヤ川の間は、かつてソグドが栄えた地であり――その2大都城たるサマルカンドとブハーラーもここにあり――共にザラフシャーン川にうるおされる。


 この2大都城は肥沃さで有名ではあるが。春に雨が多く、夏は日照り続き。ゆえに春から夏にかけての時期は、徐々に降水量が減って行く。そのような地で農耕が成立するのは、日本人には半ば信じがたきところである。


 それが可能なのは、

――川と

――これより分流して張り巡らす水路

――そのゆえである。




 実際ブハーラーより更に下流にあるパイカンドがモンゴル侵攻のこの時期に既に滅んでおるのは、ザラフシャーン川による水の恩恵が得られなくなったゆえと考えられている。


 これが、根本的にザラフシャーン川の水量が減ったゆえか、より上流のサマルカンドやブハーラーで取水量が増加したゆえかは、はっきりしない。


 このパイカンド出身で隋や唐に至ったソグド人(とその子孫)は畢姓を名乗ったことが知られる。ここもまたソグドの城市の1つであり、かつてはそれほどに栄えたのである。

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