第5話 モンゴルの進軍2(ウイグルのビシュバリク)
ところで元史の『哈刺亦哈赤北魯伝』によれば、チンギスは天山北麓のビシュバリクの近く、その東方にて、無人となっておる古城を見出しました。その際、
唆里迷は
そもそもチンギスが進軍に先立ち、ウイグル王イディクートに対しその領土内の街道の整備を命じておったであろうことは疑い得ないことです。しかし自ら至ってみて、これからますます伝令の往来、更には補給や増援の部隊の通過もあろうに、このままでは十分な糧食の提供が難しいと考えてのこの命でしょう。
ところで、ここは耕作地としては放棄されておったとしても、ビシュバリクがウイグル王の夏営地である以上、その牧地であった可能性は高いと想います。ウイグル王にすれば、牧地を失い、といって収穫物の割り当てもないとなります。しかしこれから西征が始まる状況では、ウイグル王にしろ拒むことはできなかったでしょう。何せ己自身も配下を率いて参戦するのです。その勝利は自らもまた強く願うところであったはずです。
またこの伝は他にも面白い記事を伝えております。まず、これ以前に、この哈刺某は、西遼のグル・カンに召され、その諸子の師となったと。そしてウイグルがカラ・キタイに鞍替えした時のこと。哈刺某を一目見て、チンギスは大悦し、その諸皇子に、この者から学を受けさせたと。
伝ゆえ誇張はありましょう。しかし恐らくこの者は仏僧であり、そのゆえに上記の高待遇を受けるを得たと想われます。
そのことは、この伝にて、
1.この者の子孫の一人が「僧人を領す」と、
2.また他の一人が元の明宗により「朕の師」と呼ばれたと、
記されておることにより傍証されましょう。血統でも官位でも劣るこの者とその子孫が師と呼ばれるのは、宗教的権威ゆえとしか想えません。
特にグル・カンに召されたとの記録は興味深いものです。両国間に仏教国同士としてのつながりがあったということです。イスラームが徐々に東進する中で、両国間に仏教に基づく連帯感があったとしても不思議はないでしょう。
加えて、そもそも契丹(遼)の建国者たる耶律阿保機の正妻は、ウイグル王族の淳欽皇后です。つまり血筋にてもつながっておったのです。
ウイグルが臣従する相手として、カラ・キタイというのは、史料が伝えるほど悪いとは想えないのです。
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