第26話 それの後1(カン) カクヨム版

  人物紹介

チンギス・カン:モンゴル帝国の君主


オゴデイ:チンギスと正妻ボルテの間の第3子


グユク:オゴデイとドレゲネの間の長子。


シギ・クトク:チンギスの寵臣。戦場で拾われ正妻ボルテに育てられた。タタルの王族。


アリー:隊商のラクダ係


テンゲリ:カンのシャマン。コンゴタン氏族


  人物紹介終了




 アリーは日が暮れても月明かりを頼りに街道を進み続け、その夜のうちにホラズム領を出た。ホラズムは監視の兵を付けることさえしなかった。また国境警備の兵は、奪うが如くにして通行証を取り上げただけで、アリーを素通りさせた。


 アリー自身それから何日かかったかはっきりせぬも、とにかくサイラームの近くにおったモンゴル駐屯軍を探し求め、そこの隊長ノヤンにことの顛末の全てを報告した。


 通常モンゴルの使者・伝令は、馬は替えるが、人は替わらぬ。それでこそ言葉は違えられず、正しくカンの下に届けられる。ただ時日はかかる。


 無論先のヤラワチの如くは問題外とせねばならぬ。そうではなく、いかに体力が有り、馬扱いがすぐれ、なるべく早くに目的地に達せんとする者であっても、一日に走り続けられる距離には限りがある。そして長距離に及べば及ぶほど、騎乗の人次第となるは明らかである。


 他方今回凶報をつなぐにおいては、馬も替えたが人も替えた。そもそもがアリーからの伝言である。そして尋常ならざる凶報ということもある。そしてヤラワチの吉報を真っ正面から否定するものである以上、その尋常ならざる印象はいや増す。


 それゆえにこそ各宿駅におる隊長ノヤンは、これが何よりカンに早く報告すべきことと判断したのであった。


 月明かりがある時は夜行させた。まさに凶報は昼も夜も運ばれ、早駆けに早駆けを重ね、もたらされたのであった。


 それゆえ使節団の荷隊を追い抜いた。さすがにヤラワチを追い抜くには至らぬも、カンのオルドに達したは六日遅れに過ぎなかった。




 チンギスは隊商の虐殺を聞くと、


「何だと。そんなことがあろうか。たわけたことを申すな」


 想わず伝令を叱りつけた。そして繰り返し伝令に問い、繰り返し同じ報告を受けた。


 立ち上がろうとするも、一瞬立ちくらみを起こしたのか、またしゃがみ込む。


 その身を心配して、グユク――ヤラワチのすぐ後に、まさに追う如くにしてオゴデイの下より来ておった孫――は手を差し出した。その未だ大人とはいえぬ手をはらいのけてしまい、チンギスはさすがにとの顔をした。


 シギ・クトクがすかさず間に入り、


「グユク様。ここはどうかおさがり下さい」


としてその場をおさめた。


 グユクは丁度一回り前のトラ年生まれであり、ゆえにこの時十一、二才であった。


 チンギスは「皆、決してついて来るな」と厳命し、ふらふらとした足取りで天幕ゲルの外に出た。




 そのまま祭祀を行なう小高い丘に向かい、その頂きに登る。まずは携えて来た馬乳酒を天にふりまき、それから自らもそれで少しのど湿しめらせた。


 そして北の方角、聖山たるブルカン岳の方を向いて祈り始めた。帽子を取り、帯をゆるめ、弁髪べんぱつが乱れるのもかまわずに地にひたいをこすりつけて。


 もっとも、その心は定まっておらぬ。祈りに集中するどころか、そもそも何を祈れば良いのかさえ、分かっておらなかった。


 どうしてこのようなことになってしまったのか。あの者は我と協定に合意したのではなかったか。それにもかかわらず、己の配下を百人余りも殺された。


 これは間違いなく己が何事かを見誤ったせいであった。ただただ怒りのみが心の奥底から湧き出て来た。




 三日目の昼を過ぎる頃、急にどす黒い雲が集い、激しき雷鳴と共にチンギスは豪雨にうたれた。雷に打たれるかもしれぬ。その恐怖は大きかった。


 携えて来た五袋の馬乳酒は、かわきと空腹のために既に飲み干しておった。ただ飲む前に必ず天へと分け前をふりまいたので、今こうして己をうるおしてくれておるのだ。そう無理矢理想い込もうと努め、顔を天に向け口を開いて雨で喉をうるおした。


 それでも雷に打たれるかもしれぬという恐怖が去ることはなかった。そうなったら、それは己の犯した間違いに対する天罰。甘んじて受けるべきであると想いなした。


 逃げたいという衝動を必死で抑えつけた。殺された者たちのことを想って。


 雷雨は始まった時と同様、急に止み、チンギスはぬれねずみのまま祈りを続けた。強い日差しは早くもチンギスの衣を乾かし始め、濃厚な大地の臭いを立ち昇らせ始めておった。


 心がしずまることはなかった。ただ己が何を見込み違いしておったかは、はっきりとした。己は愚かしくも自らの都合で物事を判断しておったのだ。


 いずれホラズムと戦になるであろうとは想っておった。しかしそれは息子たちの代のことと勝手に決めつけておった。


 まずは金国のはずであった。この時はというより、その勃興の時以来、モンゴル高原東部に拠点を置いたチンギスにとって、常に最大の軍事的脅威は金国であった。


 ゆえにこそチンギスの外交政策にとって、永らく金国との友好関係の維持は最重要課題の一つであり、高原統一のその時まで金国に配慮し朝貢を続けたのもそのためであった。


 そして金国皇帝アルタン・カンが黄河の向こうに逃げ込んだ今でさえ、危険な存在であることは変わらぬ。


 状況が変われば――もし己が急死したならば――もしモンゴルで内紛が起こったならば――もし英明な者が金国の皇帝となれば――現実にモンゴルを滅ぼしかねぬ敵であった。


 チンギスにとって、金国の息の根を完全に止めぬ間は、ホラズム遠征などありえなかった。しかしこれこそまさに己の都合であった。こちらの金国討滅など、少し考えてみれば、ホラズムのスルターンには何の関わりもなきことであるは明らか。


なにゆえそれに想い至らなかったのか。そしてそのために多くの配下を殺すことになってしまった。まさに己の愚かさのゆえであった。


 しかもこたび虐殺されたのは、商いに赴いた者たちである。戦に赴く将兵ならば、赴く者もまた送り出すチンギスにも覚悟はある。あれらは、むざむざと無抵抗に殺されに赴いたようなもの。


 その想いがチンギスの心をえぐる。

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