第10話 和平協定3(スルターンとオグル、そしてニザーム)カクヨム版
登場人物紹介
ホラズム側
テルケン・カトン:先代スルターンであるテキッシュの正妻。カンクリの王女。
スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主。
先代テキッシュとテルケン・カトンの間の子。
イマド・アル・ムルク:スルターンの重臣
ニザーム・アル・ムルク:スルターンの家臣。位は文官筆頭。
(これは名ではなく、称号である)
オグル・ハージブ:ブハーラーの守将。カンクリ勢。
登場人物紹介終了
とはいえその帰還は全てが
オグルは凱旋軍より己が目立ってはならぬとの配慮のゆえか、住民と
そして数名の護衛のみを引き連れて、下馬して待っておった。スルターンが
「そなたを連れて行くべきであった。そうしておれば、今回の如き結果とはならなかったであろう」
とまで述べるほどの上機嫌となった。
理由のない訳ではなかった。オグルはカンクリ勢ではあったが、スルターンに対してもまた忠誠を示した。スルターンはそうした者たちを敏感に
この者はブハーラーの守将にと。
他にもイナルチュクは北辺の要たるオトラルの城主にと。
アミーンに至っては、ヘラートの城主に任ずるとともに、グール・ガズナ
オグルは、凱旋軍の先頭をわたくしが進んでは、従軍した将兵に申し訳ないとして、都城に入る前に離れるを請うた。ゆえにスルターンはそれを許した。
ただその喜びまでも
ニザームのことであった。ここまでどうにかして殺せぬものかと、イマドの忠言を得てなお執心しておったのだが。
とはいえ、単に喜びのゆえという訳ではなかった。スルターンが重用する者たちを、母上が追い落とすことはなかった。そのことに、あらためて想い及んだのだ。
「母后は公平な方です」
「テルケン・カトンほど寛容な方はおらぬでしょう」
母上の公平さと寛容さは世に鳴り響いておった。更にはそれを
オグルらが我を慕い、我に忠誠を尽くすならば、我もまたそれに見合う君主たらねば。ようやくそこに想い至るを得たのであった。
ブハーラー、ここの本丸(注1)と城壁は、スルターンが再建したものであった。これより明らかな如く、スルターンは自らの御座所たるサマルカンドに次いで、この都を愛し、また重んじておった。
ところで、自らのおるところに呼び出すのもまた権力者の特権である。スルターンもまたそうしておった。自らの到着前にここに至っておれと。
一方はサマルカンドにて待っておったモンゴル使節団を。
他方はスルターンが軍征に連れて行くのを望まず、またその者も願い出なかったので、サマルカンドに留めておったニザームを。
そしてスルターンが軍装を解き先に謁見したのは、モンゴルの使者ではなくニザームであった。本来なら恋人たちの
先の会議には、例えその多くがスルターンに従う、あるいは協力的な人物とはいえ、まだ他に人がおった。今回は本丸にある軍議のための
更には入室するなりひざまずいて己の足下の
「ニザーム・アル・ムルクの称号を持つ者には、
スルターンはニザームに対して、
「そなたは何の進言もせぬ。その官位にあるならば、最良と考える策を示すべきであろう。何らの責任も果たしておらぬではないか。よもや今回の結果を予見して、なお我を止めなかったのか」
とあくまでその罪を問うた。
更には「死刑に処すこともできるのだぞ」と脅した。
ただ声は、ささやく如くに留めた。その低き声は、ナイチンゲールの高音に邪魔されることはなかった。あるいはそうであったとしても、息が吹きかかるほどに近くから耳元でささやくならば、問題とはならぬ。それから、
「あるいはこういうのはどうか。そなたも知る如く、母上は罪人や
その下の
そこでスルターンは一呼吸置き、ニザームの反応をうかがう。
「あるいは遠征失敗の責任をその一身に背負うて、自ら身を投げるという道もあるぞ。さすれば、そなたの名誉も守られようというもの。我も言葉を尽くして、そなたの死を
スルターン自身は玉座には座さず、自ら手に持つランプをかざして、ニザームの顔をのぞきこんでおった。この地には、罪人の目に
そのランプはスルターンが居室から持って来たものであった。細密に
それに照らされた横顔においては、ランプの橙色に染まるせいで、青白く血の気の引いた様こそ確認できなかった。しかしニザームの顔といわず体といわず震えておった。スルターンはそれを十分に楽しんだ後に、次の如くに告げた。
「そなたは知っておるのか。
我がホラズム・シャー家は、その主筋たる大セルジュークのマリク・シャー大帝にこそ大恩あるを。
我が祖は、そもそもその重臣によりガルチスターン(注2)にて買われた奴隷に過ぎなかった。
その後マリク・シャー大帝に引き立てられ、その側らに仕えるに及んで初めて、今のホラズム・シャー家の栄えに至るを得たことを。
そしてそなたの有するニザーム・アル・ムルクの称号こそマリク・シャー大帝に仕えた大宰相のものであったを。そなたは、果たしてその称号にふさわしき者か」
「わたくし自身は、決してふさわしいとは想っておりませぬ」
ニザームは震え声で答える。
「ならば返上すべきではないか」
ニザームは黙した。
スルターンは続ける。
「我が兄はマリク・シャー大帝と同じ名を授けられた。しかし余りに名が重すぎたのか、兄は短命に終わった。
他方で我が祖父は、アルスラーン大帝と同名となるを忌んで、あくまで臣下であることを明らかにせんとして、イル(臣下を意味する)の語を頭に置き、イル・アルスラーンとしか名乗らず、大セルジュークに対する礼節を守り通した。
いずれが賢明であるか。名や称号はその身にふさわしくあってこそ、喜ばしきもの。そうは想われぬか。
ナースィル・ウッディーンよ。そなたはこの称号も有しておる。そして奇しくも兄マリク・シャーもまたナースィル・ウッディーンの称号を帯びた。そなたも知らぬ訳ではあるまい。どこに不足がある」
ニザームは黙したままである。
「母上は何ゆえに、あのような方なのであろうか」
スルターンがそう問うも、ニザームはやはり黙したままであった。
「父上は兄にマリク・シャーの名を与え、母上はそなたにニザーム・アル・ムルクの称号を与えた。その願いは、我にも、否、誰にであれ明らか。兄をスルターンとして、そなたを補佐として、大セルジュークに劣らぬ繁栄と栄光を。
しかし兄は亡くなっておるのだ。母上は何の夢を見続けておるのだ。我に何を望んで、そなたを付けるのだ。我は兄ではないぞ」
スルターンの父親譲りの端正な顔は、歪んでおった。それは決して芝居ではありえなかった。人はまさに心中の何かを吐き出す時に、そのような顔をするものである。そしてその引き歪んだ顔のまま続けた。
「我はそなたの称号を聞く度に、父の兄に賭けた期待を、母の兄に託した願いを想い出さざるを得ぬ。そなたはその称号を帯びておるだけで、我に苦しみを与えておることに想い至るべきではないのか」
ただスルターンがこの者、さげすみ忌み嫌うこの者に自らの心中を
「そなたは母上の信頼厚き臣。例え大罪明らかとはいえ、死刑に処すには忍びない。何より母上に申し訳ない」
としてスルターンは、
「そなた自身が自らにとって望ましき罪を選べ。我がその罪状にてそなたを解任するゆえ、戻って自らを罰するよう母上に請え」と。
ニザームは、まさにそれに飛びついた
注1 本丸:これらの地の城には通常「城塞」「城砦」の訳語が当てられるが、その軍事機能の点から、あえてここは「本丸」の語を当てています。少し書き進んだ後に(その方が理解を得られやすいと想いますので)、もう少し詳しく述べたいと想います。
注2 ガルチスターン:アムダリヤ川南岸のホラーサーンの四大都城の一つにメルヴがある。メルヴはセルジューク朝の中心の一つとして栄えた。ガルチスターンは、そのメルヴの南にある山がちの地である。
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