第1部

前日譚

第1話 始まり1(クナンとジョチ、そしてスルターン)

人物紹介

モンゴル側

チンギス・カン:モンゴル帝国の君主。


ジョチ:チンギスと正妻ボルテの間の長子。


クナン:ジョチ家筆頭の家臣。ゲニゲス氏族。


モンケウル:ジョチ家の家臣。シジウト氏族。


ケテ:ジョチ家の家臣。


フシダイ:ジョチ家の家臣。フシダイ氏族。



ホラズム側

スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主。



メルキト勢

トク・トガン:メルキトの王族。


人物紹介終了




 トク・トガン率いるメルキト勢を殲滅せんめつに追い込み、シルダリヤ川(注)の北の地を引き上げつつある一軍。秋に軍を発し一冬をかけての征討であった。ジョチ率いるモンゴル軍であった。


 既に頃は日一日と暖かさの増す季節となっており、平原には春の草が芽吹き始めておった。長い追跡と、枯れ草で飢えをしのぐしかなかったゆえに、すっかりやせ細った馬たちにとっては、願ってもないご馳走であり、許されるならば少し太らせてから帰還したいところであった。


 そのジョチの下に一つの報告が入る。斥候せっこう隊を司る百人隊長が騎馬にて駆けつけ報告した。ジョチとその隣にこまを並べる万人隊長クナンは、騎乗のままその言葉に耳を傾ける。


「かなりの軍勢が接近しております。当地にくわしい者によれば、ホラズム軍であると」


 それを聞いて、ジョチは顔をしかめた。


「カンは、ホラズム軍との交戦は避けよときつく仰せでありましたな。困ったことになりましたな」


 クナンの人ごとのような物言いに、ジョチは更に顔をしかめた。


「逃げ切れると想うか」


「無理でしょうな。特に輜重しちょう隊は」


 クナンに改めてそう言われずとも、ジョチの心は半ば決まっておった。


「千人隊長を全員呼べ。至急に軍議を開く。それから輜重隊には行軍の速度を上げよと伝えい」


とかたわらに控える伝令隊長に命じる。


「どこか地勢の良いところで対峙するしかないでしょうな。ただこちらに戦う意のないことを伝えれば、戦わずに済むかもしれませぬ」


 ジョチはその言い様を聞き、クナンをとにらんだ。


「ならば、誰が交渉役に良いか」


「わたくしが適役かと。念のためにホラズムの者も一人連れて行きましょう。相手の指揮官がどの言葉を用いるかはっきりしませぬので。トルコ語なら何とかなりますが」


 三人の千人隊長が至り、短い軍議の末、結局ほぼクナンの進言通りの対応を取ることになった。急ぎ斥候を放って良い地を探させ、ジョチ本隊はそこに陣を張って待ち構えた。

 他方輜重隊は行軍を急がせ先行させることにし、ケテ率いる千人隊を護衛に付けた。

 



 やがて見慣れぬ軍が到着し、距離を保ち、対峙する隊形にて布陣した。

 

 せめて剛力の者を護衛に付けてはどうかとのジョチの勧めを、


「あえて老い先短い者を殺しはせぬでしょう」


とクナンは断った。


 一人のホラズム人通訳と一人の供回りのみを伴って、騎馬にて向かう。三人ともそもそも丸腰である。


 途中まで近づくと、ホラズムの陣営からも二人出て来る。その者たちに案内されながら――クナンは必ずスルターンと呼びかけるようにとの注意を受けると共に――ホラズム軍の指揮官がその国の支配者たるスルターン・ムハンマド本人であると教えられた。


 そしてならばその人物を見ておくのも悪くないと想いなし、むしろ喜んだ。


 三人は陣の入口へと導かれ、そこで下馬をうながされ、そこからは徒歩で進んだ。こちらをホラズム兵たちが興味深げに遠巻きに見ておった。モンゴル高原に多い黒眼黒髪の顔の者もおれば――この当たりから来る商人に多く見られる栗毛くりげ色の髪に目鼻立ちのはっきりした者もおった。


 随分と物物しい護衛が大勢で周りを固める一際大きな天幕の中に案内された。クナンはひざまずき、


「スルターンにお目にかかれて、これほどの光栄はありませぬ」


とトルコ語で述べた。


 スルターンは簡易な造りの玉座から睥睨へいげいしておった。


 クナンは言葉を続ける。


「我が主君ジョチ大ノヤンからの伝言でございます。我が主君は、その父チンギス・カンより、ホラズム国とは決して戦争をせぬよう厳命を受けております」


 ここで言葉を止め、ちらとスルターンの方をうかがう。しかし果たしてこちらの言葉がちゃんと耳に届いておるのかさえ定かではない。後ろに控える通訳にうながし、ペルシア語で伝えさせたが、やはり表情は変わらぬ。こちらを冷ややかな目で見ておった。仕方なくクナンは続けた。


「ゆえにスルターンにお伝えしたきことは、我が主君ジョチ大ノヤンにはホラズム国と決して戦をする気はないということです。

 更にはもしスルターンがお望みなさるならば――メルキト勢からの略奪品――そしてこちらはあくまでメルキト勢と間違ってのことでございますが、ホラズムの民から略奪したものも含まれておるやもしれませぬ――これら全てをお返しするというジョチ大ノヤンよりの言葉を確かにことづかっております」


 クナンが言い終わり、通訳がペルシア語で繰り返した。


 その後しばらく間があり、ようやくスルターンが口を開いた。ただ相も変わらず、一軍の使者としてどころか、一人の人間としてさえ認めぬ、罪人を見るが如き冷ややかな目で傲岸ごうがんに見下ろしておった。


「そのようなことは許されておらぬ」


 返答はトルコ語でなされたので、クナンはすぐに応じた。


「許されぬとは、何のことです」


「異教徒と取り引きすることなどできぬと言うておるのだ」


「ジョチ大ノヤンはそのようなことを言われておるのではありませぬ。決してスルターンと戦う気はないと。略奪品の件がお気に障りましたのなら、おびして撤回てっかい致します」


「何ゆえ戦わぬ道を我が選ぶなどと考えるのだ」


「ですから」とのクナンのあらがいに対し、


「全能なる神は我に勝利の祝福を約束されておるのだ。なのにどうして我が戦わぬ道を選ぶと考えるのかと聞いておるのだ」


(この者は・・・。これではいくら説いても仕方がない。それどころか言葉を重ねようとすればするほど、かえって対立が深まりかねぬ)


 それでもクナンは告げた。


「ジョチ大ノヤンには戦う気はないことを――そして父チンギス・カンよりそのように命じられておることを――最後に重ね重ね申し上げ辞去したく想います」



 

 さすがにクナンも、この結果となっては、駒を走らさぬ訳にはいかなかった。わざわざ陣前にて待つジョチと千人隊長たちの姿を見つけると、更に駒の足を速める。


 そして騎乗のジョチたちのかたわらに自らの馬を乗り付けると、


「アレはだめですな。早速、戦の準備を」


「父上に禁じられておるのにか」


とジョチが苦悶くもんの表情にて訴える。


「とはいえ、身は守らねばなりますまい。そのために戦うのならば、カンもお怒りにはなられぬはず」


と千人隊長たるモンケウルが口をはさむ。


「それはそうだが、あくまで必要最小限の戦に留める必要はある。ケンカ早いそなたがおっては戦が大きくなりかねぬゆえ、己の部隊を率いて輜重隊を追ってくれ」


(輜重隊の護衛は最初からケテではなくモンケウルに任せるべきであったな。そもそも一国のあるじがあのような者とは。いやはや略奪品を断ってまで戦を望むとは、奇怪な者ぞ)


「それでよろしいですか。ジョチ大ノヤン」


とのクナンの問いかけに、ジョチは「ああ」と心ここにあらずの様で答えるのみ。どうやらカンの命に反するかもしれぬとの恐怖に囚われておるようだとみなし、


「しっかりなされい。矢にて接近を防げば、敵にもそれほどの損害を与えずに済みます。我が方のも抑えられましょう。さすれば、カンの命に逆らうといった事態にはなりませぬ」


(しかし敵の身を案ずるなど、このクナン、これまで生きて来て初めてかもしれぬ)


「ささ。フシダイ・ノヤン。早速配下の千人隊を前衛に布陣させ、天幕用の大車を盾に用いた守りの陣形を取らせて下さい。モンケウル・ノヤンは先ほど言った如く、輜重隊を追って護衛に加わるように。これでよろしいですか。ジョチ大ノヤン」


「ここはクナンに任せる」


 相変わらず心ここにあらずのジョチは、この場に留まろうともせず、自らのゲル(天幕)へと戻って行こうとする。

 ゆえに急いで引き留めねばならなかった。


(これではとてもスルターンとの戦の指揮は取れそうにない)


 クナンは遂に迷っておったことに決断を下した。ホラズムの軍が接近しておると聞いた時点で、その策はクナンの胸中にあった。しかしモンゴル王族は軍事を至上の義務とするゆえ、それをジョチに提案することは。とはいえ、ジョチがこの状態では、不測の事態も起こりかねぬ。それが何であるかはクナンにも分からぬ。ただ悪いことだけは確かだった。それにこうした方が、後々己が動きやすいことも確かだった。


(ここは全て己が取り仕切るしかない)


 いつ以来であろうか。ジョチが若い時分は、しばしばあった。


 遂にジョチに先に逃げて下さいと進言する。ジョチはその提案に一も二もなく応じた。

 

 ところで、モンケウルである。最前から言っておるのに、去る素振りすら見せぬ。敵を前にして戦線を離れねばならぬとあって、応じる気はないらしい。ジョチの護衛を託したいと告げても、なお留まって戦うを望んだ。任せられるのはそなたしかおらぬのだとまでクナンが言って、ようやく従った。


(厳しい父上というのも善し悪しですな。ジョチ様)


 その後ろ姿に声を出すことなく語りかけて送り出す。




 クナンはその日、防戦一方にて陣を保った。あたりが夕闇に包まれると、両軍は戦を止め再び距離を取った。月明かりを頼りに、まずはフシダイの隊を発し、その後に自らも陣を引き払ってジョチの後を追った。




注 シルダリヤ川;シル・ダリア川、シル川とも呼ばれる。天山山脈の雪解け水を源とし、遠く西方のアラル海に注ぐ長大な河。

おまけ;ダリヤ(ダリア)はペルシア語で「川。海」の意味。カスピ海はペルシア語で「ハザルのダリヤ(海)」と呼ばれる。ハザル(ハザール)はカスピ海沿岸に勃興した遊牧勢力。こちらの名前の方がロマンチック?

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