第36話
どこから聞いていたのだろう、リグルが振り返ったそこに佇むエリスの深い青色の瞳は、兄であるディーン・アープを見つめていた。その瞳には戸惑いも迷いもなく、真っ直ぐ魔王を名乗り手を差し伸べてくる男を捉えている。
「エリスは知ってた? 母が人間じゃないってこと」
甘い笑顔にもエリスは眉ひとつ動かさず、彫像のように立ち尽くす。
「ねえ、おいでよエリス。僕のところに帰っておいで。もう二人っきりの家族だよ。リグルなんか放っておいてさ。おいで。僕と一緒に行こう」
差し伸べられた手は取られることなく、手持ち無沙汰に空を握る。
「僕と一緒は嫌?」
手を引いたディーンが寂しそうに笑った。
「どうせ人間の世界では異端でしかないんだから、僕と一緒に行こうよ。できれば予備の身体は押さえておきたいし」
甘い声で、妹を予備と言い切った。
血を分けた家族だから一緒にいたい訳ではない。ただ、同じ血が流れているから──ディーンの身体に何かあった時のために、憑依しやすい身体を確保しておきたいだけだ。
ディーンならばそんなことは決して言わない。
エリスを巻き込むような、そんなことは望まない。
ディーンの意志に背くことを、ディーンの笑顔で、声で、言うのか。
最初に動いたのはリグルだった。再び手を差し伸べようとしたディーンとエリスの間に立ちはだかり、両手で剣を構え直す。
「ごめんリグル、今エリスと話してるんだ。どいてくれる?」
ディーンの言葉に無言の刃のきらめきを返す。その意図を汲んだディーンが、嗤った。
「そういえばまだ手合わせの途中だったね。こういうのはどう? 勝った方がエリスを連れていく。面倒だからもうそれでいいよね」
地を蹴ると同時に二人の剣がぶつかり、火花を散らして払い合った。高い金属音とともにディーンは後方へ、リグルは右方へ跳んで距離を取る。エリスはその場に佇んだまま、動こうとしない。
解っていた。すべて、きっと、知っていた。
今日のこの日を、父リーヴ・アープは知っていたのだ。
「最後の贈り物」「この粉を混ぜて剣を鍛えよ」「どんな魔物にも対抗し得る破魔の刃となって」「いつかお前たちを守るだろう」
リーヴの遺言の文面から、あの粉は母の骨だとエリスは予想した。
ギズンは言った。あの粉は一角獣やペガサス、天使などの聖なるものの属性のものだと。
何かの間違いではないか、そう思っていた。
そうではない──父は母が人間ではないことを知っていて、いつかこんな日が来ることを知っていて、だから母の命と引き換えに破邪の剣を託して、自分も後を追ったのだ。
いつか来る未来を知っていたのなら、それを回避するためにありとあらゆる手を尽くしただろう。それでも回避できなかった。託された剣は、最後の希望だ。
ギズンの言葉が再び甦る。魔物にかすり傷でも負わせられれば、相手は無事では済まない、と。
手が震える。意識が遠のきそうになる。
これで、兄を傷つけるというのか。
あの、人から人の形を奪う力で──
強い金属音が響き渡り、エリスの意識が引き戻される。
「最後に花を持たせたかったけど、やっぱりちょっと分が悪いかな」
剣を払ったディーンが人のそれを超えた跳躍力で後方に距離を取る。
「覇皇剣が相手ではかすり傷じゃ済まないしね。ディーン・アープはリグルと決着を着けたかったみたいだけど、僕は無理せず時間稼ぎをさせてもらおう。太陽が全部欠けるまでもう少し──僕が完全に僕になるまで、そこで待ってて」
エリスに微笑みかけると、ディーンは剣を鞘に収めた。
「完全体になるまで、あと少し」
歌うように囁くディーンの背中から、三対の漆黒の翼が生えた。それは実体のように見えるが、よく見れば翼を形作りながら蠢いている影のようだ。魔王の瘴気を視覚化したものなのか、見ているだけで負の圧迫感が肌をちりつかせる。
三対の翼が大きく広がり、羽ばたいた。ディーンの足がふわりと地から離れ、ゆっくりと身体が浮かび上がる。
「逃がすか!」
空に舞い上がろうとするディーンに、アレクがナイフを投げつける。空を裂く鋭い刃は、ディーンの左胸にこつんと当たって落下した。
目を疑うアレクの前に、ラスフィールが銀色の疾風となってディーンに斬りかかる。
「無理だよ。普通の刃じゃ僕を傷つけられない」
一対の漆黒の翼がディーンを包み隠し、銀色の疾風はいとも簡単に弾かれた。
「大人しく見ててよ。別に僕は魔王だからって、世界を滅ぼしたいとか思ってる訳じゃないよ。ちょっと人間で遊んでみたいとは思ってるけど」
「遊ぶだと……?」
弾き飛ばされたラスフィールが体勢を立て直してディーンを睨み付ける。
「僕も魔王って言われてるけど、元々は魔王じゃなくて人間と他の混ざり物なんだよね。だから他の混ざり物も魔王になるのか実験するとか──あとは人間の負の感情が好物だから、どうすればより美味しくなるのか試すとかね。いろいろ遊ぼうと思ったら、権力者に憑依するのが一番都合が良いからさ。ディーン・アープが国王になってくれてよかったよ。おかげでこの身体に出会えた」
背筋が凍るようなことを、ディーンの顔で、声で──
「ふざけんな!」
アレクが隠し持っていた四本のナイフを両手で投げつける。
「無理だって言ってるのに」
呆れたようにディーンがひとつため息をつく。閉じていた一対の翼が開かれ、ナイフを弾き飛ばす。一本はアレクの足下に、一本はあらぬ方向へと飛んでいき──残る二本がアレク達の遙か後方へと飛んでいく。
「逃げろ!」
アレクが振り返りざまに叫んだ。こちらの様子を窺っていたルティナ達が慌ててテーブルに身を隠す。
弾き飛ばされたナイフの一本はテーブルに突き刺さり、残る一本は柄がテーブルに当たり、角度を変えて弾かれた。その先に立ちすくむ少年が、びくりと身体を震わせる。
「ちび!」
すぐ隣にしゃがみかけていたクローディアが、硬直してしまった小イグナをテーブルに隠そうと頭から押さえようとして──飛んできたナイフに気付いた。咄嗟に小イグナを抱きしめる。
「クロー……!」
小イグナの目の前で、クローディアの髪より鮮やかな赤い飛沫が散った。
「イグナ! クローディア!」
少し離れたところにいたサラが悲鳴を上げて転ぶように駆け寄った。
「痛てぇ……」
「姉ちゃん、姉ちゃん、やだ、いたいのやだ!」
「大丈夫、動かないで! 魔法で治すから!」
痛みでうずくまるクローディアに泣いてすがる小イグナ、止血しようとするサラをルティナの一喝が静止させる。
「こんな傷、すぐ治るからね!」
言いながら血に染まったクローディアの左腕に手をかざす。
その様子を見ていたアレクはほっと胸をなで下ろし、人ならざる者になろうとしているディーンに視線を戻した。浮かび上がった身体は人の頭を優に超えて、もう剣も届かない。
アレクはディーンに背を向けてルティナ達の元へ駆け出した。ディーンはそちらを見向きもせず、足下に人間達を見下ろしている。
「お前ら、無事か!?」
アレクが駆けつけた時にはすでにクローディアの傷は塞がっており、血は止まっていた。
「一体何が……」
泣き出しそうな小イグナを抱きしめたまま、サラが戸惑いながらアレクを見つめる。どう説明したものかと一瞬迷ったが、
「魔王が復活した」
短く、それだけ伝えた。
「え、アレクさん、それってどういう……」
「悪いが時間がねえ。ルティナ、俺の弓を持ってきてくれ。場所は分かるな?」
言おうとした言葉を飲み込んで、ルティナが頷いて走り出した。
「サラ、走れるか」
「は、はい」
「王宮の見張りに大至急中庭に投石機を持ってくるよう、アレクが言っていたと伝えてくれ。できるか?」
「はい」
「頼んだ。他の奴じゃねえ、お前達が来た時に招待状を確認した奴だ。いいな」
王宮の見張りは常に反乱軍の仲間だった者だ。アレクが指示を出したとなれば、すぐに大まかな状況は把握してくれるだろう。
「ねえ、俺は!?」
クローディアがアレクを見上げた。血に濡れた左腕が痛々しいが、その血はすでに乾き始めて痛みもなさそうだった。
アレクは初対面で名前も知らないが、咄嗟に小イグナを庇ったのを見た。
「お前、名前は」
「クロード!」
「クロード、お前はサラを守れ。おい、ちびイグナ! お前も母ちゃんを守れよ。できるな?」
「わかった!」
涙を拭いた小イグナとクローディアが声を揃える。
「よし、行け! 走れ! 振り向くな!」
アレクの号令に、三人が走り出す。
三人の背中を見送って、アレクはディーンを振り返った。三対の漆黒の翼を広げたディーンは上空へと舞い上がり、すでに手の届かない高さだ。剣を構えたまま見上げるリグルとラスフィール、それにエリスがただじっと人ではないものに姿を変えた兄を見つめている。
剣は届かない。ナイフは弾かれた。恐らく、普通の武器では通用しない。
シルヴィアの持つ覇皇剣が創世神話にある通り、本当に女神が作ったものならば通用するかもしれないが、空を飛ばれては為す術はない。エリスが何もせず立ち尽くしているのなら、空を飛ぶ魔法はないのだろう。
「くそ……梯子をかける訳にもいかねえし、でかい鳥でも──」
でかい鳥でもいれば、その背に乗って飛べるのに。
アレクが憎らしそうに太陽を見上げた時だった。
轟!!
びりびりと大気が震えた。空から降る音が振動となって全身を撃つ。
吹き飛ばされないよう、ぐっと足を踏ん張るアレクに影が落ちた。
一瞬、すでに太陽がすべて欠けてしまったのではないかと思った。それを打ち消したのは、空を裂く圧倒的な銀。
轟!!
二度目、氷の咆哮が漆黒の翼に襲いかかる。三対の漆黒の翼が盾となって凍てつく息を防ぎ、鋭い牙をひらりと躱す。仕留め損ねた銀の風は旋風となって上空へと舞い上がり、旋回してそれらを見上げる地上の三人に向けて急降下する。
「竜が──!」
銀竜は地上すれすれまで高度を下げ、一気に急上昇して弧を描く。
アレクの目は、舞い上がった竜の背に三人の姿を捉えた。
「空が飛べたからって、攻撃が効かなければ意味がないよね」
漆黒の翼が翻る。
「あと少し、あと少しなんだ。ようやく僕は肉体を手に入れる──」
ディーンの瞳が夕焼けの色に染まっていた。
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