第37話

 エリスの転移の風で銀竜の背に乗ったリグルは、漆黒の翼を翻すディーンを見た。今はディーンの背中側を飛んでいるが、その背中がこちらの気配を探っているのが解る。

 ラスフィールは落ちないよう竜の背鰭に掴まって同じく様子を窺っている。

 エリスはリグルの背に隠れるように、ぎゅうと白いマントと掴んだ。

「竜のおかげで向こうの高さには届いたけど、竜の背中から飛びかかるくらいしかないよなあ……」

 肩あたりのマントを掴んでいるエリスの手に、リグルの手が肩越しに触れる。

「ならば実質、機会は二回か。それもあの翼に弾かれたら無駄になる。魔法は効かないのか」

「多分駄目なんじゃないかな……炎の槍よ、薙ぎ払え!」

 リグルの手から放たれた炎の槍が尾を引いてディーンを目指して飛んでいく。当然のように漆黒の翼の前に火の粉も散らさず消滅する。

「……威力の問題じゃなさそうだね」

 触れた相手に損傷を与えられないのではなく、触れる寸前に無効化されている。防御ではなく無効化であれば、どんなに強い攻撃魔法を撃ったところで意味がない。

「さっきの言い方からすると、覇皇剣は効くみたいだけど……」

 リグルが左手の剣を強く握り締める。

「私の剣では無理そうだな。なるほど、機会は一度きりか」

 ラスフィールが剣を一旦鞘に収めて太陽を見上げる。じわじわと影に侵食される太陽は、三日月ほどになっていた。

「時間も残されていない。万事休す、か」

 このまま魔王にディーンを奪われ、為す術もなくひれ伏すのか。世界を滅ぼすつもりはないと言っているが、正体を知ってしまった者達はただでは済まないだろう。そして少なくとも──大切な幼馴染は、兄は、国王は──この世からいなくなる。

「私が行く」

 リグルの背中から、エリスが小さく呟いた。マントを握る手が震えている。

「エリス」

 リグルとラスフィールが意図的に避けていたことを、エリス自身が口にした。破邪の剣で人を斬ればどうなるか、ラスフィールは目の当たりにしている。それを実の兄に振るえとはとても言葉にできなかった。リグルも同様に、兄妹で戦えとは言えなかった。

「考えてたの。父の遺言にはどんな魔物にも対抗し得るってあったわ。この剣は元々魔物を斬るためのもので──人間や普通の魔物に対してはものすごい威力があるけど、魔王相手だったら普通の剣程度の威力にしかならないんじゃないかなって……」

「普通の人間を斬ったからああなったけど、魔王相手なら威力が相殺される?」

「斬った相手が持ってる邪悪なものに対して攻撃力が増すってギズンさんが言ってたけど、今の兄さんは魔王に身体を奪われようとしてるってことでしょう? だったら破邪の剣で魔王だけ倒せないかしら」

「つまり──陛下の肉体は通常の傷を受けるが、内側に巣喰う魔王を消滅させることができるかもしれないということか」

 三人が話す間も銀竜はディーンの周囲を旋回し、凍てつく息を吐きかける。その都度漆黒の羽ばたきによって防御されるが、リグル達の会話を聞き取ることはできないはずだ。

「分からないけど、可能性はあると思うの」

 ディーンの肉体が負う傷そのものはエリスの魔法で治癒できる。辛い思いをさせたくはないが、それで魔王を倒せる可能性があるのなら、賭けるしかない。

「じゃあ、俺が」

 リグルが覇皇剣を鞘に収めて肩越しにエリスを振り返ると、静かに首を横に振って、

「ううん。私が行く。父さんは我が子らへってこの剣を託したの。だったら、これは私がやるべきことだわ」

 揺るがぬ青い瞳がリグルを真っ直ぐに見つめ返した。

「エリス」

「父さんと母さんが命懸けで託してくれたの。私が応えなきゃ、きっと後悔する」

 銀竜の氷の咆哮が空を裂いた。凍てついた大気がきらきらと輝きながら周囲を舞う。まるで満天の星空を泳ぐかのようだった。

「分かった。俺が先に飛びかかるから、エリスはそのすぐ後に背後から──」

「待て。私に提案がある」


「あなた、自分が何を言ってるか解ってるの!?」

 それは驚きよりも呆れと怒りが勝っていた。食ってかかったエリスにラスフィールは涼しい顔で、

「これ以上の策があるなら教えて欲しいものだ。現状で使える駒は限られている。これが最大限有効活用した策だ」

「ラス、それなら俺が」

「リグルでは無理だ。そうだな、エリス・アープ」

 静かな反論に、言い返すことができずにエリスが歯を食いしばる。

「……どうなっても知らないわよ」

「お前は自分の役目を果たすことだけ考えろ。リグル、いいな」

「ラス……」

 マントを外してラスフィールに渡し、青い瞳を覗き込んだ。そこには一片の迷いもない。

「心配するな。別に死に急ごうという訳ではない。今はこれしかないというだけだ」

 無言で頷き、リグルは視線を漆黒の翼に戻した。

 三対の翼は交互に羽ばたきながら、必ずどれか一対はディーンを防御している。不規則に銀竜が凍てつく息、牙、爪で攻撃するがいずれも防がれている。

「後はあの厄介な翼を何とかできれば……」

 一瞬でいい。ほんの一瞬、羽ばたきがずれさえすれば刃は届く。

 太陽の輝きは、もう僅かしか残されていない。


「アレクさん!」

 振り返ると、サラが駆る馬に同乗したルティナが手を振っていた。

「弓! これでいいわよね?」

「おう、助かった。ありがとうな」

 馬を下りたルティナから弓矢を受け取ると、アレクは馬上のサラを見上げた。

「申し訳ありません、勝手に王宮の厩舎から馬をお借りしました。見張りの方達もこちらに向かっています」

「いい、子供達はどうした」

「見張りの方達と一緒に……この後はどうすれば」

「子供達を馬に乗せられるか?」

「早駆けはできませんが、乗せるだけなら」

「王宮内の連中に武器を持って集まるよう声をかけてくれ。その時に竜は味方だ、竜を援護するって言ってくれ。その後はここに戻るな」

「──はい」

「母さん!」

 サラが頷いた時、ガラガラと重い荷物を車輪で運ぶ音と共に小イグナの声がした。

「アレク、こいつはどういうことだよ」

 投石機を運んできた仲間達が緊張した面持ちで竜を見る。

「何なんだよ……何が起きてんだよ……」

 以前ジルベールに飛来した竜が再来し、三対の漆黒の翼を持つ者に襲いかかっている。

「俺にだって分かんねえよ。ただあいつの言ってることが正しいなら、ディーンは魔王とやらに喰われようとしてる」

「はぁ!? 何言ってんだ、アレク正気か」

「時間がねえ、射撃用意!」

 投石機は竜の再襲撃に備えて用意しておいたものだが、標的に命中させられる程の精度はない。

 現状を把握できず混乱しながらも、アレクの指示に従って仲間達が石を装填する。

「ディーンがどれだけ頑張ってきたか、俺らはずっと見てたじゃねえか。創世神話だか何だか知らねえが、ぽっと出の野郎に俺達の王様を盗られてたまるかよ」

 アレクがぎりぎりと歯を食いしばる。現状を把握できずとも、かつて共に戦った仲間達にはそれで充分だった。

「王様の奪い合いってことか」

「そうだ」

「じゃあ、負ける訳にはいかねえな」

「おう」

 アレクも弓を構えた。狙いを定めてぎりぎりと弦を引く。

「俺の合図で撃て。撃ったら投石機なんて放ってすぐに逃げろよ」

「分かった、お前も無茶すんなよ」

 サラは子供達を馬に乗せてすでにこの場を後にしていた。ルティナは少し下がったところで待機している。

 弦を引いたまま、アレクが空中戦を繰り広げる漆黒の翼と銀竜を観察する。竜の動き、翼の動き、竜の背に乗る三人の動き。

 竜によって高度は得られても、剣で攻撃しようとすれば竜の背から飛びかかるしかない。避けられればそれまで、剣が届いたとしてもあの翼に弾かれればそれまでだ。アレクのナイフは翼ではなくディーン自身に触れたが、衣服を傷つけることすらなく地に落下した。

(シルヴィアの剣が相手じゃかすり傷じゃ済まないって言ってたな。じゃあ機会は一度きり、そのためには銀髪が囮になって不意打ちするくらいしか手がねえ。後はあの厄介な翼を何とかすりゃあいいってことか)

 幸いなことにこちらに気付いている様子はない。

 竜の背から飛びかかるのを邪魔せず、漆黒の翼が広がった時に懐に飛び込める好機──

「撃て!!」

 投石機から石が放たれ、

「後は任せた──!!」

 アレクも弓を引いた。

 不意に風を切って飛来した石に、ディーンは哀れむように微笑むと、

「小賢しいよねえ、そういう──」

 ぎくりとした。

 飛んでくる石から僅かに遅れ、音が伝わる速度さえ超えるかと思うような弓勢の矢が飛来した。ディーンの胸に狙いを定めて、違うことなく、真っ直ぐに。

 一瞬、迷いが生じた。

 飛来する石と矢にずれが生じ、どちらに合わせるべきか──ただ、あの矢は駄目だと、絶対に受けてはならないと頭の奥底から激しく警鐘が鳴り響いた。

 迷った結果、翼の羽ばたきは多少ずれたが石と矢はいずれもディーンを傷つけることはなかった。

「脅かさないでほしいな」

 口元をかすかに緩めたディーンの頭上に影が落ちる。

 見上げれば、竜の背から放たれた白い影──リグル・シルヴィアが剣を振り被っている。

「それは想定済み」

 落下の勢いを乗せて無言のまま剣を振り下ろすリグルを、羽虫を叩き落とすかのように漆黒の翼が叩き落とす。

「それから、こっちも」

 ディーンがくるりと身体ごと振り返る。

「陛下を返せ──!!」

 白いマントを翻したラスフィールがディーン目がけて剣を振り下ろす。翼の羽ばたきは間に合わない。ラスフィールの剣はディーンの肩を捉えるはずだった。

「リグルが覇皇剣を持ってなかった時点で、囮だってすぐに分かるよ。あと、皆忘れてるかもしれないけど、ディーン・アープは剣士なんだよね」

 ディーンの細身の剣が、わずかな日の中で赤く染まっていた。

 覇皇剣を手にしたラスフィールの右腕が、鮮血を撒き散らしながら弧を描いて落下する。

 右肩から先を失い、ラスフィールが空中でバランスを崩す。瓶からこぼれる葡萄酒のように右肩から血が溢れ、同時に体温が奪われていく。意識が遠のき、視界が急速に暗くなる。

(待て、まだ……まだ、私には)

「ラスフィール──!!」

 天を引き裂くような少女の声が、ラスフィールの意識を強く引き戻す。

(まだ、私には)

 目を見開いた。

 目の前に、瞳を深紅に染め上げたディーンがいる。

 ディーンの顔で、声で、彼の意に反することを言う不届き者がいる。

 三人の王を──主君を奪い、今新たにこの国の王を奪おうとしている者がいる。

 落下しながら左腕を伸ばし、ディーンの胸倉を掴んで引き寄せる。

「すまない、私も囮なんだ」

 ラスフィールがディーンの耳元で囁いた。

 ディーンがその言葉の意味を理解するよりも早く、刃が胸を貫いた。


 エリス・アープが破邪の剣で、ラスフィールごとディーンの胸を貫いていた。

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