第35話

 太陽が次第に欠け始め、エリスは小さな穴を開けた板で白いテーブルクロスを敷いた上に影を落とした。

「穴のところが太陽と同じように欠けていくのよ。分かる?」

 太陽はもうすぐ半分ほど欠けようというところか。

「えー? 小さくて分かんないよ」

「んんー、僕もよくわかんない」

「うーん、ちゃんと見てー? まだ太陽を見ると眩しいから、色付きガラスで見るのはもっと欠けてからね」

 エリスと子供達は太陽と同じように欠けるはずの影を見ながらはしゃいでいる。サラとルティナはその輪には入らないが、三人がはしゃぐ様子を眺めていた。

「ちょっと暗くなってきたかな」

「何となくそんな気はするが、薄曇りと言われれば気付かないな」

 リグルとラスフィールはテーブルから少し離れたところでその様子を眺めている。

「陛下はいらっしゃらないのか」

 サラを招待したのはディーンだ。多忙とはいえ招待客に姿を見せないのは礼儀に反する。そんな失礼をするとも思えないのだが、

「朝食の時は楽しみにしてたんだけど、どうしたのかな」

 太陽も半分欠けたというのに、まだ現れない。何か不測の事態でも起きたのだろうか。

 ラスフィールが中庭を見渡した。騒がしい気配は特に感じられない。

「ラス、あそこに」

 リグルがバルコニーを指した。ディーンとアレクがこちらを見ながら話し込んでいるようだった。

 国王名義でサラに招待状を送ったのも、そもそも驚かせようという魂胆だ。これ以上まだ何か驚かせようと画策しているのかと、ラスフィールがバルコニーをじっと観察する。

 バルコニーまではそれなりに距離があるため、二人がどんな表情をしているかは窺えない。ただ何となく──緊張感があるように見える。

(やはり何か起きたのでは)

 目を凝らしたラスフィールが見たものは、ディーンに突然足払いをされて体勢を崩すアレクと──そのアレクの首を絞めるディーンの姿だった。

「リグル!」

 叫んだのが先か、走り出すのが先か。ラスフィールは弾かれたようにバルコニーへ向かって駆け出した。呼ばれたリグルはラスフィールの向かう先にあるものに気付き、速やかに後を追う。

「リグルさん!?」

 板をテーブルに放り出して、エリスが走り出したリグルの後を追う。

「ラス!」

 すぐ背後からのリグルの声に振り返ることなく、

「魔法で受け止められるか!?」

「問題ない!」

「任せる! 陛下──!!」

 バルコニーを見上げ、ありったけの声で叫んだ。

 ラスフィールの声に導かれるように、手すりにもたれかかったアレクがディーンを掴んだまま滑り落ちる。

「風よ! 球を描いて受け止めろ!」

 一陣の風が球形の空間の中で吹き荒れる。そこへ落下してきたアレクの勢いは風に受け止められることで削がれ、軽く弾かれた。宙を舞うアレクをラスフィールが抱き止める。

「来てくれたのか」

 一方のディーンはバルコニーから落下すると同時に手を放したアレクから離れ、ひらりと軽やかに着地した。駆けつけた二人の騎士を交互に眺めて微笑む。

「大丈夫か」

「俺はいい、それよりあいつ──ディーンの面してやがるが中身は別物……いや、違うな。混ざってるような……」

 座り込んだままでアレクが吐き捨てる。

「お前、誰だよ」

 ラスフィールの手を借りて立ち上がったアレクを一瞥すると、ディーンが首を傾げて困ったような顔をする。

「本当に、よく見ている」

 悲しそうな笑顔で呟くと、ディーンは視線をリグルに定めた。

「リグル・シルヴィア、手合わせ願おう。もう時間もない。真剣勝負だ」

 ディーンがすらりと細身の剣を抜き、切っ先をリグルに向ける。

「いざ」

 リグルが口を開くよりも早く、ディーンは疾風となって斬りかかった。ディーンが地を蹴るのと同時に覇皇剣を抜きかろうじて受け止める。

 その華奢な身体のどこにこんな力があるのかと思える程に強く押され、リグルはディーンの力を横に流して身を躱し、間髪入れずにその場から飛び退いた。ほんの数瞬前にリグルがいた場所を、ディーンの細身の剣が薙ぎ払う。

「昔よりずっと鋭いし、動きが洗練されてる。けど、その努力はディーンのものだ」

 リグルが距離を取って剣を構える。大きく欠け始めた太陽の光を受けて覇皇剣が銀色に輝いた。

「俺の知るディーンは、そんな色の瞳じゃない」

 間近く剣を斬り結んだ時に覗いたディーンの瞳の色は、透き通るような青空色ではなく、日が沈む前の空の色だった。

「──君は何者だ」

 剣の先に立つ幼馴染はにこりと笑って、

「そうだね、そろそろ頃合いかな。じゃあ、自己紹介といこうか」

 無邪気な笑顔に陰がよぎる。

「僕の名はディーン・アープ。僕はリグルのことをよく知ってるつもりだけど、リグルはきっと僕のことを知らないよね。──はじめまして、リグル・シルヴィア。僕は君が知るディーン・アープがずっと心の奥底に抱えてた闇そのものだよ」

 歌うように自己紹介するディーンの声は紛れもなくよく知る彼のものなのに、今までに触れたことのないような冷たさだった。見慣れた金色の髪でさえ陰を帯びて見えるのは、欠けた太陽のせいだろうか。

「ディーンの心の闇だと……?」

 問うたのはアレクだった。

「ふざけんなよ、ディーンが何でそんな……」

 アレクの記憶の中のディーンは、出会ったばかりの頃の無邪気な笑顔とは裏腹に、強い向上心を持って必死に剣の稽古をしていた。短い金髪が踊る度に、太陽の光が舞うかのようにきらきらと輝いていたのを鮮烈に覚えている。

 両親を捕らえられ、女王と戦う決意をしたあの時のぞくりとするような美しい横顔──絶望的な戦いの最中も決してあきらめることのなかった強い意志。

 戦いを終えてこの国の王という指導者になり、誰よりも国のために身を費やしていたのを知っている。

 それらをずっと見守り支えてきたのはアレクだ。いつだってディーンのそばにいた。ずっと見ていた。すぐそばで、どこか淋しそうな笑顔を。

「……、そんな、ことは」

 言葉が詰まった。

 ディーンが心に闇を抱え込むことなどないと、言い切る自信がアレクにはなかった。

 そうだ。いつだってそばにいた。そして何度も言ってきた。ひとりで抱え込むな、と。

 彼が抱え込んでいたのは、目の前に現れた荷物だけだっただろうか。お前はひとりじゃない、みんながついていると繰り返し言ってきた。

 ディーンがひとりで背負おうとする荷物を、半分とまではいかなくても、少しは肩代わりできていたのだという自負があった。抱え込むなと言う度に、ディーンから荷物をひとつ預かる度に、代わりに彼は別のものを心の奥底に抱え込んだというのか。

 しばしの沈黙の間にみるみる色を失っていくアレクの表情を眺めながら、ディーンが嬉しそうに笑う。

「アレクはいつも話が早くて助かるよ。本当に君はいろんなものをよく見てる。ちょっと気が回りすぎてどきっとするよ。リグルが帰ってきたあの日、一緒に風呂に入るよう勧めたのも、背中に痣があるかどうか確認させるためだよね?」

 反論する気力を削がれたアレクは、目の前の歪な笑顔を睨み付けるのが精一杯だった。

 ラスフィールの語りの中に、ルーク王とロゼーヌが数日間高熱にうなされた後、身体に痣が現れ身体を蝕んだというくだりがあった。リグル達が帰ってくる数日前まで、ディーンはまさに高熱で病床に伏せていた。アレクが二人で風呂に入ってゆっくりしてきたらどうだ、と勧めたのはその話を聞いた後だ。

 察したリグルがディーンの背中を流したが、どこにも痣のようなものは見られなかった。

「あの痣、別に病気じゃないんだよね……」

 血の染みのような赤い痣──それは死神の祝福の痕。それを間近で見たことのあるラスフィールの表情が険しくなる。

「さっき僕はディーン・アープの心の闇だって自己紹介したけど、ちょっと違ってて──僕、魔王なんだよね」

 ディーンの細い顎に手を当てて考え込むような仕草が、台詞と場面に噛み合わずひどく滑稽に見えた。

「は……?」

「魔王?」

 アレクとリグルの声が重なった。

「うん、そう。魔王。みんな知ってるよね? おとぎ話に出てくるあれ。女神と五人の騎士が力を合わせて魔王を封印したっていう。あの魔王、僕なんだよね」

 ラスフィールも合わせて、何を言っているのかという顔で言葉を失う。

 太陽神と地母神が恋に落ち、人の身に魂を宿して巡り会うことを約束した恋物語であり、同時に地母神と、太陽神の転生した姿である竜騎士と仲間の四人の騎士が魔王と戦う物語──それは誰もが子供の頃に寝物語として何度も聞いてきたものである。

 物語の結末は、魔王を封印することに成功したが、太陽神は魔王と差し違えて絶命し、悲しみに暮れる地母神だったが太陽神と再び逢えることを信じて輪廻の宿命に身を投じる、というものだ。

「現状はディーン・アープの心の闇を糧に憑依してる状態なんだよね。だから今はディーン・アープを通して話してるけど、完全にこの身体と融合したらもうディーン・アープの意識はなくなるよ。そう、あの太陽が完全に影に飲み込まれた時に」

 ぎくりとしたアレクとラスフィールが空を見上げた。一瞬見ただけでも太陽の半分程が欠けているのが分かる。

 リグルだけは構えていた剣先の向こうに立つディーンを真っ直ぐ見つめていた。

「この日を待ってたんだよ。前の日食には間に合わなくて。今日のこの日のためにルークに憑依しようとしたんだけど、身体が合わなくてさ。ロゼーヌも試してみたんだけど、やっぱり駄目で。そう、高熱の後に赤い痣が出ただろう? あれは魔王の瘴気に耐えられなかったからなんだよね」

 あまりに突然の突拍子もない告白だが、予兆はあった。

 あのおとぎ話はただの創世神話ではない。実際に物語に出てくる銀竜は存在した。そして、あの銀竜は真っ直ぐにここを目指し、ディーンを攻撃した。それをリグル達が止めたのだが、あれは魔王を攻撃しようとしたのではないか。

 高熱を出した時に魔王が憑依したというのなら、あれはまさにディーンが高熱から回復した直後だった。時期もちょうど合致する。

「前にはファリウスにも憑依しようとしたんだけど、僕の瘴気に耐えられる人間となるとなかなか見つからなくて。ファリウス、ルーク、ロゼーヌと三人続けてうまくいかなくて、心が折れそうだったよ。でもさすがだね、この身体は人間以外の血が流れてるからやりやすかったよ。闇も濃かったしね」

 ざらりとした何かが心を撫でた。

 ファリウス、ルーク、ロゼーヌ。三人の王は高熱の後に血のような痣ができ、そこから半年に渡り身体を蝕まれ死に至った。この話が真実であるとするならば、三人は魔王が憑依しようとして、それに耐えられず命を落としたことになる。

 そして、ディーン・アープの口からこぼれた言葉は、何を意味するのだろう。

「人間……以外だと……」

 ディーンを捉えたままの剣先がかすかに揺れた。

 リグルは身近に人間以外の種族を見てきた。混血がいたと言われてもそう驚きはしない。ただ──アープはジルベール建国以来、ずっとこの地を離れてはいない。他種族のいないこの地において、人間以外の血が入る余地などないはずだ。

「知らない? そりゃそうだよね、ディーン・アープだって知らなかったんだから。僕達の母親サウィン・アープは人間じゃないんだよ。ねえ?」

 ディーンがとろけるような笑顔で手を差し伸べたその先に──リグルの隣に、ディーン・アープの実妹であるエリス・アープが佇んでいた。

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