第18話
轟、と雷鳴のような咆哮とともに銀色の竜は大きく羽ばたき、リグルたちの頭上で弧を描いて崖の向こう側へと飛び去った。崩れた崖の付近を見れば、積み重なった岩ががたがたと動いていた。その下に埋もれた盲目のエルフが結界の中から脱出しようとしているのだろう。
エルフの無事を確認して胸をなで下ろしたエリスだったが、視線を上げて息を呑んだ。飛び去ったはずの銀竜が、まっすぐこちらを目指して飛来している。
かつてエルフが盲目となった経緯を思い出して背筋が凍る。
──あれは竜の姿をした厄災だ。魔法に長けたエルフも、頑強自慢のドワーフも、その区別なく蹂躙した。
逃げなければ。いや、逃げ切れるのか。
瞬く間もなく距離が縮まる。逃げたところで追いつかれる。ならば結界を──? いや、迎え撃つべきか──。
逡巡しながら両手をかざしたエリスを、リグルが無言で制した。
轟!!
咆哮、鋭い牙がはっきりと確認できる程の頭上すれすれを竜が飛び去り、高度を上げて大きく旋回して崖の向こうへと飛んでいく。
足が竦んだ。悲鳴すら上げることもできず、エリスは震える手でリグルの腕を掴んだ。
「エリス、頼みがあるんだけど」
言葉も出せずに顔を上げると、リグルがまっすぐ竜を見つめたまま続けた。
「転移の風で竜の背中に飛ばして欲しい」
「何を……言って」
「ごめん、頼まれてくれないかな」
「だって、竜の背中なんて!」
「──なるほど、竜の背中に乗ってしまえば息も牙も爪も届かない。振り落とされる危険はあるが、うまく御せれば奇跡だな」
ラスフィールが補足する。
エリスは胸の奥がざらつくのを感じながらも、速やかに頭を切り替える。
「落ちた時の備えはするけど、高度によっては分からないわよ」
エリスの掌がリグルとラスフィールの背中に触れる。
「ありがとう、エリス」
崖の向こうで弧を描いた銀竜は、やはりまっすぐこちらに向かって高度を下げて飛んでくる。
──呼ばれた気がした。
何をしている、急げと怒鳴られた気がした。
それをうまく説明できる自信も時間も今はない。竜を御するつもりはないが、ラスフィールの説明でエリスが納得するのであれば、それに便乗するまでだ。
リグルの眼と銀竜の眼がお互いの姿を捉えた。
「舌噛まないでね!」
一陣の風が三人の姿を攫う。
盲目のエルフが結界を埋め尽くしている岩を魔法で吹き飛ばすと、目が眩むような光があった。まるで何もかもが消え去って、光だけがそこにある世界の果てのような。
急速に光が遠ざかり、代わりに色が現れた。目の前の茶色と緑と頭上の青。その青を切り裂く一陣の銀色。
鮮烈な、遠いあの日の咆哮と血と数多の悲鳴の記憶が甦る。
夢に見ることすら憚られる、あまりにも尊く遠く、美しい銀色の輝き。
圧倒的な銀が、そこにあった。
どれほど希ったことだろう。思い出のままの銀色の輝きは、エルフの頭上を越えて急降下し、地表すれすれまで高度を落とした。
追いかけようとして、腰から下はまだ岩に埋もれたままであることを思い出した。言葉もなく、瞬きもせず、追いすがるように届きもしない手を伸ばす。
数百年間待ち焦がれた、恋い焦がれ続けた銀色の輝きは──そんな些末な想いを歯牙にもかけず、伸ばした手の遙か彼方へと飛び去っていく。
見開かれたエルフの瞳に映ったのは、三人を背中に乗せて青空へと羽ばたく銀竜の姿だった。
***
竜の背中は広く、大人が三人乗ってもまだいくらか余裕があった。幸いにも振り落とそうとする気配はなく、銀竜は高度を上げてその存在を知らしめるように森の上空を旋回する。馬で駆けるよりも速い速度だが、エリスの張った結界のおかげで風に煽られることもない。
「すごい……世界樹の先が見える……」
聖母なる森にそびえる世界樹と呼ばれる巨木は、その頂上部から世界が見渡せると言われており、創世神話にも登場する。その根元には今はリグルの父ウュリア・シルヴィアが眠っている。
ドワーフの森の上空から世界樹を見れば、その先にはジルベールが、そのさらに向こうには廃墟となった旧モルタヴィアが見える。かつてそこにあった永きに渡る戦争も──竜の背から見下ろす世界は歴史すら小さく思えた。
幸いにも竜はドワーフの村を襲撃することも暴れることもなく、優雅に森の上空を旋回しているだけだ。背に乗る人間達は創世神話の騎士と同じ体験をしているのかと、しばし呆然としていた。
世界樹を中心に幾度か旋回していたが、一声嘶くと世界樹を背に真っ直ぐ飛行し始めた。
「えっ!? 待って、このまま行くと、ジルベールに──!」
聖母なる森からジルベールまで、馬を飛ばせば半日の距離である。銀竜の飛行速度がぐんと上がり、このままではあっという間にジルベールに到達してしまう。
竜はただ飛んでいるだけかもしれない。このままジルベールを飛び越えていくかもしれないが、その保証はどこにもない。
かつて頑強な肉体を持つドワーフも、魔法に長けたエルフも竜の前には成す術もなかったという。それが何の力も持たない人間相手となったら、話にもならない。
ジルベールに到達する前に竜をどうにかしなければ──しかし迂闊に刺激して怒りを買っては逆効果だ。竜の動きを封じる方法──あるいは方向転換させる方法──
「リグルさん!」
悲鳴にも似たエリスの声が、思考に沈みかけたリグルの意識を引き戻した。もう目の前にジルベールの城壁が迫っている。
何も手立てを思いつかないまま、竜は三人を背に乗せたままジルベールの上空に到達した。地上の人の顔を認識できない高度だが、地上からでは容易に竜を認識できるだろう。
「まずいぞ、高度が──」
竜が頭を下げて下降する。森を飛び立ってから真っ直ぐ──ひたすら真っ直ぐに目指したその先は、ジルベール王宮──かつて封じの塔があった場所。そこに佇む人影があった。 金色の髪、少し華奢な影。こちらに背中を向けていても見間違えるはずもない。
「兄さん!」
エリスの実兄であり、リグルの幼馴染でもあるディーン・アープがそこにいた。
ディーンを目指して下降する竜が、ぐぐ、と喉の奥を鳴らす。
実際に見たことはなくても直感する。エルフの話にあった凍てつく息を吐く前兆だ。
(どうする──どうすれば──)
竜の背に剣を突き立てる? 鱗に阻まれたらそれまでだ。ならば眼を狙う? それとも魔法を──?
考えている余裕はない。
「エリス、結界を!」
リグルが叫んだほんの一瞬後、竜が大きく口を開き、凍てつく息を吐き出した。
「ディーン!!」
気配に気付いて振り返ったディーンの瞳に映ったのは、目の前に突然現れた氷の壁がすぐに溶け、その向こうから真っ直ぐこちらに飛んでくる銀色の何かだった。
大きく開かれた口だと理解したのは、その牙が獣のそれに似ていたからだ。巨大な動物が自分を食らおうとしているのか。空を飛ぶ、鱗に覆われた、鋭い牙、爪、見たこともない──
「……竜!?」
ディーンがそれを竜と認識したのが先か、竜が急に目の前で転回したのが先か。
高度を上げる竜の背に、人が二人乗っているのが見えた。ひとりは解らないが、もうひとり──風に揺れる黒髪には見覚えがあった。
懐かしい幼馴染の名を呼ぼうとして、ディーンは言葉を飲み込んだ。
竜に気を取られていたディーンの目の前に、天使が舞い降りたのかと思った。
揺れる金髪、蒼い双眸は凜と輝いて──
「エリス!?」
「兄さん、無事でよかった!」
安堵の表情を浮かべたかと思うと、すぐにディーンに背を向けた。
「動かないで、すぐ結界を張り直すから」
再会を喜ぶ暇もなく、エリスは上空で旋回する竜を見上げる。
何が起きているのか、どうしてここにと問いたいことは山程あるが、ディーンはすべてを飲み込んでエリスの指示通りその場から動かず、ただ妹の背中を見つめた。
かつて反乱軍として最後の戦いに赴いた時の、先頭に躍り出て魔法で兵士達を吹き飛ばしたあの時を思い出す。目の前にどんな強大な敵がいても一歩も怯まない、そんな勇ましさはその華奢な身体のどこから溢れてくるのだろう。
「結界を二重……三重に……!」
びり、と空気が張り詰めたような気がした。その直後、竜が急降下して先刻と同じように大きく口を開く。
吐き出された凍てつく息は結界に阻まれその場で氷の壁となり、瞬時に溶けていく。その後に続く竜の爪と尾による攻撃も、結界にぶつかり地が揺れるほどの衝撃があったがアープ兄妹には届かなかった。
攻撃を阻止された竜は上空に舞い上がる途中、角を押さえて進行方向を制御しようとしていた人間二人を振り落とした。落下する途中で体勢を立て直し、エリスの魔法のおかげで難なく着地し剣を抜いてディーンとエリスの元へ駆け寄る。
上空で旋回して再び急降下した竜は、三度人間に向けて大きく口を開いた。エリスが範囲を広げて多重結界を張って攻撃に備える。
だが竜の口から凍てつく息は吐かれなかった。代わりに、ひとつ大きな咆哮を残して彼らの頭上を飛び越えた。そして再び上空に舞い上がり──人間を振り返ることなく空の彼方へと飛び去っていった。
「飛び去った……?」
「……みたいだね」
リグルの声に、はあと大きく息をついてエリスがその場にへたり込んだ。
「良かった……どうなるかと……」
「助けてくれたんだな。ありがとう」
優しく頭をなでられて、エリスが顔を上げた。見上げれば、別れた時よりも髪が伸びて──ただでさえ華奢な身体がさらに細くなったように見える兄がいた。エリスを見守る笑顔は昔のままだ。
「うん。兄さんが無事で良かった」
すぐそばにリグルがいて、兄がいる。一瞬子供の頃に戻ったような気がして、エリスはへにゃりと笑った。
「リグルもありがとう」
剣を鞘に収めると、リグルは差し出された手を固く握った。
「ディーンも元気そうで良かった」
「そちらも元気そうで何よりだが、もう少し穏やかな来訪でお願いしたい。一体何がどうなっているんだ。それに、彼は──」
ディーンが苦笑いを収めて、こちらに背を向けている銀髪の剣士を見た。すでに剣は収められており、つい先刻までリグルと並んでいたはずなのに、いつの間にか距離を取っている。
「あ……、その、彼は」
リグル自身は、彼を赦した。恨みも何もない。だが、かつて反乱軍として戦ったディーンは、同志は、国民はどうだろうか。
言い淀んだリグルに代わり、ラスフィールが意を決して向き直った。見覚えのある顔にディーンの表情が硬くなる。
一瞬にして空気が張り詰めた。座り込んだままのエリスが固唾を呑んで見守っている。
「……私は」
ラスフィールが一歩踏み出そうとした足のすぐ横に、凄まじい勢いで飛来した矢が突き刺さる。
「動くな!」
続けて飛んできた怒号にラスフィールは完全に動きを止めた。
かつて翡翠騎士団長として名を馳せたラスフィール・アルシオーネは、駆けつけた男達によって地に押さえつけられ、剣を奪われ、捕縛された。
彼はただ、それを静かに受け入れていた。
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