第4話

 森に囲まれた村の背後には切り立った崖がある。村から森を突っ切らねばならないのだが、足下は悪いものの人ひとりがやっと通れる程度に道があったので、さほど苦労することもなくそこへとたどり着いた。左右に広がる崖の一部に、明らかに人の手によって造られたであろう横穴がある。

「こっちだよ」

 リグルに促されてエリスは横穴に一歩足を踏み入れて周囲を見回した。入口こそ高さが二メートルほどしかないが、中に入ると天井は高い。内部に一切光がないためよくは見えないが、壁から天井にいたるまで、レリーフが刻まれているようだった。

「洞窟に造られた神殿か何かなの?」

 ちらりと隣に立つリグルの様子を窺うが、唯一の光源である入口を背にしているため表情は見えない。

「神殿というか……」

「何用だ」

 闇の奥から飛んできた低く鋭い声が、口を開きかけたリグルを制した。決して好意的ではない声色にエリスが身構えると、リグルがそっと肩に手を置いた。

「あなたに魔法の教えを乞いに」

「お前がか、リグル・シルヴィア」

 リグルと顔見知りらしい声の主は、こちらに近づいているようだった。暗闇に目が慣れてきても横穴はだいぶ奥まで広がっているらしく、光の届かないところにいる声の主は見えない。

「俺じゃない。ところで、明かりをつけても?」

「……金色の娘……?」

 声の主が呟いた。横穴の奥からでは逆光になるのだが、エリスの髪の色を言っているらしかった。あるいはアープが『金色の魔道士』と呼ばれていたからかもしれない。ギズンは祖母を知っていた。ということは、この村の者はアープを知っているということだ。

「エリス・アープです」

 エリスが小さく会釈すると、ふわりと小さな明かりが現れた。声の主の手のひらを照らす光の球はふわふわと宙を舞い、天井付近に漂って照度を上げて横穴全体を照らし出した。

 改めて横穴の内部を見渡すと、壁から天井にいたるまで見事なレリーフが施されていた。それらは創世神話を描いており、物語に出てくる女神に仕える竜騎士と四人の騎士が魔王と戦う場面であったり、妖精や一角獣、天使や魔物がまるで見てきたかのような緻密さで刻み込まれている。

「ここは神話の息づく神聖な場所」

 レリーフに見惚れるエリスを現実に呼び戻すように低い声がした。ここで初めて声の主の姿を見たエリスは、一瞬言葉を失った。

 すらりとした長身、薄明かりの中でも冴えるように白い肌、腰を優に覆い隠す黄金の髪、長く伸びた耳、彫りの深い整った顔、だがその両目は閉ざされていた。

「目が……」

「私は己の意志で眼を閉ざした。光を感じることはできるが、識別する力はない」

 やはり目を閉じたまま、静かに呟いた。目が見えないのなら、この暗闇も苦にはなるまい。

「魔法の教えを乞いたいと?」

「はい、お願いします。えっと……」

 まだ相手の名前を聞いていないことに気付いてエリスが言い淀んだが、

「何のために魔法を得たいと思うのだ」

 名乗る気配さえ見せず、静かに問う。

「それは……」

「魔法とは強大な力そのものだ。人の心は弱い。安易に力を手に入れて、その力で自分が暴走しないでいられる保証はあるのか? 身に余る力は魔物と変わらぬ。お前は己の内の魔物を御することができるのか」

 厳しい声で問われ、エリスが静かに微笑んだ。

「懐かしい──父と同じことを仰るんですね」

 リグルが突然いなくなった日の翌日、エリスは父に魔法を教えてくれと懇願した。その時に言われたことだ。魔法とは強い力そのものであり、使い方を誤れば大変なことになる、と。

 魔法の恐ろしさを知る父リーヴ・アープは子供たちに魔法を教えるつもりはなかった。どうしてもと食い下がったエリスに根負けする形で、日常の生活にも役立つだろうと簡単な治癒魔法だけを教えたのだ。エリスが操ることのできる治癒以外の魔法はすべて独学である。

 平和な世に魔法などいらない。不必要な力を持て余すのではないかと父は懸念したのだろう。衝動的に誰かを傷つけてしまいかねない力を持つことに対する精神的な負担を、子供たちに負わせていいのだろうかと。

「私はもう、守ってもらうのは嫌なんです」

 静かに笑って目を閉じて──

「今度は私が守りたいんです」

 澄んだ青い瞳が盲目のエルフをまっすぐ見つめた。

 どれだけの沈黙がその場を支配したのだろう。言葉もなく見つめ合う二人をリグルは静かに見守り、沈黙が闇に融けていくのを見届けた。

 盲目のエルフが小さくため息をつく。

「……いいだろう。魔法を教える。お前がそれを習得できるかどうかは知らぬがな」

「よろしくお願いします!」

 弾かれたように深々と頭を下げたエリスにつられ、リグルも一緒に頭を下げた。

「では早速始める。表に出ろ」

「はい、ところであの……」

「何だ」

「あなたのことを、何と呼べば……?」

 盲目のエルフは名乗っていない。ギズンもエルフ、としか言わなかった。

「……ついてこい」

 どれだけかの沈黙の後、ようやく吐き出した盲目のエルフは光の球を伴って洞窟の奥へと進んだ。暗闇に取り残されないようにと、リグルとエリスは小走りにその後を追いかけていった。


   ***


 洞窟の入口からすぐのレリーフの広間の脇に、人ひとりがやっと通れるような狭い通路があった。大きな曲線を描いた先に、明るい空間が見える。

 狭い通路を抜け、広い広間に出たエリスは息を飲んだ。

「これは──」

 その空間の一面の壁が凍りついていた。否、この洞窟に巨大な氷の塊が埋まっているのだ。エリスが見ているのはその一部にすぎない。そして氷の中にある銀色の輝きは──。

「──竜?」

 銀色の鱗をした巨大な竜が、氷の中でうずくまっていた。明るく見えたのは氷の上部がかすかに洞窟の外に飛び出ており、そこから入り込む光が氷と竜の鱗に反射していたからだ。

 物語の中でしか知らないドワーフとエルフを見た。他の生物がいたからといって今更なのだが、その大きさと存在感、何より美しさに圧倒される。

 銀の竜といえば、創世神話で竜騎士が駆ったと言われている。それを目の当たりにして何も思わずにいられる者など、この世界には存在しない。

 創世神話の生物が何故ここにいるのか、考える余裕さえないほどにエリスは圧倒されていた。すがるようにリグルを見れば、彼もまた竜に見惚れていた。すぐにエリスの視線に気付き、小さく頷いて彼女の手に触れる。

「かつて、この地でエルフとドワーフは争っていた」

 二人の人間の様子などお構いなしに盲目のエルフが語り始めた。

「理由は小さなことの積み重ねだった。それがある日種族間の戦にまで発展した。ドワーフはエルフのように魔法には長けていなかったが、特殊な武器や防具を作るのに長けていた。お互いの種族の誇りをかけて戦いは泥沼化した」


 数百年前。まだモルタヴィアもジルベールも歴史に存在していない頃、聖母なる森と分かたれたこの森で起きた戦で、まだ盲目ではなかったエルフは戦士として戦っていた。ドワーフもエルフも一歩も引かぬ戦いで、エルフは十数人がかりの巨大な魔法を撃った。それはドワーフに壊滅的な被害を与えるはずであった。だがエルフとの戦いということで対魔法に重点を置いていたドワーフは、その巨大な魔法に自慢の武具で挑んだ。結果、魔法を打ち破ることはできなかったが弾き飛ばし、ドワーフは被害を免れた。

 だが、それは結果としてこの世に存在し得る最凶の悪夢をこの地に生み出してしまった。

 この時代、竜はすでに過去の生物だった。絶滅したか、さもなくばどこかでひっそりと滅びを待っているのではないか──そう伝えられていた。だが長命なエルフやドワーフは、竜が存在する時代を生きていた者もいる。その恐ろしさを目の当たりにした者もいた。

 弾き飛ばされた魔法の衝撃によって目覚めた銀竜を空に仰ぎ、誰もが恐怖に慄いた。創世神話を寝物語に聞いていた多くの者はその場に平伏し、竜の恐ろしさを知っている者は愚かにも竜に向かって魔法を放った。それが竜の怒りに油を注ぎ、銀竜はその口から凍てつく息を吐き、鋭い爪と牙で小さな生物たちを引き裂き、尾でなぎ払った。

 エルフもドワーフもお構いなしに、聖なる竜は蹂躙した。

 それは一瞬のことだっただろう。上空から凍てつく風が吹き下ろしたと同時に銀色の巨大な悪夢は大地に降り立ち、埃を払うようにしてすぐに飛び立った。だが悪夢の共演者にとっては永劫にも等しい瞬間だった。何十人と死者が出た。大小の違いこそあれ、傷を負わぬ者などひとりもなかった。まさに悪夢そのものだった。

 かつて戦士として戦っていた盲目のエルフは、上空に銀色の輝きを見た瞬間、その美しさに心を奪われた。平伏することもできず、立ち尽くしてその姿に魅入っていた。竜が鋭い牙を自慢するかのように口を開いた時でさえ、身動きひとつとれなかった。直後に襲いかかってきた凍てつく息に吹き飛ばされ、それが幸いして巨大な銀の刃にかかることは免れた。

 目の前で為す術もなく仲間たちが力尽きていくことにさえ気付かずに、銀竜に見惚れていた。それも一瞬だったはずだ。飛び立つ竜が再び封印の地に戻るのを見届けて、ようやく我に返って仲間の救助に当たった。

 その後は敵も味方もなく怪我人を治療し、死者を弔った。巨大な存在の前に、種族の違いが何だというのか。争う理由など、どれほどの価値を持つというのか。

 戦いは終わり、やがてエルフはこの地を後にした。ただひとり残留を告げた戦士は、名を捨て、その目を封印した。あの悪夢の瞬間に、仲間の命よりも銀竜に気を取られたことに対する後悔もあった。 


「そして──仲間と袂を分かったあの時、私は名を捨てた。だから私に名はない。ここにあるのは個人としての存在も俗世も捨てた、ただの亡霊に過ぎぬ」

 いいのか、エルフを憎むドワーフに殺されるかもしれぬぞ。

 エルフ族の……はもう死んだ。ここにいるのは、その亡霊だ。亡霊を殺すことなどできまい。

 そう言って仲間に別れを告げた。


 それから数百年。

 盲目となったかつての戦士は、ここで眠れる竜の番人となった。いつかまた銀竜が目覚める時を、ただ静かに待ち続けるために。

「この氷は銀竜自身のものだ。いかなる熱をもってしても銀竜の意思なく融けることはない。『主を失った銀竜は、再び主と見えるその日まで、自らの呪によって眠りについた』という伝説が正しければ、目覚めることもあろう。私はただそれを待っているだけだ」

 語り終えた孤独な戦士にかける言葉も見つけられず沈黙したエリスだったが、氷塊に近づき、

「触れても?」

 エルフが頷くのを見て、そっと氷に触れた。触れた指先がひやりとし、すぐに冷たさが痛みに変わって吸いつけられるように氷に張り付いてしまう。

 氷から引き剥がした指先は、感覚が鈍くなってはいたが濡れてはいない。人の体温でも融けなかった証拠だ。

「まるで恋をしているようですね」

 指先を見つめてエリスが呟く。

「あなたも、銀竜も」

 失った主を想い自らを封じ眠りについた銀竜と、その銀竜に心を奪われて、光と名と仲間を捨ててまでここに残ったエルフと。

 想いを通わせることができるかどうかさえ解らない、だがどうしても抑えきれない片恋いのようだ。想いを伝える術を持たぬ恋は、ただ奇跡を信じて待つしかない。それはかつて故郷で突然いなくなった幼馴染を待ち続けたエリスのようだった。

「恋か」

 思いも寄らぬことを言われ、エルフは苦笑した。彼の生きてきた時間に比べたらほんの僅かしか生きていない、まだ年端もいかぬ少女のあまりにも少女らしい指摘は、しかし見事に的を射ていた。銀竜が目覚める日を夢見て祈り続ける想いは、叶わぬ恋に身を焦がす切なさに通じるものがある。

「そうかもしれぬな」

 エルフが笑った。

「表に出ろ。魔法の訓練を始める」

「はい、お願いします」

 来た道を戻ろうとして、盲目のエルフが足を止める。

「リグル、何をしている」

 エリスが振り返れば、リグルは銀竜の氷を確かめるように両手で触れていた。声をかけても竜に気を取られているのか珍しく反応が鈍い。

「え? ああ……」

「初めてここに来たときも同じように竜に気を取られていたな」

「ここに来たのはあれ以来だよ」

 ギズンにエルフのところに行けと言われたときに渋い顔をしたのはその時のことが原因なのだろうか。

「竜に魅入られるな。人間のお前がいつ訪れるとも知れぬ竜の覚醒を待つには、あまりにも時間が足りなさすぎる」

 エルフは数百年もここで奇跡の日を待ち続けている。それは長命なエルフだから可能なことだ。

「それに──この娘の言葉を借りるなら、恋敵が増えるということだからな」

 本気とも冗談ともつかぬことを言って、エルフは行くぞと先を促した。

 リグルはその後に続きながら、足を止めて振り返った。

(……気のせい、か?)

 気配を探っても無人となった空間に何かが存在する気配はない。ただ、氷と銀竜の鱗が輝いて、静かにその空間を照らすだけだった。

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