第3話

 ガゼルの家──この村の宿屋で、一階は大部屋と食堂、二階は個室になっていた──に着くと、エリスは勧められた椅子に掛けてそのままぐったりと机の上に突っ伏した。ガゼルと話し込んでいたリグルが気付いてすぐ隣に屈みエリスの顔を覗き込む。

「エリス、休もうか」

「ごめん、ちょっと……やっぱり疲れたみたい」

 故郷を出る前も過酷な日々が続き、出てからは度重なる環境の変化に蓄積した疲労が一気に吹き出たのだろう。顔を上げることもなくか細く答えるエリスに、二人が顔を見合わせる。

「どうする、メシは食えるか」

 ガゼルの問いに、返事はない。

「先に部屋で休むよ。何か軽く食べるものを部屋に運んでもらえるか?」

「ああ、そりゃ構わんが部屋はどうする? 一緒でいいのか?」

「いや、別で」

「……そうか。じゃあエリスは二階の一番奥の部屋を使えよ。すぐに美味いメシを持ってってやるからな」

「助かる」

「これも商売ってね。気にすんな」

 ガゼルは笑って厨房に入り、リグルはエリスを背負ってゆっくりと階段を上る。この森を越えるのも疲れたであろうに、見知らぬ種族、土地に緊張したことが重なったせいもあろう。エリスの息は浅く、力なくすべてをリグルに預けている。

 階段を上って廊下の突き当たりの部屋に入ると、ベッドにエリスを座らせた。だがよほど疲れ果てていたのか座ったままの姿勢を維持することができず、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。

「エリス」

「ごめんなさい、大丈夫だから」

「熱はない? どこか痛いところは?」

 エリスの靴を脱がせながら問うが答えはない。見ればすでに半分ほど眠りに落ちているようだった。

「リグル、開けてくれ」

 ガゼルの声に扉を開けると、ふわりといい匂いが漂ってきた。

「メシ食う元気もなさそうだったからな。特製スープだけ持ってきたぜ。さあエリス、寝る前にうちの自慢のスープを飲んでくれよ」

 両手で持っていた盆を机に置いて、スープ皿をベッド脇まで持っていく。すぐ近くから漂ってくる美味しそうな匂いに、閉じかけていたエリスの瞼がゆっくりと開いていく。

「この村は僻地だからな。遠くから武具を求めてくる剣士や商人のために、栄養たっぷり疲労回復効果もばっちりだぜ?」

 ガゼルに目の前で人懐っこく笑われて、エリスもつられて微笑んだ。リグルに手伝われて半身を起こし、湯気の立つ具だくさんのスープに口をつける。

「……美味しい」

「だろ? この実が疲労回復にいいんだぜ。あとこっちのがほくほくしてうまいぜ? 熱いからな、火傷すんなよ」

 疲弊している彼女に会話は障るのではないかとリグルは危惧したが、ひとつひとつに小さく頷きながらエリスはスープを完食した。

「ごちそうさま」

「おう。すぐ荷物を持ってきてやるからな」

 飲み物だけ机の上に残すと、空になったスープ皿を盆に乗せてガゼルが笑いながら部屋を出た。リグルは扉を閉めてからエリスの隣に腰掛け、

「うるさかったんじゃ?」

「ううん。ガゼルさんて優しい人ね。リグルさんがいい奴だって言ってたの、解る気がする」

 彼女の言葉に微笑んだ。

「初めて会った時から何ひとつ変わっちゃいない。強引で、勝手に馴れ馴れしく話しかけてきて──でもそれがあいつだと嫌じゃないんだ……何?」

 エリスが小さく笑った。

「ねえ、だったら友達かなあ、じゃなくて友達だって言ってあげたら?」

 リグルが返事に迷っている内に、ノックもなく扉が開いた。

「荷物、ここに置いとくぞ。あとこれ使えよ」

 部屋の入口付近に荷物を置いて、ガゼルは包みをリグルに手渡した。それを開けて中身を確認する。

「湿布?」

 すり潰された薬草や木の実が混ぜ合わされた粉末状が入った包みと、大きめの葉が数枚。それに布と乳鉢と乳棒が入っていた。

 首を傾げたリグルに、ガゼルが指を立ててちっちっちと舌を鳴らす。

「そりゃお前はいいけどよ。エリスは慣れない道を歩いてきたんだろ? どうせお前は女の足を気遣うような真似はできねえだろうと思って、俺がちゃんと用意したんだよ」

 この宿屋を訪れる者は長旅に疲れた者ばかりだ。食事の栄養を考慮する事はもちろん、傷や疲れを癒すための薬草もきちんと取り揃えている。ガゼル当人の言葉を借りるなら、これも商売である。

「今夜は足を高くして寝た方がいいぜ。それでだいぶ楽になるはずだ。湿布は俺が手当してやってもいいんだが」

「遠慮するね」

 リグルに即答されて、ガゼルが肩をすくめる。

「ま、そんな訳で。お邪魔虫は消えますわ。リグル、お前の荷物は馬小屋に放り込んであるからな」

 リグルの言葉が返ってくるよりも早く、ガゼルはするりと部屋から出て扉を閉めてしまった。投げつけようと思っていた言葉の矛先を失ったリグルは、ひとつため息をついてから包みの中身を机の上に並べた。

「……その足の疲れ、魔法で癒せる?」

「うん、でもせっかくだからお言葉に甘えようかしらね」

 ガゼルには魔法が使えることを話していない。エリスは机に並べられたものを一瞥すると、

「湿布は自分でできるから大丈夫よ。リグルさんはガゼルさんと話したいこととかあるんじゃない?」

「いや別に……」

「久し振りなんでしょう? だったらゆっくり話してきたら? ほら、お友達でしょ?」

 諭すように笑った。

 追い出すようで心苦しいと思いつつも、自分のために友人との時間を割いて欲しくないというのが本音だ。それに湿布を貼るということは足に触れるということで、リグルに手伝ってもらうのも気恥ずかしい気がするのだ。

「友達っていうのはやっぱり微妙だけどなあ」

 苦笑しながらリグルは部屋を後にした。


 リグルが階段を下りると、食堂でガゼルがひとりで酒を飲んでいた。テーブルにはチーズや乾燥した果物などが並んでいる。足音もなく下りてきたリグルに気付くと、驚く様子もなくガゼルは軽く手を挙げた。

「おう、早かったな。エリスはもう寝たのか?」

「追い出されたよ。自分で手当できるってさ」

「何だお前ら、実は仲悪いのか」

「そうじゃ……」

「部屋も別だし」

「それは、エリスが泣けないから」

「何だそれ」

「俺がいるとエリスが泣けないんだよ。まだ泣き足りないだろうに」

「おい、何でエリスが泣く必要があるんだ? しばらく会わない内に何があったんだよ。そういや気になってたんだが、親父さんはどうした?」

 この村へ来るときはいつも父ウュリアと一緒だった。物資の運搬の都合などもあったのだが、ひとりで来たことは一度もない。

 どう答えればよいのかとしばらく考えたリグルだったが、隠しても仕方ないと単刀直入に短く言った。

「父は死んだよ」

 どれだけの沈黙が流れたのだろう。一瞬のはずのそれはまるで永劫のように重く感じられ、先程飲んだばかりの酒の味も口の中から消え失せた。

「……冗談だろ」

「俺がそんな冗談を言うとでも?」

「どうして……エリスが泣くのと何か関係があるのか」

 今しがた酒で潤したはずの喉が急速に渇いていくのを感じながら、ガゼルは可能な限り平生を装ってリグルに訊ねた。最後にシルヴィア親子が来たのはいつだっただろう。半年も経っていないはずだ。ということは、つい最近父親を失ったことになる。突然エリスを伴ってやって来たことと関係があるのか。

 何か言おうにも言葉が見つからないガゼルは、ただリグルの言葉を待つしかなかった。

「どこから話せばいいのか……」

 呟いたリグルに動揺はなく、彼こそ平生のままであるようだった。

「最初からだ、リグル」

 コップを渡し、ガゼルは静かに酒を注いだ。


 すべてを語り終える頃には夜は更けきり、二人のコップの酒も何度か注ぎ足されていた。リグルが語っている間、ガゼルはただ頷きながら耳を傾けていた。

「そうか」

 リグルの両親はすでにこの世の人ではないということに、ガゼルはとうとうかける言葉を見つけられなかった。ただ気さくでいつも笑っていたウュリア・シルヴィアとベルティーナ・シルヴィアには永遠に会えないのだな、と漠然と思った。

 話を聞いただけではとても信じられないと、この村の誰もがそう思うだろう。だが目の前の黒髪の人間はどうだろうか。目の前で両親を失った彼は──静かに淡々と語った彼はどうなのだろう。

 かつてガゼルは父を失った。あの時の喪失感は今でも昨日のことのように覚えている。両親を失ってまだひと月も経っていない彼は何を思うのだろう。

「お前、大丈夫なのか」

「俺は大丈夫だよ」

「いや、そうじゃなくて」

 うーんとしばらく唸ったガゼルが頭を掻きながら続ける。

「だからアレだよ、アレ。お前、無理してんじゃねえのか。悲しいとかつらいとか、そういうの全部我慢しちまうだろ。両親がいなくなったってのは思い切り泣いたって恥じゃねえぞ。お前そういう感情、ちゃんと吐き出したのか?」

 リグルは自分の激情を表に出すことはほとんどない。いつも穏やかに笑っているか、腹を立てたとしても声を荒らげるようなことはしない。ガゼルも彼の感情表現をとやかく言うつもりはないが、吐き出してしまった方が楽になれることがあることを、経験上知っている。

 ガゼルの言いたいことは伝わったのか、リグルはしばらく考え込んでから、

「エリスが……」

「エリスが?」

 うまく表現する言葉が見つからないのか、またしばらく考え込んでから続けた。

「昔からすごい泣き虫でさ。俺がどうとか言う前に、まず泣いたり落ち込んだりするんだよ。だからエリスをなだめるのにいつも必死で、気が付いたらそういう苦しい気持ちがどこかに消えてるんだ」

「ふうん」

「……でも、久々に会ってみたら、無理して笑ってるからさ。俺の前では絶対に泣かないみたいな感じで、なんかそっちの方が苦しくて……」

「そういうもんかね」

 いつも自分の感情は後回しで、最優先はエリスなのか。

 そう考えると微笑ましいような心配なような、微妙な気持ちになりながら、ガゼルはぐいとコップの酒を飲み干して、新たに手酌で注ぎ足した。

「まあ、お前が元気そうなら何よりだ」

「そりゃどうも」

 どちらからともなく、乾杯した。

 飲んだ酒がぴりりと喉に刺さるのを感じながら、静かに酒を酌み交わしていた。


   ***


 窓から射し込む朝陽に目を覚ましたエリスは、身体を起こして昨夜両足に貼った湿布を一枚ずつ剥がした。長旅で疲れた宿泊客のためというだけあって、湿布の効果は絶大だった。足にむくみも疲れも一切ない。

 身支度を整えベッドを片付けると、部屋を出て階段を下りた。一階は食堂で、ガゼルがテーブルに食器を並べているところだった。そこにリグルの姿はない。

「おう、おはよう。足の調子はどうだ? すぐメシにするからな、座って待っててくれよ」

 ガゼルが笑った。

「おかげで足がすごく楽です。ありがとうございます」

「ああ、リグルだったら馬の世話に行ったぞ」

 エリスの心中を読んだかのようにガゼルが言う。どきりとしながらエリスはテーブルの前に腰掛けた。

「話は聞いたぜ?」

 ミルクをカップに注ぎながらガゼルがそっと耳打ちする。きょとんとエリスが首を傾げると、

「お前らが何でここに来たのかとか」

 おそらく昨晩リグルから故郷でのことやここに来ることになった経緯を聞いたのだろう。

「エリスに聞きたかったんだけどよ」

「はい?」

「何であいつについてきたんだ?」

 あの時──すべての戦いが終わった翌朝、リグルは誰にも何も告げずに旅立とうとした。それをエリスが後を追って、連れていってくれと懇願したのだ。無理だと思った。連れていけないと言われるだろうと思った。それなのにリグルはおいでと手を差し伸べてくれたのだ。夢中で取った彼の手を──もし差し伸べられなかったなら、今頃どうしていただろう。

「何で……と言われても」

 ガゼルの視線を受けてしばらく考え込んだのだが、

「ただもう、離れたくなかったから」

 そうとしか答えられなかった。

「それだけ?」

「子供の頃に突然いなくなって、すごく悲しくて──十年間もただ待つだけの毎日だったから。もう待つのは嫌だったの」

 エリスにとっては理由としてはそれで充分だった。

「ふうん?」

 黙って話を聞いていたガゼルは腕を組んで何か考えているようだったが、

「良かったな」

 とだけ呟いた。

「はい」

 素直に頷いたエリスに、すぐメシにするからと厨房に入っていった。

「おはようエリス、昨夜は眠れた?」

 ガゼルと入れ違いで食堂にリグルが入ってきた。

「うん、湿布もすごく効いたみたい。馬は今どこにいるの?」

「宿屋の裏に厩舎があるんだ。そこに繋いでるよ」

 馬車で来る者やロバを引いてくる者など、客の種類が様々なこの宿屋ではあらゆる場合に対応できるよう設備が整っている。

「おうリグル、戻ったんならちょっと手伝え」

 ガゼルの声が厨房から飛んでくる。

「ちょっと待て、さっきまで馬の世話をして……」

「あの、私が手伝いますけど」

「いいからリグル、ちょっと来い」

 エリスの申し出も虚しく、リグルはやれやれと厨房に顔を出す。

「手伝うって何を……」

「お前、何でエリスを連れて来たんだ?」

「何でって」

「いや、普通考えねえ? 女の身で旅は大変だろうとか、国に残してくるもんとか」

「あー……」

 間の抜けた空白の後でリグルは言ったのだった。

「考えてなかったかも」

 そこまで思いを巡らせる前に、手を差し伸べていた。連れて行ったらどうなるかとか、残された者がどうなるかとか、そんなことは一切考えていなかった。ガゼルに言われる今の今まで気付いてさえいなかった。ただ、まるでそうすることが当たり前であるかのように──。

「いや、いい。何となく解った」

 勝手に納得した様子のガゼルに、リグルが眉間に皺を寄せる。

「何が」

「いいんだよ、別に」

「だから何を勝手に納得してるんだよ。俺に解るように……」

「あー、さっさとこれ運んでくれ。エリスが待ってるだろ」

 それ以上の追求を拒まれたリグルは、仕方なく押しつけられた蒸し野菜の盛り合わせをテーブルに運ぶ。

「へいお待ち、食事が美味いって評判のうちの宿の朝食だ!」

 厨房からのガゼルの声にため息をついたリグルとは対照的に、エリスが楽しそうに笑った。

 久し振りの、穏やかで賑やかな朝の始まり──

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