第四章

第39話 七不思議の厄介な噂

「さくらちゃん、今日も頑張って!」


 頬を染めるアリアに見送られるのは、もう何度目になるだろうか。

 リオンから証を贈られた日から、彼は毎日さくらと深い口づけを交わす。よく調べてみれば、そんなに頻繁に与えなくてもいいと書かれていたのに、リオンは譲ってくれない。


 これじゃ美咲さんの言う通り、貧血で運ばれる人もいるわけだよね。


 アリアへひらひらと手を振りながら自室を後にする。

 熱のこもり始めた朝の廊下を歩きながら、今日も暑い日になりそうだと、さくらは窓の外を見て目を細めた。


 リオンだけの、特別な人。


 ふと、右耳へ触れる。そこには小さな赤いピアスが存在している。この証が、リオンとの繋がりを目に見えるものにしてくれた。

 その事実に、さくらの心はさらに幸せで満たされる。


 健診へ行けば、美咲はすぐに証に気付いた。『おめでとう』と、優しい顔で告げてきた直後、様々な感想を聞かれてたじたじになった。次もきっとそうなると思えば、自然と笑い声がもれる。


「あら? 今日はさくらも朝から?」


 階段を降りれば、イザベルと遭遇した。彼女はピンと尖った耳をぴくりとさせ、燃えるような赤毛の尾をゆったり振り続けている。


「そういうイザベルは、今から?」

「そうよ。ラウルにはもっと強くなってもらいたいもの」


 ラウルとイザベルは朝と夜に体を鍛え始めた。

 証をもらったあと、先生が来るまでリオンのそばにいようとした。すると、ボロボロになったラウルを抱えた軽傷のイザベルが現れたのだ。

『月が綺麗で、歯止めが効かなくなって』と彼女は笑っていたが、それがきっかけなのだろう。


「そういえば、そろそろ七不思議巡りよね? 組み合わせはリオンと一緒じゃなくてよかったの?」

「うん。私達はその……、おばけが怖いから」

「それなのによく誘ってきたわね。まぁ、何かあればアゼツが逃してくれるでしょうから、心配はしていないけれど……」


 寮母に声をかけ、女子寮の入り口を目指し、並んで歩く。

 背の高いイザベルを見上げれば、つい不安が言葉になった。


「でもさ、そっちは心配だよ。リオンとラウルがいるけど、まさかイザベル達がアデレード先生と一緒に七不思議に関する厄介な噂を確認しに行くなんて……」


 アデレード先生がいるなら大丈夫だと思うけど……。


 むしろ、さくらのような普通の人間がいる方が、足を引っ張る。それでも心配は心配なのだ。


 さくら達は自分達が動きやすいよう、七不思議を別々に巡り、感想を伝え合う事にしていた。これなら時間もかからないし、夜間外出の申請もしなくていいと説得した。それは同時に、彼らに何かあっても、さくらには気付けない事を意味する。

 だからみんなが七不思議を巡っている間に、急いで菊花とアゼツと共に問題を解決して、また合流する予定だ。


「その厄介なものが猛獣じゃないか? って噂があるじゃない? そんなもの、この学園にいるはずがないのに。でもね、夏休み中なのに唸り声を聞いたって生徒がいたそうよ。だから念のため、私達が呼ばれたみたい。ほら、誰かの使い魔に何あったのなら、生徒が少ない夏休み中の方が探しやすいでしょう? でも、訳あって隠しているのかもしれないし。だからね、その生徒を先に保護するのが役目みたい」

「そんな話、いつ聞いたの?」


 そこまで具体的に動くとは思わず、さらに不安が押し寄せてくる。それが顔に出てしまったのだろう。イザベルが苦笑しながら、さくらの頭を撫でた。


「昨日ね、アデレード先生から聞いたのよ。だから私達は何が起きてもその子を守って逃げるだけ。心配なのはアデレード先生だけれど、何かあれば他の先生にも声をかけると言っていたから、大丈夫よ」

「絶対に、無事でいてね」


 七不思議に誘わなければよかった。それでもこの機会にしか、アデレード先生を最短で助ける事ができない。

 どちらも大切なのにさくらには出来る事がなく、悔しい気持ちでいっぱいになる。


「そんな顔しないで? ほら、さくらの大切な人が心配するわよ?」

「あっ……」


 女子寮の入り口の前には、リオンとラウルが楽しそうに話している姿があった。

 あれだけ激しい喧嘩をしたのに、今の方が仲が良くなっている。男の子とは不思議な生き物だと、さくらは彼らから教えられた。


「本当に危険なら、私達生徒は参加させないって言っていたから。アデレード先生を信じましょう?」

「……うん。そうだね」


 アデレード先生が生徒を危険に晒すわけがない。

 まだ完全に不安は拭い去れないが、さくらは顔には出さぬように、前を向いた。


 ***


「もう……、無理だからぁ……」


 静かだった教室に、さくらの情けない声が響く。


「どうして? まだ始まったばかりですよ?」


 隣の席に座るリオンが顔を覗き込んでくるが、さくらは思わず距離を取る。


「あ、あのさ、問題正解するたびに、き、キス、するのは、ちょっと……」

「ちょっと?」


 そんな顔されたら、私が悪いみたいじゃない!?


 捨て犬のように、潤ませた緋色の瞳を向けてきたリオンに、さくらは複雑な心境になっていく。けれども彼はいきなり、にこりと笑った。


「なるほど。さくらも、物足りなかったのですね。では、もっと――」

「そっ、そうじゃなくて!!」


 今しがたしたばかりの行為をまたもされそうになり、さくらもさすがにリオンを止める。


「今日から歴史の勉強に付き合ってくれるのは嬉しいけど、これじゃいつまで経っても覚えられないよ!」


 キスをするのは、誰もいない裏庭や非常階段など、普段から人目につかなそうな場所だった。それに暗くなってからだったので、恥ずかしさを誤魔化せていたとも思う。

 けれど、今は朝。しかも自分の教室。

 それらの事実に顔が熱いまま戻らなくなり、さくらは教科書をばんばん叩きながらリオンに訴える。

 そして、きょとんとした顔をする彼が反論する前に、提案もした。


「まずはここからここまで! ちゃんと覚えられたら、しよ! 覚えられなかったら、なし!」


 キスがしたくないわけではない。でもこんなにしていたら、勉強した歴史を思い出すたびにリオンも思い出してしまう。そうなれば、授業もテストも大変な事になるのは予想できる。だからさくらは説得しているのだ。


「とても残念ですが、わかりました。少し、調子に乗ったのもありますし……」

「ん? 何?」


 ため息をついたリオンが、本当に残念そうに頷く。けれども最後の言葉は小さすぎて、さくらは聞き返した。

 すると、リオンは蠱惑的な笑みを浮かべた。


「私の吸血衝動を抑えるためだけの行為ではないのですよ? ただ、私だけのさくらと口付けたくて、求めてしまうのです」


 なっ、何言ってるの!?


 僅かに頬を染めてはいるが、リオンは淀みなく言い切る。けれど伝えられたさくらの顔は、彼よりも赤くなっているに違いない。

 しかし、衝撃を受けて固まるさくらの右耳へ触れるように、リオンの顔が近付いた。


「次が待ち遠しいですね。では、続けましょうか」


 リオンの吐息を感じれば、彼のいつもよりも低い声に全身が撫でられたようにぞくりとしてしまう。

 けれど、すぐに爽やかな笑顔を浮かべたリオンが、さくらの教科書をなぞった。


「2190年、日本を含めた4カ国が新たな緩和医療の開発を掲げ、国際条約が締結された。この部分ですが、前は3カ国でしたよね? 現在は私達が生まれた国、メリフォルトが加わります。ここからですね。こちらの世界で魔法を組み合わせた医療が始まるのは」


 リオンは普通でも心臓に悪い……。

 でも、私も切り替えなきゃ!


 貧血時は人格が変わるのかと思っていたが、これもリオンなのだと、さくらは学んだ。

 けれど、こうして真面目に向き合ってもくれる。だからリオンの説明に頷きつつ、さくらはタブレットへ書き込む。

 彼の静かな声と、自分の質問の声だけの時間が、ゆっくりと過ぎていく。


「あとは……、使い魔による治療時についての法律まで、覚えておきましょうか」


 さくらが不安に思うものの名前が出てきた事により、書く手が止まった。


「リオンはもう、聞いたの? 七不思議の噂。使い魔が関係してるかもって……」

「昨日、アデレード先生から聞きました。私達は動いてもらうかもしれないからと、先に話をしてくれたようです。さくらも今日、知ったのですか?」

「私は、イザベルから聞いた」


 思わず、電子ペンを持つ手に力が入る。それに気付いたのか、リオンがさくらの手を優しく包み込んできた。


「大丈夫ですよ。無理はしませんし、無茶もしません。それがアデレード先生との約束でもあります。それより、私はさくらの方が心配です」

「なんで?」

「私は、菊花さんが何もしければいいと、ずっと考えています」


 菊花ちゃん?


 リオンが真剣に伝えてくるのには意味がある。でも、さくらにはピンとこない。


「菊花ちゃんに、何か言われた?」

「そうではなく、ランピーロをさくらと眺めた日の彼女を思い出せば、簡単に怒りが鎮まるとも思えないのです。それに、さくらは菊花さんの記憶が消えない程の強い想いを抱いていた理由を、聞けていますか?」


 そういえば、その話だけできてない。


 菊花とはいろんな事を話しすぎて、彼女の願いについても、聞いたつもりになっていた。何より今はアデレード先生の作戦に集中しすぎて、忘れてしまっていたのもある。


「確かに、まだ怒っているかもしれないよね。私、もっと話してみる。それこそ七不思議を巡る日とかにでも。なんかさ、そういうイベントの時って、話しやすくなる気がするし」


 むしろ、全部が終わってから、落ち着いて話したいな。


 リオンの助言を有り難く受け止めながら、さくらは考えをまとめた。

 それなのに、リオンの顔は険しいままだ。


「決して、アゼツから離れないで下さい。何かあれば、証を強く握って下さい。すぐにさくらの元へ向かいますから」

「リオンは心配性だよね」

「これぐらいがちょうどいいかと思いますが?」


 大げさだが、これがリオンの愛情であると、さくらも理解している。だから彼の心配を吹き飛ばせるように、さくらは目的を達成させる事だけを考えた。

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