第38話 証の存在

 さくらの想像より怪我をしていたリオンの腕を掴みながら、無言で歩く。

 ラウルの鋭い爪に裂かれたようで、血が止まらない。青白い顔をしたリオンの息は荒く、気持ちばかり焦る。

 そしてようやく医務室が見えてきた頃、さくらは口を開いた。


「とにかく、血を止めなきゃ。失礼します」


 明かりがついていたので先生がいると思い声をかけたが、白い部屋には誰もいない。

 中に入ってみるが、人の気配すらしない。


「リオン、座ってて」


 胸を押さえるリオンが、無言で頷く。

 それを見届け、先生を呼び出すためのタブレットに目を向ければ、はちみつ色をした液体が入った小瓶が3つ置かれていた。


 リオンとラウル、それにイザベルにまで?


 名前のラベルが貼られ、メモが添えられている。


『アデレード学園長よりお話は伺っています。夏休みだからとお互いの力を試したい気持ちはわかりますが、あまり無茶はしないように。今後の戒めになるように、ある程度の怪我を治す薬だけは置いておきます。よほど酷い怪我の場合は私をすぐに呼ぶように。医務室には21時頃に様子を見に行きますので、ここに泊まりたい場合はその時に申請して下さい』


 時刻はそろそろ20時を迎える。

 医務室は18時で誰もいなくなるが、アデレード先生もリオン達の事を知っていたようで、このように計らってくれたのだろう。


「リオン、先生が準備してくれた薬があったよ」

「何故……?」

「アデレード先生が知らせてくれたみたい」


 虚な目をしたリオンはそれでも話を理解してくれたようで、小瓶を一気に飲み干す。するとみるみる傷が塞がり、薄っすら跡だけが残った。


「今日はここで休む?」

「はい……」

「じゃあさ、今から先生呼ぶ――」

「その前に、話をしましょう」


 さくらがタブレットを取りに行こうとすれば、リオンに腕を掴まれた。

 その手を振り解かず、さくらは向き合う。


「あんな形で盗み聞きしちゃって、ごめん。本当はリオンから直接理由を教えてもらいたかったんだ」

「……ノワールからは、何もされていませんか?」

「いたっ!」


 あれだけ苦しそうだったリオンが息を整え、腕を掴む手に力を加えてきた。それが思ったよりも強く、さくらは声を出してしまった。


「す、すみません……」

「ちょっとびっくりしただけだから。どうしたの?」

「その……、はぁ……」


 ぱっと手を離された事が少しだけ寂しいが、顔を赤らめたリオンの様子がおかしく、続く言葉を待つ。


「ただの、やきもちです」


 目を逸らし、小さく呟いたリオンに、思わず胸がときめく。


「リオンが心配する事なんて、何もないよ。だってノワールはね、みんなの、攻略キャラ全員のエンディングを教えてくれただけだから」


 リオンがこれ以上不安にならないように、ノワールの目的を伝える。これで本題に入れるとさくらが言葉を続けようとすれば、リオンが勢いよくこちらを向いた。


「さくらはそれを聞いて、どう、思ったのですか?」


 リオンの緋色の瞳が、不安げに揺らぐ。

 だからさくらは安心してほしくて、微笑んだ。


「私の体の事、気にしてくれたんだよね? 私は大丈夫。リオンの特別な人になれるって、嬉しいから」


 言葉にすれば、頬が熱を帯びる。

 けれどリオンは、青ざめた。


「その特別は、いつかさくらを傷付けるものに変わります」

「なんで?」

「さくらは、病気の治療後の事で、苦しんでいたではないですか……」


 病気……。


 先程よりも辛そうな顔をして、リオンがぽつぽつと話す。けれどさくらは今、その事を思い出した。


「へへっ。すっかり忘れてた」

「何故、ですか?」


 何故って、そんなの決まってる。


「みんなが私を、さくらはさくらとして見てくれるから」


 前はそんな風に見てくれる人がいないと、勝手に絶望していた。けれど、今は違う。

 だからさくらは、心のままに笑う。


「それに、それでも私が好きって言ってくれるリオンがいるから、もう、大丈夫」


 病気の事を知り、それでも受け入れてくれた人がいる。

 それだけで、こんなにも強くなれる。

 思い出せば胸は痛むけど、そんな私ごと、リオンは好きって言ってくれているのを知ってるから。


 だから――。


 胸に、リオンへの愛おしさが溢れる。

 それに突き動かされたように、さくらは彼を抱き締めた。


「私の事、丸ごと好きって思ってくれる、リオンが大好きだよ。だからね、私も、リオンの全てが好き。その赤い目も全部、私だけのものなんだから」


 リオンの瞳に映るのはさくらだけであってほしいなんて、独占欲が滲む。でも隠さず、伝えた。彼が今も緋色の目を理由に苦しんでほしくなかったから。

 本当に全てが大切なのだと伝わるように、椅子に座るリオンの顔をさらに抱き寄せる。彼のさらりとした黒髪が、さくらの指を優しくすり抜ける。


 するといきなり横抱きにされ、さくらはベッドに降ろされた。


「な、なに?」


 いつもよりも強い光が宿る緋色の瞳には、先程自分が望んだように、さくらの姿しか映っていない。それがわかる程、リオンの顔が近くにある事に動揺する。


「血が、足りない時に、そのように誘うのは、やめて下さい」

「血!? あ、そ、そうだよね! どうしよ。さすがに食堂から輸血パック――」

「さくらは、自分で調べたのですよね? 血を飲まない方法を」


 また息が荒くなってきたリオンが、さくらの両腕を拘束するように覆いかぶさってくる。その事実に胸が痛い程波打つが、目が逸らせない。


「そ、そうだけど……。あっ! そっか! 汗とか涙でいいんだよね! 物足りないかもしれないけど、ちょっと待ってて……」


 切なそうに目を細めていたリオンが、妖艶な笑みを浮かべた。その表情に、さくらは意味もなくぞくりとした。


「そこまでしか、知らないのですね」


 ゆっくりと、リオンの顔が動き出す。さくらの耳を彼の吐息がくすぐり、徐々に首筋へ移動する。

 すると、ぺろりと舐められたのがわかった。


「まっ、待って! 汗はその、お互い嫌じゃない!? それにそこまでって、何!?」


 手を押さえつけられているので、リオンを止める事ができない。それでも必死に身をよじれば、リオンが薄く笑いながら覗き込んできた。


「さくらのものならば、嫌なものなどないのですよ。だからそこまで必死に逃げようとせず、私に身を任せて下さい」


 そういうものなの!?

 それに逃げたくても、リオンの方が力が強いから逃げられないってわかってるでしょ!?

 やっぱり血が足りない時のリオンは、心臓に悪い!


 リオンの口から覗く牙に目を奪われながら、さくらは心の中で叫ぶ。ゲーム内での、嵐の夜と同じような事が繰り返されれば、恥ずかしさで失神する自信があった。

 けれど、リオンが真剣な表情を浮かべ、静寂が訪れた。


「さくらをたくさん傷付けた分、私が癒し続けます。だからこれから先何があろうとも、さくらと共に生き、さくらを守ります。ですから、私からの証を、受け取ってもらえますか?」


 リオンは全部わかっていて動いていた。それがさくらのためだと思っていたのだろう。謝らないのはそれを罪だと背負い、それでも、これからもさくらと向き合い続ける。

 そんな、彼の誓いのように、さくらには聞こえた。


「きっとね、私達はまた悩むと思う。でもこれからは、2人でちゃんと乗り越えよう? 私もちゃんと、気持ち、話すから。リオンも私にちゃんと、考えてる事、教えてね?」


 さくらの言葉に頷くリオンを確認し、息を吸う。


「リオンからの証を、下さい。私達の大切な思い出があるこの場所で、私を、リオンだけの特別な人にしてほしい」


 言葉にするのは恥ずかしかったが、目を逸らさずに言い切る。

 すると、眩しそうに目を細めたリオンが、さくらの右耳へ顔を寄せてきた。


「ありがとう。また、大切な思い出が増えました。私も、さくらの全てが大好きです」


 リオンの囁きに心の中までくすぐられ、さくらの顔に熱が集中する。


「それでは、力を抜いて下さい。なるべく痛くしないよう、努力します」


 痛く?


 そう思った瞬間、耳たぶから全身に甘い痺れが走り、さくらの口から知らない声がもれた。


「なっ、なに、今の……」

「……まさか、証が何かを知らずに受け入れたのですか?」


 唖然としながらも頷けば、リオンが顔を上げた。


「痛くはありませんでしたか?」

「痛くなくて、むしろ、気持ち良くて……」


 さくらの体を抱き起こし、リオンが右耳へ触れてくる。その指が心地良く、思わず本音がもれた。

 でもその自分の言葉に、さくらの方が動揺する。


「あ、あの、なんか変な事言ったけど、気にしないで!」

「変ではないですよ。ヴァンパイアの牙には、そういった効果がありますから」


 さくらの耳から頬を撫でるように指を離したリオンが、何を探すようにきょろきょろと見回す。そして、一点だけを見つめて歩き出した。


「これが証ですよ」


 戻ってきたリオンが、手に取った鏡をさくらへと向けてくる。そこに映る自分の右耳に、彼の瞳と同じように輝く緋色の小さな丸いピアスが付けられていた。


「さくらの血と私の血を混ぜて作った証になります。これがあれば、さくらがどこにいようとも見つけ出す事ができるのですよ」


 そう言いながらリオンは鏡を戻すと、すぐにさくらの隣へ腰を下ろした。


「先程、さくらの汗をもらいましたので、少しだけ満たされました。けれど、まだ足りない。ですからもう少しだけ、もらいますね」

「……へっ!? また汗!?」


 ぎしりとベッドが揺れ、焦りからさらに汗が流れるのを感じる。

 けれどそんなさくらに笑いかけるリオンの緋色の瞳が、別の光を宿したように輝く。その熱っぽい視線を自分にだけ向けられ、さくらの心臓が早鐘を打つ。


「……いいえ。次は、さくらの知らないもの、ですよ」


 頭を支えられれば、目の前がリオンで埋め尽くされた。触れるように口を塞がれ、それが徐々に深くなっていく。すると、頭がくらくらしてきた。必死にリオンにしがみつくが力が抜け、後ろへ倒れ込みそうになる。

 そこでようやく、さくらの口は自由を得た。


「今はこれで我慢しておきます。ごちそうさまでした」


 リオンの口元が2人のもので濡れている。それを全て舐めとるように舌を動かしたリオンが、爽やかな笑みを浮かべた。


「いっ、今はって!?」

「言葉のままですよ? キスだけでこんなにも赤くなるさくらには、まだ早いでしょうから」


 キスだけって事は……!!


 もしかして自分はとんでもない提案をしてしまったのではないかと、さくらは恥ずかしすぎて身震いする。それなのにリオンは薄っすら微笑むと、あごを持ち上げてきた。


「左耳へ証を贈る時にと思っていましたが、今すぐにでも、続きが知りたいですか?」

「まっ、まだ知りたくない!!」


 軽い笑い声をもらしたリオンが、優しい口付けを落としてくる。その顔があまりにも幸せそうで、さくらも黙るしかなかった。

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