第3話 理性と欲望がせめぎ合った結果、欲望しか勝たん
図書館に向かう途中、アメリと桐絵を見かけた。
それだけなら、また一緒にいて仲がよさそうで嬉しい。にやにやする。と言うだけだった。
だけどアメリが桐絵の頬に口づけた。そしてその距離感や反応で、なんとなく二人の関係がただの友人ではないのだろうなと思われた。
それは妄想する通りで、佐枝子にとってもただ喜ばしいはずだった。あんなに仲良しで見ているだけでも微笑ましいのに、実際に恋人だったなんて、すごく嬉しい。やっぱり百合はあったんだ! と言う気分だ。
だけどどうしようもなく、思ってしまう。本当に百合はあるのに、佐枝子にはあんな風にしてくれる相手はいないのだ。恋人とは縁遠い。今だけではない。だって佐枝子自身もわかっている。
佐枝子は百合妄想をしてそれを小説にアウトプットするのが好きで、きっと一生の趣味だ。だけど夏芽に言われたように、現実の人間をモデルにしたりして誰から見ても気持ち悪い趣味だろうと自覚している。
佐枝子が誰かを好きになってその人と仲良くなって恋愛をする、その行程よりも妄想することばかり優先して、本当に心を開いて恋愛していくような関係にもなかなかなれないだろう。
実際、夏芽とだってこんな風に同室でバレてしまうまでは百合好きであることすら隠していた。
きっとどうしようもないのだ。佐枝子はレズビアンだけど、それ以上に百合が好きで、相手を好きになるより先に妄想をしてしまうのだから。
だけどそう思っていても、妄想ではなく実際にカップルを見てしまうと、自分では絶対に手にはいらないものを見つけてしまったような、とても羨ましい気持ちになってしまう。
「執筆はいいけど、こないだ自分が恋愛する気はないみたいに言ってたけど、実際に見たら羨ましかったりするんじゃないの?」
部屋に帰ってこのもやもやする気持ちを執筆に昇華しようと気合を入れたのに、何だか夏芽は恋バナがしたい気持ちになっていたようでそんな風に佐枝子に話しかけてくる。
「えー、どうしたんですか? そんなに恋バナ好きでしたっけ」
「いいでしょ別に」
そう軽く返してみたけど夏芽はそれすら流して、誤魔化されてはくれない。
「……まあ、そんなの、どうでもいいじゃないですか。どうせ私が恋愛をしたいと思ったって、私なんかと付き合う人はいないんですから」
つい、本音交じりでそんなことを言ってしまって佐枝子は夏芽から顔をそらした。もう話すことはない。そう伝える為、頭はまとまらないけど無理やりテキストを起動してタイピングをする。
まとまらないまま、小説の続きでもない、何でもないモノが表示されていく。ただ音をならすつもりでも、文字を作ってしまう。そんな自分が少しおかしい。
ぐつぐつ煮だった脳内を画面に照射していくような、私の中の淀みを少しずつ出していくような気持ちだ。
『人を愛してみたいと考えてみても、それは一時的なことだ。
結局私は自分から深く人と関わっていく勇気もない。自分から人を好きになる勇気がないのだ。そして何より、その気がないのだ。欲求はあっても、かなえる為に動く気もないのだ。その癖幸福な人間を見ると羨ましく自分をみじめに思う。何物にもなろうとしていないくせに、なれない自分を思うのだ。そんなのは』
「ねぇ、取材とかしたいなら、私付き合ってあげてもいいよ」
「え? なんです? 取材って」
自分の頭の中の感情を整理していたのに、また声をかけられて振り向いた。夏芽は佐枝子をまっすぐ見ていた。声音はいつも通りだったのに、顔はなんだか固い表情をしていてはっとする。
「だからさ……佐枝子が恋人なんてできないって言うなら、それじゃあ小説の幅が広がらないって言うか、だから……キスとか、付き合ってあげてもいいけど?」
その意味が、すぐには飲み込めなかった。キスとか、つきあってあげてもいい? それはつまり、キスをしてくれると言うこと?
そう理解した瞬間、佐枝子は夏芽の唇をまじまじと見つめ、飛び出そうなほどドキドキしてきた心臓を落ち着かせる為ごくりと唾をのみながら口を閉じた。
したいか、したくないか、と聞かれたら、当然答えは決まってる。したい。たまらなくしたい。恋人にあこがれるのは、妄想で我慢できないのはつまりそう言った欲求があるせいだ。まして相手は気ごころしれて見目もよいルームメイトなのだ。抵抗どころか、したいとしか言えない。
だけどルームメイトだからこそ、恋に落ちたら気まずくて苦しいだろうから、他の人より好きにならないように意識して、夏芽を恋愛対象と意識しないようにしていた。
でも他でもない本人からお許しが出たなら? 恋人にはなれなくてもそういうことができるなら?
「……いやー、何言ってるんですか。冗談きついですよ」
いやいやいやいや! そんなそんな、そんなこと、許されるはずない。とちくるって本人が許可したって、それをいいことに本気にするなんて。
だってそんな、夏芽は本当にいい人で、こんな佐枝子にだって変わらず友人関係で優しくしてくれて、だから仮に夏芽が百合だったのだとして、もっと本当にいい子と本当に思いあって綺麗な百合になるべきなのだ。それをこんな軽々しく、佐枝子なんかで初めてを消費するべきではない。
「…………馬鹿。冗談で言うタイプに見えるんだ? ふーん」
「……だ、って……私なんかと、そんなこと」
夏芽のことを思って佐枝子は頑張って笑みをつくってそう誤魔化そうとしたのに、夏芽はむっとしたように眉を寄せ、伸ばしていた足をひいて三角座りになって膝の上に顎を乗せて睨み付けてきた。
その引かない態度に、佐枝子は一度落ち着きかけた心臓がますますドキドキしてきてしまう。
「嫌なの?」
「そんな! 嫌だなんて、そんな、ことは……夏芽さんは、その、み、魅力的ですよ」
嫌かと言われたらそんなことはない。だけど夏芽は魅力的だからこそ佐枝子にはもったいないわけで。
なんとか伝えたいのに、口がうまく動かない。これは単に余りの予想外の展開に脳みそがついていかないのか、それとも、本当は拒否したくない欲望のせいなのか。
そんな葛藤の答えが出る前に、夏芽はすっと立ち上がって佐枝子に近寄り椅子の背もたれに手をついた。
「じゃあ、してあげる。目、閉じてよ」
「っ……」
その強引な態度に、いつになく真剣な瞳に、赤らんだ頬に、固く緊張したような声に、佐枝子は気圧される様に目を閉じた。
気配が近づく。そっと佐枝子の頬に手が当てられる。熱い。心臓がうるさくて、爆発してしまいそうだ。
本当に? 本当にキスをするの? そんなわけない。なーんちゃって。本気にした? なんて風に頬をつねられるんだ。
期待と不安が入り交じり、いつ裏切られてもいいように心が騒ぐ中、静かに唇に柔らかいものが触れた。
「……」
一瞬のことだ。ふわっと触れたそれが、だけどまだ信じられない佐枝子ははっと目を開けた。
とてつもなく近い夏芽の閉じられた瞼があって、本当にキスをしているのだと言う現実が、現実感のないまま本当になってしまった。
すぐに顔が離れてその目は開き、見つめ合う。呆けたようなうっとりした顔。佐枝子もそんな顔をしているのだろうかと自分を顧みながら、その顔に見惚れた。
だけど夏芽は目があったことに驚いたのかわずかに目を見開いてから、すぐに顔をしかめた。
「……私より先に目を開けないでよ。恥ずかしいでしょ」
「ご、ごめんなさい。その、本当にキスすると、思っていなくて」
「なんでよ。これでしなかったら、私、性格悪すぎでしょ」
謝る佐枝子にくすっと小悪魔的笑みを浮かべた夏芽はいつも以上の美人さんに見えて、佐枝子は自分の感情が変わりかけているのを自覚して胸を抑える。
「それは、だって……後悔、してませんか?」
「……悪くなかった、と私は思うけど? 佐枝子はどうなのよ。私とのキス、どうだった?」
「っ、そ、それはその、その、た、大変結構なもので、その、き、気持ちよかったです」
「そ。じゃあ、取材になったなら、よかった」
そう言われてから、ああそうだ、これは取材なんだと佐枝子は思い出す。キス、と言う大事の前に他の全てが吹っ飛んでしまっていた。取材。小説を書くために、経験がないことをさせてくれただけだ。
「あのっ、あ、あの……い、今の、一瞬で、その、よくわからなかったので。も、文字にするにはもう少し、その、取材、させてもらえたら、大変ありがたく」
ほんの少し前まで、ついさっきまでキスなんてするわけにはいかないって。そう思っていたなんて嘘みたいに、もう一度したくて佐枝子は必死にそう縋りつくように夏芽を見上げながら言った。
本当にキスをすると思ってなくて、だからまだまだ現実味がなくて、もう一度したかった。取材なんて嘘だ。結果そうなるのだとしても、今、佐枝子の頭にあるのは夏芽の唇を求める欲求があるだけだ。
「……いいよ」
そんな下心しかない佐枝子の思いは、その瞳越しに伝わっているのか。それとも上辺だけの言い訳を信じてくれているのか。
夏芽は小さく頷くとゆっくりと顔を寄せ、唇をあわせる直前で睨み付けてきて目を閉じるよう催促した。瞼をおろすと、すぐにまた柔らかいものが触れた。
今度こそ、疑うことなく信じられた。今触れているのが、夏芽の唇で、今、キスをしているのだと。
「……っ――」
自分の唇を噛むこともあった。火傷をしたり切れてもすぐに回復する強い部位だと思っていた。
だけどこうして合わせてみるとどうだろう。こんなに柔らかくて、温かくて、繊細なものだったんだ。人のものを感じて初めて知った。
「……も、もう一回」
何度もお願いした。この経験が執筆に生かすことはできなさそうだと、頭の隅でわかりながら。
○
キスをしたその日は気恥ずかしくて顔をあわせられなかったけれど、翌日もいつも通りの会話をしていればそれなりの距離感でいられた。
だけど何度も思い出してしまう。事あるごとに、夏芽が近くにいなくたって、コップから水を飲むだけで意識して、体が熱くなり心臓がうるさくなった。
「……はぁ」
苦しいくらいだ。すごく気持ちよくて、ふわふわして、心がとろけるように幸せな気持ちになってしまった。恋人同士でもないのにキスをして、これほど幸せなら、本当に思いあう関係の人間同士がするキスはどれほどだろう。
夏芽に申し訳なかった。恋人ができるはずのない佐枝子を憐れんで夏芽はキスをしてくれたのに、結局もっともっとと、手に入らないさらなる幸せを夢想してしまうことも。そして何より、これほど気持ちのいいことを文章にできる気がしないことが。
夏芽は他ならぬ佐枝子の小説と言う数少ない特技を見込んでくれたからこそ、これほどの温情を授けてくれたはずなのに。
そんな風に落ち込んだり、思い出してはにやついたりして不審な一日を過ごした放課後。部活が終わって部屋に戻るとまだ夏芽は居なかった。夏芽も部活なのだろうか。
お互い部活がなくても外出することもあるので、よく把握していない。だけど今日は、顔が見れなくて残念な気さえした。
朝別れたばかりなのに、顔がみたいなんて。まるで恋をしているみたいではないか。
「……あー、もー。ほんとにぃ」
誰にでもなく呟く。最悪だ。わかっていた。意識して、恋愛対象だと思わないようにしていた時点で、本当は普通にしているだけで恋愛対象だと思ってしまうだろうなと初対面で感じていたことも。
そして昨日のキスで、友情としての好意を超えてしまったことも。わかっていた。
単純な自分が嫌になる。そもそも、初めて百合を意識した時のことだ。幼少期、仲のいいお隣のお姉さんがお友達とキスをしているのを見てしまった時。その相手だけが佐枝子に気が付いてこっそりウインクして指をたてて秘密ねと合図をして、バクバクする心臓を抱えながら家に帰ってふとんにもぐりこみ、百合に目覚めたあの時。そのお友達の、ショートカットでちょっとボーイッシュなのに妖艶なその表情に、同時に小さな初恋にも落ちていたのだ。
でもそれは衝撃的だったし、そもそもお姉さんと一緒のところに会って軽く面識はあったけどフルネームも覚えてないくらいなので、恋というほど意識していなかった。ただ、やっぱり残っていたのだ。スポーツ系少女へのあこがれに似たこの思いが。
そう、ぶっちゃけ夏芽は最初からタイプだったのだ。自分と百八十度違って活発に体を動かしてずばずば物を言い、ショートカットが似合っていて手足が長くてちょっとツンと澄ましているような夏芽が、初対面から好きになりそうだと思ったのだ。
だけど、まさか本当にちょっと意識をはずして、こんなお情けでキスしてもらっただけで、あっさり恋に落ちてしまうなんて。
「はぁ」
これからどんな顔をすればいいのか。頭の中がぐちゃぐちゃだ。整理したくてため息をつきながらなんとなく席に着くと体は条件反射でPCを起動させていた。
「……」
手は自動的にキーボードに置かれた。取材だ、と夏芽は言ったのだ。なら昨日の経験を生かすべきだ。そう思って、とりあえず思い返してキスをよりリアルに描写してみようとしてみた。
『唇を』
唇をあわせた。その感触を書こうとして、頭の中で思い返して、その瞬間ぽーっとしてしまう。気持ちよかった。すごくきもちよかった。ぽわぽわしてた。やわらかかった。ぷりぷりしてた。とろーっとしてふわーってなって、もういっかいしたい。
「うーっ!」
頭がおかしくなりそうだった。佐枝子の脳内が気持ちいいで埋め尽くされて、全然具体的な単語になってくれない。まともな文章にならない。
わかってた。キスした時にすごく気持ちよくてとろけてしまいそうで、こんなの執筆に生かすなんて無理だってわかってた。
だけど冷静になった今ならできそうな気がしたのに、思い出すだけで冷静さはなくなってしまって、鮮明に思い出せるのに、思い出せるからこそ言葉にならない。
佐枝子は自分のふがいなさを改めて実感して、嫌になってしまう。気持ちが落ち込んだ時でもまず文字にしたりして、妄想も空想も葛藤も文字にすることだけが数少ない特技だったのに、何にもできなくなってしまった。
「……」
「ただいまぁ」
落ち込んで両肘をついて顔を隠すようにしてぐちゃぐちゃする頭を何とかしようとしていた佐枝子は遅れて帰ってきた夏芽の挨拶も頭に入らなかった。
普通にドアの開閉音も足音も鳴らしながらはいってきた夏芽なので、無視されたと思いむっとして夏芽は着替えないまま佐枝子の背後に近寄る。
「ちょっと、無視?」
「わっ! あ、す、すみません。おかえりなさい」
さすがにすぐ後ろから声をかけられては佐枝子も驚きながらも気が付いて振り向きながら謝った。
もうすると当然向き合うことになり、目があった。
「……」
沈んでいた気持ちが一気に浮き上がる。心臓がドキドキと早くなり、夏芽から目を離すことができない。これ以上ないくらい意識してしまっている。
そう思うけどどうしようもない。だってもう、好きになってしまっている。
「また小説書いてたの? あ、……昨日の、その、参考になった?」
「あ……いえ、すみません。その、書けなくて」
数秒見つめっただけで佐枝子は頭が真っ白になりそうだったのに、夏芽は自然に目をそらしてディスプレイを見てそう尋ねた。何だかそんなあっさりした態度にがっかりしたような、ほっとしたような気持ちで顔だけディスプレイに戻してそう謝罪する。
「ほんとだ。新規で一言しか書いてないじゃん。どうしたの?」
「いえ、あの……書けないんです。折角協力してもらったのに、すみません」
顔が見れなくてそのまま視線を落とす佐枝子に、夏芽はふーんとどうでもよさそうに相槌をうつ。その反応に驚いてしまう。あれだけのことをしてくれて、それを無下にしてしまったのに?
「そんな謝らなくても。それでいま落ち込んでたの? てか何で書けないの? 普段はあの二人見ただけでもすらすら書いてるじゃん」
「あー……あの、ですね。その……参考にしようと思い出すだけで、頭が真っ白になって、夏芽さんのことしか考えられなくなってしまって。本当に、申し訳ないです」
「そ、あ、謝らなくてもいいけど」
夏芽から言い出したとは言っても、佐枝子の方からもっとと取材の為にとお願いしたのに。なのにこの体たらくだと言うのに、夏芽は謝らなくていいと軽く、ちょっと照れたようにしつつも怒った素振りはない。何て優しいんだろう。
ますます好きになってしまいそうで、目をそらしたことでましになったはずの胸がまた苦しい。
「……じゃあさ、またすればいいんじゃない?」
「え? ……え? ど、どういう意味で言ってらっしゃいますか?」
聞こえてきた内容があまりに都合が良い内容過ぎて、佐枝子は目を見開きながら普通に振り向く。さっきより近くにあった夏芽の顔に思わず身を引くと、肘が机にあたった。そんな佐枝子に夏芽は軽く笑う。
「めっちゃ敬語で言うじゃん。どういう意味もなにも、このままで書けないなら、キス損じゃん」
「で、でもですよ、もっとしてもそれだけ損をするのでは?」
いやそもそもキス損とは? と思いつつも何故か前向きな姿勢を見せる夏芽に佐枝子はそう反論する。反論したけど、もう一度できるのかもしれないと言う期待がむくむく沸いてきているのは自分でもわかっていて、語尾は弱くなってしまっている。
「あのさ、頭真っ白になるのはなれてないからって言うか、そう言うことじゃない? 何回もしてなれたら冷静になれるんじゃない? って思うんだけど、作者的にはどうなの? 実体験をもとに書くこともあるんでしょ?」
「まあ、それはそうですけど。でも……」
妄想を基本に書いているとはいっても、どうしてもこれまでの経験を元にしている部分もある。例えば人の癖とか自分や知り合いのを参考にしたり、他にも無意識に参照していることだってきっとたくさんあるだろう。
だけど、何回もしてなれたらって。どうして夏芽はそんな簡単に言えるのだ。
「でもなに?」
「その……」
おかしいじゃないか。佐枝子の小説を読んで褒めてくれたこともあったけど、すごく熱心に大絶賛と言うほどでもなかった。普通に続きかけたら見せてねくらいで、そもそも小説自体普段読まないではないか。なのにどうして急にそんな、協力と言うか、そもそもその身を犠牲にするような、おかしい。
何もかもがおかしい。なのに。そう思うのに。
夏芽が真っ赤になっているから。まるで軽い調子と似合わない真剣な、告白でもしているみたいな乙女チックな可愛らしい顔をしているから。室内はクーラーを聞かせているのに、追加で汗もながしていて、すごく本気を感じるから。
そして何より、自分がしたいから。何も、拒否する言葉がでてこない。
「ほ……ほんとに、いいんですか?」
「……目、つぶりなよ」
目を閉じた。そして唇におとずれる感覚を、疑うことなく夏芽の唇だと思えた。
気持ちよくて、もっと。もっと。してほしい。
「……ん」
唇は一度離れたけど、黙って目を閉じたままでいるとまたキスをしてくれた。体が熱くて震える佐枝子に、夏芽は肩を抱くように手を回してより強く唇を押し当てた。
心臓が爆発しているみたいにうるさい。体中で脈打っているみたいだ。唇とつかまれている肩にばかり感覚が集中していて、他の感覚がなくなってしまったようにすら感じられた。
「……んふ」
このまま時が止まって、唇がくっついたまま溶けていきそう。なんてうっとりと、何にも考えられずにただその気持ちよさを味わい身を任せていた。
そんな佐枝子に夏芽が吐息のようにわずかな声をもらし、少しだけ音に意識が言った瞬間、夏芽が唇をかすかに上下するように動かした。
「んっ」
「んん!?」
キスが終わるのだろうか、といまだぼんやりした頭で悲しみが湧き上がった瞬間、熱いぬめった何かが佐枝子の唇をなぞった。
その感触のすごさに、思わず佐枝子は目を見開いて肩を震わせた。その反応に夏芽は唇を離し、至近距離のままで視界に入る目元だけで妖艶に微笑んで見せた。
「い、い、今、今、あの」
夏芽の魅力的な瞳に心奪われそうになりながら、いや、もう奪われつつも何とか、今の自分に起こった状態を確認しようと口を開くけど、全く言葉にならない。
「気持ちよかった?」
「っ……!」
口をぱくぱくした魚みたいに間抜けな佐枝子を無視した夏芽の問いかけに、佐枝子は馬鹿みたいにこくこくと頷くことしかできない。
「そ。じゃあ、もっと、するね」
こんなの、話が全然違う。だって、今のは絶対舌だった。まだ全然、唇をあわせるのにだってなれてなくて頭ぽわぽわになってしまうのに、さらにそんなことされて、もう何にも考えられない。
なれるはずない。こんなんじゃ、もう一生、文字になんてできない。
だけどそんなの、どうでもいい! もっと、もっと気持ちよくなりたい。夏芽が好き。好き。大好き。夏芽と一緒に、気持ちよくなりたい。
その感情だけに支配された佐枝子はただ黙って目を閉じて、ほんの少し唇を開いた。
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