寒い日のアイスコーヒー

拓郎

第1話

「イマ歩きたかった道を歩いてる」


「いつからそうしたかったの?」


「金がとんでもなく無かった頃から」


「じゃあお金で買えない道を歩いてるのね。よかったじゃない」


彼女とはそんなやりとりをしてばかりだった。


最後に会ったのは、もう二年前の夏だ。

細かいことは覚えていないが、アイスコーヒーのおいしさだけは鮮明に覚えている。


深いわけもないが、なんだか疎遠だった。久しぶりに会うことになったのは、進退の報告を兼ねてだった。


僕はバンドを解散した。毎日のように次はどうやって生きて行こうかとぼんやりしていた。


彼女に会うときはいつも同じ喫茶店だった。今回もだ。


新宿の外れにあるその店は何も変わっていなかった。


小さな店構えは当然、店主どころかウェイターも同じだった。もはや客までもが二年前と同じに見えた。まるで二年前から時間が止まっているみたいだった。


奥の席に彼女は座っていた。いつも入り口から一番遠い席だった。


彼女も何も変わっていなかった。髪の長さは二年前から一センチも伸びていないみたいで、僕はいよいよ本当に時間が止まっているんじゃないかと心配になり、つい日付けを確めた。


その日、東京は記録的な寒波に襲われていた。2018年の年明けはやけに寒かったけど、その日の寒さは異様だった。


ありがたいことに店内は、北欧の家庭みたいに暖かい。


ガスストーブの音がチリチリ聞こえてくる。僕たちはアイスコーヒーを頼んだ。


ウェイターが思わず注文を聞き返した。「正気か?」と言わんばかりだった。

大げさな表情は僕たちをますます外国にいる気にさせた。


その日僕は「二年前と同じ店で同じ飲み物を交わそう」と伝えていた。もしかしたらそんなことで、2016年の続きから話せるんじゃないかと思っていた。


人間関係は時間が経つと錆びたギアみたいになる。何もしなければ回らなくなるし、動力として無価値になる。


アイスコーヒーなんかで、もちろん時空は曲がらない。だけど曲げようとするだけでいい。それだけであの日の気持ちは蘇るんじゃないだろうか。


「道の調子は?」


「道は途絶えた」


「生きて帰ってきてくれて嬉しい」


「ありがとう。哀しくはないけどやはり寂しい」


「なんだか感情の中で一番透き通ってそうね」


「透き通るほど疲れた」


「命懸けだったのね」


「全部賭けた。万馬券にばかり」


「券はちゃんと売り場で買ったの?」


「たぶんノミ屋」


「じゃあ一割返ってくるのね」


「おかげで命までとられてない」


「また生きて帰ってこれるといいわね」


「また出かけられるか分からんけど」


「男の子たちは出かけないとね」


「男の子みんなが、男になれるわけじゃないらしい」


「でもなりたいんでしょう?」


「たぶん。どうしても」


「怖さは?」


「ひどい」


「怖がってるより怖い道に進んでいる方が、安全なんじゃない?」


「怖い道を歩く身にもなれよ」


「帰る場所さえ失わなければ、きっと危険なんて無いでしょう」


「それも分かる」


もう西日が差し込んでいた。


立てかけられたメニューを見た。コーヒーの値段は450円だった。たまたま二人ともピッタリ持っていた。


一枚ずつ小銭を取り出す。


銀色の硬貨がテーブルで、ちゃりんちゃりん歌った。


アイスコーヒーはすっかり空で、細かく砕かれた氷がうっすらと紫色を帯びていた。


立ち上がると、椅子がギシッと音を立てる。一瞬ガスストーブの音をかき消した。


二年前と変わらないトーンで店主が口を開いた。


「ありがとうございました」


「ごちそうさまでした」


小銭だらけの900円はレジスターに吸い込まれ、僕たちは店を出た。


「また今度」


「気を付けて」


雪つぶてが空から降ってきた。二人ともほとんど同時にビニール傘を開いた。僕は彼女とは二度と会えなくなる気がした。


しかしそんな予感もあてにならない。


あの冬の日からずいぶん時間が経った気がしたけど、カレンダー上はまだ半年ほどしか過ぎていなかった。そんなに長い半年だったのだろうか。とにかく半年が経っていた。


仕事を辞めて、新しい仕事を作って、いろんなひとたちがいなくなった。それなのに変わらずに残り続けているものもある。そんな半年だった。


その日はどんよりとした天気だった。高層ビルが天空のねずみ色を貫いていた。

午後になり、僕はふらっとあの喫茶店を訪れた。


店内は、あれから時間が止まっているみたいだった。さすがにガスストーブは無い。だけど変わらないマスターに変わらないバイト。そして何よりも、入り口から一番遠い席に彼女が座って、文庫本を広げていた。


その不思議なシチュエーションがあまりにあざやかすぎて、僕はすんなりと彼女に話しかけた。


「久しぶり」


「すごい、偶然」


目を少しだけ見開いて、彼女はためらいなく本を閉じた。驚いているわりに、まるで僕が来ることが分かっていたようなスムーズな動作だった。


待ち合わせしてたみたいに、僕たちはテーブルを挟んだ。


「ここにはあれから来てた?」


「来てないわ」


「不思議だ」


「不思議ね」


「ご注文は?」


中身の無い会話をぶったぎって、ウェイターが話しかけてきた。


僕はアイスコーヒーを頼んだ。

季節にマッチしたオーダーは、かすかに自分を社会に順応させた気にしてくれた。


しばらく僕たちは無言になった。二人そろって窓の外を見ていた。


サラリーマンがイヤホンマイクで宙空に向かって喋っている。中国人もゾロゾロと行進している。午後二時前の新宿は人間だらけだった。


「ねぇ、道はどうだった?」


彼女が窓に向かって声を放った。

低くも高くもない声は、ガラスに反射して僕の鼓膜を揺らした。


僕は窓を見ながら、慎重に口を開いた。


「ずっと、東京にいた」


「どこにも行かずに?」


「うん」と僕は言った。


「辞めてから二ヶ月、なんだかようやく辞められた気がした」


「ずいぶん時間がかかったのね」


「自分でも気付かなかった。けど、最近ようやく」


店のキッチンがからんと鳴って、アイスコーヒーがやってきた。

僕はストローの袋を開けてストローを差し込んだ。

ストローは氷をかきわけて底に到達した。


「ここしばらく、本当にいろんなことが起きた」


「しばらくって?」


また慎重になった。言葉を間違えたくなかったから。今日だけは、なるべく正確でいたかった。


「十五年か十年か七年か、それとも二ヶ月なのかは俺にもわからないけど、ここしばらく」


話しながら、僕はストローの袋をくるくると巻いた。歌いながらギターを弾くみたいに、話しながら巻いた。


「でも」


「うん」


「いろんなことが起こりすぎて、起こったことが起きたんだ、って分かってしまって、自分には少し休息も必要だったんだと思う」


「すごい日本語ね」


「まだ込み入りすぎてて」


僕も彼女も口を閉じて、また窓の外に目をやる。

ここに来たときよりも、空は厚く曇ってしまっていた。そこから雲の裾とも思える柔かい雨が降り出した。



僕はむかし彼女が言っていた言葉を思い出した。


「新しい季節は、いつだって雨が連れてくるんだっけ?」


誰も気付かないぐらいの分量で彼女は笑って、口を開いた。


「それより、十五年前やこの二ヶ月にいったい何が起こったのかしら」


「たぶん、これは最大公約数的なものの言い方だけど」


そこまで言って、アイスコーヒーを口にした。自分でも歯切れが悪いのが分かった。


「きっと、出会ったひとたちに出会ったことで、俺の人生はすっかり変わってしまったんだと思う」


「どういうふうに?」


僕はまたアイスコーヒーを飲んだ。考えこんでから、「難しいんだけど」と続けた。


「自分自身と向き合ったり、打ちのめされたりした。チャレンジしないといけなかったり、恥をかかないといけなかったりもした。そういうものが埋まっている地雷原で、暮らさないといけない国に亡命したみたいに生きることになった」


「誰もがそうではなくて?」


「他人のことは分からないけど」


「そうね」


「おそらくの話だけど、ちゃんと確信したんだと思う、あくまで俺自身は」


彼女は間髪入れずにカウンターを打った。


「『もっと直面しないでもいい人生もあったのかしら』って?」


驚いた。


心の中をこれだけ正確に当てられたことにだろうか、もやもやしていたことを言葉にしてもらえたことにだろうか。


「でもね」と彼女は続けた。


「起きる前は恥をかかないように、どうせできない理由をたくさん並べていたんでしょう?」


「いや。でも…たぶん、普通、そうだ」


「それで何か失ったの?」


僕は数秒考えて口を開いた。


「結局麻薬も使わなかったし、殺しもしていない」


「よかったじゃない」


そう言って彼女は笑った。今度は湖にさざ波が広がっていくみたいな笑顔だった。


僕にもその波紋はしっかりと視えた。少し楽しくなった。声は勝手に明るくなった。


「今は歩きたかった道を歩いてる。きっと」


「お金がずっと無かった頃からなんでしょ?」


「お金が少し入ってからも、きっと。あんまり変わらない。本当はこうしたかったんだと思う。でも気が抜いたら違う場所に行ってしまう気がして怖い。まだ岐路にいる」


「お金で買えない道は続いてたんじゃない?」


「そうだと嬉しい。まだ途絶えていない、と思う」


また二人ですっかり濡れた窓を見る。

空は降ったり止んだりを繰り返す、貧乏くさい雨の降らせ方をしていた。道が泥とゴミで汚れていく。


ひとが勢いよく通るたびに、バシャバシャ音を立てて道は黒くなる。

だけどそれを見ていると、何故か心が落ち着いてきた。


目をやりながら言葉が浮かんだ。


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「綺麗なシャツは、絶対ねずみ色になるしなぁ」


「うまいこと言うわね」


「傷付いた、なんて芸が無いから」


「清潔なものは長持ちしないしね」


「だからこそ大急ぎで抱きしめてきたのかも」


「そうかもね」と言った後に、彼女は続けた。


「咲かせたい花を咲かせたかっただけ、なんでしょう?」


「そう思う、前よりずっと」


僕たちはよく分からないまま、傷つきながら生きていく。

ロマンチックでも、運命的でもないまま傷ついていく。


傷も痛みも簡単に消えない。でも消えてしまう傷や乗り越えられる痛みなんて、そもそも心の傷なんて言わない。


生まれた日は全員無傷だった。人間は完璧かつ清潔に生まれてくる。だけどちゃんとダメージは溜まり、ちゃんとビンテージになる。


汚泥に道がどんどん汚くなっていく。雨はますます激しくなる。窓の外はすっかり見えない。


「次はいつ会えるのかなぁ」


水滴で塞がった窓に、僕の声は跳ね返らなかった。

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