「わたし」という存在

水は塩分調整してろ過して雑菌除去ですよ

「とりあえず目先の問題を考えましょう」


 わんわん泣いていた香魚は、しばらくすると泣き止んでから指を立てた。


「目先の問題? そんなの……いろいろありすぎてどうしたものかってレベルなんだけど」


 いきなり世界が水没した。そんなのどこの偉い人でもどうしていいかわからない事である。湖を飲み干す泥棒でも、ここまでくると笑うしかないだろう。


 でも差し当たっての問題は、


「とりあえず衣食住ね。食料はしばらく何とかなりそうだけど」


 私は香魚が潜って取ってきてくれた大量の缶詰を見ていった。二人で分けてもかなりの量だ。


「そうでもありません。食に関しては飲料水の問題があります」


 水が人体に必要なことは、言われるまでもない。体温調節を始め、体内の臓器や血液などにも影響する。


 水自体は見える範囲で沢山あるんだけど……。


「やっぱり、ここにある直接水を飲むのはダメ?」

「ダメです。塩分濃度は海水ほど高くないですけど、これは人体が飲むのには適しません」


 水を掌ですくって、流しながら香魚は言う。


 海水が飲めないのは、塩分濃度が高いから。体内の液体より塩分濃度が高く、細胞に影響がでる。なので薄めるために大量のおしっ……水分を体内から排出しないといけない。なので余計に水分が不足するとかなんとか。スマホがあれば詳しく理由もわかるんだろうけど。


「それに水中にはいろんな菌やら原生生物が混じってますよ。飲んだらお腹壊します」

「原生生物?」

「アメーバとかミドリムシとかそんなちっちゃい単細胞生物です」


 両手の指をうねうねと唸らせて、香魚は説明してくれる。あの手はアメーバの動きなのかな? どうあれ、普通には飲めないのはわかったわ。


「要するにちゃんと飲めるようにしないといけないのね」

「はい。自然の水はそのまま飲めません。水は塩分調整してろ過して雑菌除去。サバイバルの基本です」


 覚悟はしていたけど、そうしないとお腹壊して死んでしまう。漠然とした知識しかない私がどうにかできるのだろうか? そう不安に駆られていると、


「でも大丈夫! 香織お姉さまにはこの香魚がいます! 頼れるあなたの妹、香魚がいます!」


 と、胸を叩いてどや顔する香魚がいた。一人称も香魚になってる。不安になる私を元気づけようとしているのだ。そう思うと可愛く見えるし、同時に頼れる感もある。


「そうね、頼らせてもらうわ」

「はい。そんなわけで――」


 頷く私を前に、両手を広げて唇を突き出す香魚。……えーと?


「ちょっぷ」

「あん。なにするんですか」


 そのおでこに軽く手刀を叩き込む。のけぞって叩かれたところを押さえる香魚。


「なにするのはこっちの話よ。飲み水の話してたのに、なんでいきなりわけわかんないポーズをするのよ」

「えええ!? 分かりやすいポーズじゃないですか。ハグしてキスしてって言ってるんですよ」

「いや、わかりやすいっていうかそれはわかるんだけど」


 うん。全身全霊でキスしてってポーズだった。それ以外考えられないポーズだった。


「貴方が私のDNA欲しがるのはわかるけど、話の流れ的にそこでそうなるのはおかしくない?」

「違いますよ。水の話です。確かに香織お姉さまのDNA欲しいですけど。許可さえいただければ口だけじゃなく、いろんなところから――ああん」


 私の下半身に視線を向けてちょっと怖いことを言う香魚。その部分のDNAって、よね。その、本格的に子供を作るための細胞、とか? その、そこから、ってことは、ええい、もう一発ちょっぷ! もう一回! もう一回!


「きゃん、きゃん、きゃん。香織お姉さまバイオレンスです!」

「つまんないこと言うからよ! だから水の話なんでしょ! なんでキスする流れになるのよ!」

「ですから水は塩分調整してろ過して雑菌除去ですよ」


 唇を指さす香魚。何を言いたいのかわからないけど、水の話をしたいのはわかる。なんで話の整理も含めて、尋ね返した。


「そうね。私が水を飲むにはそうしないといけないわよね。で、それとこれとどういう関係があるの?」

「口移しで香織お姉さまが飲める水を提供できるんですよ」


 はい?


「香魚が皮膚及び口腔から取り入れた水分を私の体内で塩分調整してろ過します。それを口からお姉さまに渡すことができるんです」

「そんなことができるの!?」

「あらゆる環境に適応するのがAdaptableアダプタブル Unitユニットです。人間と魚の融合で細胞浸透圧に差が生まれて、腎臓の機能がそれに合わせて変化したようです」

「……それって大丈夫なの?」


 よくわからないけど、いろいろごちゃごちゃになったんで内臓もいろいろ変わったっていうふうに聞こえる。医学とか生物学とかわからないけど、素人知識でも大丈夫とは思えない。


「一日三回ほど先ほどのDNA提供をいただければ大丈夫です。もちろんそれ以上でもいいですよ。香織お姉さまの舌、すごく温かくて気持ちいいですから……」

「一日三回ね。朝昼晩ぐらいでいい?」


 頬に手を当ててしなを作る香魚。そのポーズを思いっきり無視する私。その、舌と言われるとさっきのキスをおもいだしてしまう。どろどろぐちゃぐちゃな、あの感触。あのままだとどうにかなっちゃいそうな甘い感覚。それを忘れるように、努めて冷静に言葉を返した。


「ああん、香織お姉さまクール!? そうですね。頻度的にはそのあたりで。

 話を飲水に戻しますけど、香魚は体内で人体が飲料可能な水を生成できます。それを口移しで香織お姉さまに提供できるんです。口移しで」


 口移し、を強調する香魚。ご丁寧に唇をつんつん自分で突っついて。キスしたいアピール全開。


「水を別の器に移して――」

「駄目ですよ。器に変な菌がついてたらどうするんですか。病気になるかもしれませんよ。生活水ならともかく、飲料水は妥協しちゃいけません。可能なら一度煮沸消毒したいぐらいです」


 私の反論を予想していたのか、口を開いた瞬間に言い放つ。確かにこの状況でお腹を壊したら、大変だ。医者も薬も病院もない。そのまま衰弱死することだってあり得る。


「合理的に考えればこれが最適なんですよ。香魚は香織お姉さまのDNAを会得できる。香織お姉さまは飲料水が飲める。お互いにとってウィンウィンじゃないですか!」

「私はむしろ水を人質にとられた気分なんだけど」

「そんなつもりはないんです。香魚はただお姉さまにきれいな水を与えたいだけなんです……ごめんなさい」


 私の言葉に、しゅんとする香魚。私を脅迫した形になったことを心の底から悔やんでいるようだ。ちょっと言いすぎたかもしれない。


「分かってるわよ、貴方にそんなつもりはない事は……うん、そうよね。お互いの為なのは間違いないわよね」


 言われてみれば確かに合理的だ。お互いが必要なことを、お互いで補い合う。世界が訳の分からないことになったのだから、助け合う。それだけだ。


 それがキスと言うのが、不安なだけで……。


「考えてみたら、たかがキス。女の子同士だからノーカン。生きるためだからノーカン。よし、気合入れろ、私!」

「そこまで邪険にならなくてもいいじゃないですか。ちょっとショックです」

「あの舌の動きとか、いろいろ怖いのよ!」


 気合の言葉をあげる私に不満げな声をあげる香魚。うねるように入ってくる舌の動きを思い出して、思わず身震いする。


「口腔内を刺激すると程よく唾液が出るんです。仕方ないんですよー」

「それはわかるけど……その」

「えへへ。じゃあ怖くないようにしますね」


 言って両手を広げる香魚。優しく微笑んで、少し頬を赤らめて。


 これもお互いのため、お互いのため。そう心で呟いて、香魚に近づく。


 ……私も顔が赤くなってる気がするけど、これは口論したからだ。ドキドキなんかしてないんだからっ。

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