貴女は、私に名前を与えてくれました【Mermaid Side】

Adaptableアダプタブル Unitユニット


 DNAからの遺伝情報を元に身体を変化させ、環境に順応する存在。体内の細胞は神経系など除けば遅くとも半年もあれば入れ替わると言われています。新陳代謝能力を向上させ、その際に新しい遺伝情報を元に細胞を入れ替えようというのが元の案だとか。


 当初は医療用の試みだったと言われています。老いた細胞を入れ替え、身体を長く持たせようという案。肌や骨を入れ替え、いつまでも若さを保つのが最終目的でした。


 しかしその案はいつしか軍事転用されました。そして取り入れるDNAも人間だけではなく、他動植物のDNAも取り入れられるようになります。


 軍事、とはいえ直接戦うことはありません。どこまで肉体能力を高めても、戦闘面という意味では銃器には勝てません。どこまで野生を磨いても、訓練された兵士の制圧力には及びません。


 Adaptableアダプタブル Unitユニットが主に活躍するのは、その前。情報戦においてです。相手の懐に潜り込み、重要な情報を入手する。できるだけ迅速に、できるだけ正確に。


 水没前の世界において人間は地上の覇者と言えました。しかしそれは最強の生物と言うわけではありません。人間よりも強い生物はいるし、人間よりも優れた能力を持つ動物はいます。


 例えば犬。人間に忠実なイメージこそありますが、野犬の被害はかつて相当なものでした。そして警察犬や麻薬捜査犬と言った形で、その嗅覚に頼ることも多いです。そう言った特性を知って警戒及び利用することが、人類の強みです。


 軍事においてAdaptableアダプタブル Unitユニットは諜報に使用されました。夜目が効く猫の瞳。嗅覚の高い犬の鼻。赤外線を見れる蛇。その他、状況に応じてDNAを取り込み環境に適して目的を果たすのです。


 特に重宝したのは、人間のDNA情報。顔を真似れば多くの兵士を誤魔化すことができ、網膜認証や指紋認証などもスルー出来ます。軍上層部のDNAを手に入れることができれば、情報かく乱も容易です。


 だからこそ、この案は秘匿されました。徹底した情報規制。徹底した隔離状態。関わる人間は少なく、研究施設も人が近づかない場所を選ばれた。そして入念な試験が繰り返されます。


 そうして生まれた『Adaptableアダプタブル Unitユニット』にも、徹底した教育がなさました。それは生命倫理を不要とする鉄のように冷たい兵士の心を持つ――こともありますが、最重要視されたのは、


「はい、笑顔。笑いは相手のガードを解くのに最適な一歩です」


 諜報活動、特に交渉術です。『Adaptableアダプタブル Unitユニット』の目的を考えれば、最も重要な事。油断させて、一刺しする。場の空気を読み、周囲に溶け込む。刃を隠す鞘ことこそが、武器なのです。その鞘の名前は、笑顔。


 笑え。笑顔を作れ。笑顔を見せて相手を油断させろ。


 作り笑顔。顔全体を同時に笑みの形に変え、友好的であることをアピールしろ。そうすればガードは緩くなる。それを足掛かりに目的を果たせ。そう徹底されました。


 他にもAdaptableアダプタブル Unitユニットは様々な知識を覚えさせられました。様々な文化を知り、知識を得て、周囲にうまく溶け込む。その際に最重要視されるのは、個性を消すことでした。


「お前たちはなんにでもなれる。男にも、女にも。若者にも、老人にも。様々な業種に、様々な人種になれる。完璧になれる。

 そのためには、個性などいらない。名前などいらない。それはお前たちには不要なものだ。個性や名前があれば、偽装がばれる足掛かりになる」


 仕草や喋り方。そこから偽装がばれることもあります。故に個性を消せ。名前を消せ。お前たちは『Adaptable順応する Unitまとまり』。それ以外の何物もない。それ以外の何もいらない。


 そうして『Adaptableアダプタブル Unitユニット』は完成します。なんでもなれる、何者でもない存在が。名前のない変幻自在の存在が世に解き放たれ――そんな事とは関係なく、世界を飲み込む大洪水が起きました。


 大量の水に含まれる海産物のDNA。これを取り込むことで私は魚介類の身体機能と心肺を得ました。だがそれも一時の難を逃れただけ。取り込みすぎたDNAを処理できない。このままでは上半身も魚になります。脳自体は変化しないが、頭蓋骨が泳ぎに適した流線型になれば脳を圧迫してしまいます。


 怖い、と言う感覚を初めて知りました。


 自分が制御できなくなる感覚。そこで初めて『自分』と言う個性を知った。名前もなく、個性もなく、だけど消えてしまう。自分が何者かもわからないのにわけのわからないものになってしまう。


「タス、ケテ……」


 だから、叫んだ。圧迫される脳の痛みの中、体中が変容する怖さの中、何かに縋るように手を伸ばした。手は空を切り、そのまま落ちそうだった。このまま、バケモノになる自分の人間としての最後の行動。初めて芽生えた自我の、最後の行動。DNAの暴走により費えるだろう最後の抵抗。


 その手は、掴まれました。


 それは小さく、弱い手でした。ただの人間の、か細い手。力を籠めれば折れそうなぐらいに頼りない手。引っ張る力も、全然強くない。


 ああ、なのに。いいえ、だからこそ――


 その行為が大きく見えました。強く見えました。すべてを任せてもいいぐらいに逞しく、頼れることができました。とても力強く思えました。


 こんな状況の中、こんな姿の私を恐れることなく、自分の意志で私を助けてくれた。バケモノになりそうな、断末魔ですらないか細い悲鳴に手を指し伸ばしてくれた。


「お姉さま」


 知識としてある姉。同じDNA情報を持つ頼れる年上の存在。


 私は何もない空っぽの存在だけど、そう呼ぶことで何かが生まれた気がしました。貴方に縋ることで、貴方の妹を名乗ることで、私は私になれそうな気がしました。


 それが儚い幻想だとしても、それでもいい。馬鹿にされてもいい。無視されてもいい。なんなら見捨ててくれてもいい。私にできることは、何でもします。貴方の為に笑って、心配して、お世話して、それしかできないのですから。


 あの時伸ばされた手。壊れそうな自分を助けてくれたこと。それだけで、十分です。十分でした。それだけで、幸せだったのに――


「香魚」


 貴女は、私に名前を与えてくれました。


「香と魚で香魚。私の名前と、アンタの今の見た目を合わせたわ。それで香魚」


 あゆ。


 私には何もなかった。何もないことを強要された。何者にも慣れる、何者でもない存在。『Adaptableアダプタブル Unitユニット』という名称以外に与えられた、私を示す言葉。


「あ……あ、ゆ」


 噛みしめる。一文字一文字。


 何もなかった自分に、刻むように。


 あゆ。あゆ。あゆ。香織お姉さまと、私の下半身。香魚。その意味を、その言葉を、大事に大事に心に刻み込む。


 他の人からすればただの言葉で、あって当然のことで、価値のない二文字なのでしょう。


 だけど私にとって、これほどうれしいものはありませんでした。


「ゆ、あ……あ、ゆ……あ、あああああああああああああん!」


 生まれて初めて、泣きました。演技じゃなく、心の底から感情があふれて。


 香魚と言う、私の産声。香魚と言う、私の喜びの声。


 ありがとう。ありがとう。私を私にしてくれて。


「これからもよろしくね。香魚」


 気が付くと、笑っていました。涙を流しながら、笑っていました。


 はい、香織お姉さま。これからも、お願いしますね。

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