凍愛
九戸政景
凍愛
「はあ……今日も寒いなぁ」
雲一つ無い青い空が頭上に広がり、道に雪が積もる中を歩きながら青いダウン姿の少年がポツリと呟いていると、その横を歩く桃色のダウン姿の少女がクスリと笑う。
「それはそうでしょ。今は冬なんだから寒いのは当然だよ」
「そうだけど、もう少し過ごしやすい気温になってくれないかなぁ……」
「そうなったら良いんだけどね」
少年の言葉に少女が微笑みながら答え、軽く周囲を見回していると、枝から幾つもの氷柱が垂れ下がり根元が凍りついた雪で覆われた樹が目に入り、その光景に少女はどこか哀しそうな表情を浮かべる。
「……今日も鳥がいないなぁ。やっぱり鳥も暖かいところを求めてどこかに行ってるのかな?」
「そうなんじゃない? 僕達だって暖かいところは探してるし」
「そっか……最近、外で鳥を見なくなってきたから、少し寂しいなぁ」
「家に帰ったらインコがいるんだし、それで良い事にしたら?」
「そうしたいけど、このところ寝てばっかりだからなぁ……でも、寒い日は暖かいところにこもりたい気持ちはわかるし、タイミングが合うのを待つ事にしよっと」
「うん、それが良いと思う。無理に起こすのも可哀想だからね」
「だね。あーあ……早くタイミングが合わないかなぁ……」
少女が青空を見上げながら言う中、少年はそんは少女の様子を見てクスクスと笑う。そして、少年が同じように空を見上げていると、少女は空を見上げたまま静かに微笑んだ。
「それにしても……今日が最後の月曜日なんだね」
「最後の月曜日……ああ、たしかにそうだね。それで、明日が最後の火曜日って事になるね」
「うん。あ、そうだ……ねえ、明日からも会った時に同じ話をしない?」
「明日の場合、今日が最後の火曜日だねって?」
「そう。ただ会って話すだけよりそうやってカウントダウンみたいにしてみたら楽しそうじゃない?」
「カウントダウン……うん、たしかに楽しそう。それに、前にこの曜日にはこんな事があったよねみたいな話も出来るし、話も膨らみそうだよね」
「でしょ? それじゃあ早速お互いの月曜日の思い出について話そっか」
「うん」
少年が頷いた後、二人はこれまでの月曜日にあった事を話し始める。学校が始まる曜日だから朝起きるのが少し憂鬱だった事や週末にあった事を学校で友達と話をした事など様々な事を話す度に二人は楽しそうに笑い、静まり返った町内とは反対に二人が通る道は楽しそうな声や笑い声でとても賑やかだった。
そして、その内に一軒の家の前に着くと、少年は少し残念そうな様子を見せた。
「……家に着いちゃったし、今日はこれでバイバイだね」
「うん。でも、家は隣だし、明日も会えるんだから、それを楽しみにしててよ」
「……うん、わかった。それじゃあ、またね」
「うん、またね」
少女が手を振り、そのまま歩き去っていくと、少年は少し哀しそうな表情を浮かべてからダウンの袖に手を入れる。そして、袖越しにドアノブを掴んで捻ると、ヒンヤリとした空気を感じながら家の中へと入っていった。
翌日、少年は同じ青いダウン姿で玄関で靴を履くと、暗くヒンヤリとした家の中を振り向く。
「それじゃあ、行ってきます」
少年が家の中へ向けて声を掛けたが、それに対しての返事は無く、少年はそれがわかっていたかのように息をつくと、そのままダウンの袖を使ってドアノブを掴み、ゆっくりとドアを押し開けた。
すると、玄関先には昨日と同じ桃色のダウン姿の少女の姿があり、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう。今日は最後の火曜日だね」
「うん、おはよう。さあ、今日は火曜日の思い出を話しながら色々なところを見に行こうよ」
「そうだね。そういえば、インコは起きてた?」
「ううん、やっぱり寝てた。でも、今日帰ったら起きてるかもしれないし、そうなってるように祈っておくよ」
「そっか。それじゃあ行こっか」
「うん」
少女が頷きながら答えた後、少年は手を繋いで歩くために少女に手を伸ばした。けれど、少女は伸ばされた手を見て哀しそうな表情を浮かべた後、静かに首を横に振る。
「……残念だけど、こっちではもう繋げられないよ」
「……そっか。それじゃあ今日は反対側の手と繋ごっか。手を繋いで歩かないと雪道で滑った時に大変だからね」
「……うん、そうだね」
哀しそうな表情を浮かべる少女に対して少年は優しく笑い、繋ごうとした手とは反対の手と自分の手を繋ぐ。そして、伝わってくる手の温もりに少年が微笑んだ後、二人はゆっくり歩き始めた。
雪を踏みしめるサクサクという音が二人の耳に聞こえる中、二人はこれまでの火曜日にあった様々な思い出を話し始めた。
そして、出発前の様子とは打って変わって少女は楽しそうに話していたが、反対に少年の表情は次第に暗くなっていくと、憂鬱そうに相槌を打つばかりになり、そんな少年の様子に少女はムッとする。
「もう……どうしたの? せっかくのお出かけなのにそんな顔をしてたら楽しくないよ?」
「……やっぱり無理だよ。そんな状態の君を見て楽しく話なんて出来ないよ……」
「……いつか来ると思ってたタイミングが来た。それだけの事だよ?」
「そうかもしれないけど……一番辛いのは君だろ? だって、もうその腕は……動かないんだから……」
出発する前から少女が一度も動かしていなかった腕を指差しながら辛そうな表情を浮かべると、少女は腕を見ながら哀しそうに微笑んだ。
「……まあ、辛くないと言ったら嘘になるかな。今朝、起きた時に腕を上げようとしたらこっちの腕が動かなくなってるのに気付いて、私も遂に『氷結症』の症状が現れたんだって思ったんだ。
昨日のお出かけの時、今日は最後の月曜日だねなんて話したけど、もしかしたら今日症状が出るのを無意識の内に感じ取ってのかもしれないね」
「…………」
「もう、そんな顔しないで。少なくとも私には今日を入れて4日も時間があるし、さっきも言ったようにいつか来るタイミングが遂に来ただけだから」
「だけど……! その4日の間に君の手足はどんどん動かなくなって最後には……!」
「……うん、この腕と同じように心臓が動かなくなって死んで、死体も腐らずに残り続ける。先に『氷結症』で亡くなったお母さん達やペットのインコ、街の人達みたいに。
今みたいにいつも一緒にいてくれた生まれた頃からの幼馴染みを置いていく事になって申し訳ないとは思うけどね」
「……そう思うなら置いていかないでよ。お母さん達にも置いていかれて、君以外に話す相手もいなくなったのに、君までいなくなったら僕はどうしたら良いんだよ!?」
大声を上げる少年の顔には悲しみと怒りの色の二つが浮かんでいたが、少女は静かに首を横に振るだけだった。
「……無理なのは君もわかってるでしょ? 『氷結症』をどうにかしようと色々な人が頑張ったけど、未知のウイルスだった『氷結症』のウイルスのワクチンは全然開発出来なくて、世界中の生き物が次々亡くなった。
でも、それはそうだよね。『氷結症』のウイルスは体内に入ったら全身に広がりながらどんどん小さくなって細胞内に入りこむから検出されづらい上に培養も難しかったらしいし、発生源だって言われてた隕石からはもうウイルスは検出されなかったらしいから」
「…………」
「そして、『氷結症』のウイルスは潜伏期間も人によって違って、私みたいに感染してから長い時間大丈夫だった人から感染した翌日に症状が出た人もいる。
だから、みんな怖がってたんだよね。いつ自分の手足が少しずつ動かなくなって心臓すらも動かなくなるのかまったくわからなかったから」
「……君はどうなのさ? 症状が出てしまった以上、君にはもう時間がないんだよ?」
震える声で少年が問い掛けると、少女は小さく息をついてから微笑む。
「……そうだね。私は不思議と怖くないかな。死んでしまえば先に向こうに行ったお母さん達とも会えるし、もう何も不安に思う事は無いから」
「……そっか」
「でも……君とお別れしないといけない事だけは本当に残念だよ。ウイルスに感染する前もその後も君とはいつも一緒にいたから、もう君とお話しする事が出来ないのは本当に残念。
お母さん達が亡くなって哀しくなっていた時に君がいつものように接してきてくれたおかげで私もいつも通り過ごせたんだから」
「……その頃にはもうウチのお母さん達が亡くなってたからね。だから、君の目を見た時、おばさん達が遂に亡くなったんだってすぐにわかったよ。お母さん達が亡くなった直後の僕と同じ目をしてたからね」
「……そんなにわかりやすかった?」
「うん。家族の死体を目の当たりにして絶望しきった目をしてたよ」
「そっか。でも、仕方ないよね。最初の頃はお葬式も普通にやってたけど、もうあの頃にはお葬式を出来る人も全然いないし、死体は腐らないから家の中で保存しておくようにって政府が決めちゃったせいでそのままになってるお母さん達の死体を通る度に見てたんだから」
「そのせいで死体は見慣れちゃうけど、やっぱり見たくは無いよね。見る度に生きていた時の事を思い出しちゃうから」
「うん。でも、今度は私もその仲間入りかぁ」
少女は少し戯けたように言ったが、目はまったく笑っておらず、それどころか強い恐怖の色に染まっていた。その姿を見た少年が静かに少女を抱きしめると、少女は動かせなくなった腕をぶらりとさせたままでもう片方の腕を少年の背中に回す。
「…………」
「……強がらないで。怖いのは仕方ないから」
「……どうしてこんな事になったんだろうね。あの隕石が落ちて来なければ、みんなは……」
「……それは僕にもわからないよ。でも、そうなるべき理由があったから、こんな事になったんだろうね。この星の生き物がみんな命を落とさないといけないだけの理由が」
「そっか……いつか、その理由がわかる時が来るのかな?」
「……たぶんね。とりあえず今日はもう帰ろう? 後、症状が出た以上、生活が大変だろうから、今日から君の家に泊まるよ。症状が出た時用のグッズはあるだろうけど、一人だと使うのが難しいと思うから」
「……うん、ありがとう。それじゃあ帰ろっか」
少年が頷いた後、二人は来た道を戻っていき、少女の家の前に着くと、鍵を開けてそのまま中へと入った。
そして、家の中で横たわる少女の家族に手を合わせて回った後、二人は家の中に準備されていたあらゆる物を手に少女の自室へと入った。
「ようこそ、私の部屋へ。ゆっくりしてい──なんてもうゆっくりどころじゃないんだけどね」
「そうだね。とりあえず、必要な物は五日分持ってきてるから、この部屋の中にこもってても大丈夫。ただ、問題は……」
「……それは我慢するしか無いんじゃない? もちろん、少し恥ずかしいけど、私は君なら大丈夫だし、症状が進んだら恥ずかしいなんて言えなくなるから」
「……うん。でも、恥ずかしい事に変わりはないから、極力見ないようにはするね。そんな事を言ってる場合じゃないだろうけど、それでもあまり見られたくは無いはずだし、見てる僕も……その……は、恥ずかしいから……」
少年が恥ずかしそうに顔を赤らめながらそっぽを向くと、その姿に少女は少し安心したように微笑む。
「……ふふ、そっか。別に気にしなくても良いけど、その気遣いは嬉しいな。ありがとう」
「どういたしまして。そういえば……その腕は寒くない? 触ると冷たいけど、腕自体は寒いとかは無いの?」
「不思議だけど無いかな。感覚としてはいつも通りで、動かそうとして力をこめてるはずなのに、まったく動かないんだ。だから、足にも症状が出た時も同じように寒くは無いけど動かないって感じになると思う」
「そっか……お母さん達や他の人達もそうだったみたいだし、やっぱり例外は無いんだね」
「だね。それにしても……私の手伝いをしてくれる事にして本当に良かったの? やっぱり大変だと思うよ?」
「大変じゃないよ。さっきも言ったように症状が出た以上は生活も大変になるし、そんな君を放っておくなんて出来ないから。という事で、今まで何かと支えてもらった分は今回しっかり返していくから」
「うん、期待してる。それじゃあ……数日間、よろしくね」
「こちらこそよろしく」
二人は相手に対して静かに頭を下げた後、相手の顔を見つめてからどちらともなく小さく笑い合った。そしてその日の夜、食事等を済ませた二人は並べて敷いた布団に寝転がり、楽しそうに話をしていたが、次第に瞼が閉じ始めると、どちらともなく小さく寝息を立て始めた。
翌朝、目を覚ました少年が静かに目を開け、ゆっくりと体を起こしていたその時、突然ハッとしながら自身の足に視線を向けた。そして、軽く足をばたつかせようとしたが、その意思に反して片方の足は動く様子を見せなかった。
「……そっか、僕もそろそろなんだね」
布団の中の足に視線を向けながら少し哀しそうに言ったが、その表情はどこか嬉しそうな物だった。それから程なくして少女が起床し、少年が自身に起きた異変について話すと、少女は驚いた様子を見せたものの、嬉しそうに微笑んだ。
「そっか、君にも遂に症状が現れたんだね」
「うん。でも、これですぐに君の後を追えるから嬉しいよ。このまま残されるのは流石に寂しかったしね」
「ふふ、そう言ってくれて嬉しいよ」
「ところで……今日はどこが動かなくなってる?」
「私も片方の足だよ。ふふっ、こう言うのも変だけどお揃いだね」
「だね。さて、最後の水曜日も頑張っていこうか」
少年の言葉に少女がクスリと笑いながら頷いた後、二人は昨日と同様に協力しながら生活を始めた。そしてその翌日、更にその翌日も二人の体は少しずつ動かなくなっていき、それによって生活は不便さを増していった。
しかし、それに対して二人は不平を言う事は無く、その翌朝、少女の体は遂に胴体を残して動かなくなっていた。
「……遂にこの時が来たね。申し訳無いけど、私は一足先に向こうに行かせてもらうよ」
「うん。因みに気分はどう?」
「具合が悪いとかは無いけど、両腕と両足が動かないのは変な感じかな。どうにか体は起こせるけど、そのままだと少し辛いし、申し訳無いけど今日はそのまま寝転がらせてもらうね」
「うん、わかった。運が良い事に僕の腕はまだ片方無事だから、最後までお世話はさせてもらうよ」
「ありがとう。でも、なんだか不思議な感じ。どこかが痛いとか苦しいとかは無いのに明日には死んでるなんてね」
「そうだろうね。でも、最後の日曜日を一緒に迎えられないのは少し寂しいな。今日まで一緒に迎えてきたからには最後の日曜日も君と一緒に迎えたかったよ」
「私も。朝起きてからおはようを言い合って、その後に今日は最後の日曜日だねって笑って、それで……」
笑みを浮かべていた少女の表情は少しずつ辛そうな物になり、それに対して少年が微笑みながら少女の頭を優しく撫で始めると、少女の目からは涙が溢れ始めた。
「……嫌だよ。やっぱり嫌だよ……私、こんな形で死にたくない……!」
「……うん、僕も同じだよ。僕も死ぬなら他の形が良かった。しっかりと成長をして誰かと結婚して子供が出来て、色々な事をして楽しんでお爺さんになってから死にたかった」
「……どうして、どうしてこんな事になったの? 私達はどうしてこんな死に方をしないといけないの……!?」
「……申し訳ないけど、それはわからないよ。でも、僕達人間は色々な生き物や環境に対して色々な事をしてきた。だから、これはその罰で、動物達はそれに巻き込まれた形なのかもね。ただ、温暖化を進行させてきた僕達に対してこの形で命を落とさせるのはなんだか不思議な気持ちだけど」
「…………」
「……ねえ、もしも『氷結症』のウイルスがこの星に来なかったら、どんな人生を送りたかった?」
「人生……」
少女が溢れた涙で目元を赤くしながら呟くように言うと、少年はコクンと頷く。
「うん。今日もこれまでの土曜日についての話をしても良かったけど、最後だからこそ訊きたいんだ。それに、今まで訊いた事が無かったからね」
「……そうだったね。でも、私も君とだいたい同じだよ。誰かと結婚して子供が出来て、家族や友達と一緒に楽しく過ごして、最後は大切な人達に見守られながら死にたかった。
有名になったり豪華な生活を過ごしたり出来なくても良い。ただ、大切な人達と一緒に過ごしていきたかった。それだけだった」
「……そっか。今までもそうだったけど、僕達って本当に気が合うんだね。そんな君に出会えて、こうして君の最期の時に傍にいられるのが僕で嬉しいよ。君にとってはどうかわからないけど」
「……ううん、私も一緒。私も今君が傍にいて、亡くなった後にはなるけど、君の最期の時に傍にいられるのは本当に嬉しい。誰かに譲ってって言われても絶対に譲らないよ」
「……うん、ありがとう。ふふっ、こんなに気が合うんだったら、将来僕達が結婚する未来もあったかもね」
「そうかもね。もし、生まれ変わりがあるなら、来世でも君と出会ってまた同じように仲良くなりたいな。もっとも、その後に恋をして結婚したり子供が出来たりするところまで行くかはわからないけどね」
「ふふ、そうだね。あ、そうだ……それじゃあ今日は来世があったらやりたい事をとことん話そうか。あるかわからない物について話しても仕方ないかもしれないけど、最後は楽しく過ごしたいからね」
「うん、私も賛成。じゃあ、早速話そっか」
「うん」
その後、二人は来世の事について話をしながら時を過ごした。その間、二人は苦労しながら食事等を済ませていたが、その表情に辛さなどはなく、幸福感などに満ちていた。
そして翌朝、目を覚ました少年は昨日まで残っていた腕を動かそうとした。しかし、症状が現れていたために腕が動く事はなく、少年は布団に寝転びながら哀しそうな表情を浮かべる。
その後、隣の布団に横たわる少女へ顔を向けると、少女はその幸せそうな顔を少年に向けており、少年は優しく微笑んでから少女に顔を近付け、その唇に自分の唇を重ねた。
「ん……ごめんね、亡くなった後に勝手にキスなんかしちゃって。本当はまだ生きてる頃にしたかったけど、君の気持ちが僕と一緒かわからなかったから出来なかったよ。
昨日話した時は、誰かと結婚してなんて言ったけど、僕が想像してたのは君との結婚だった。今になってから言っても仕方ないけど、僕は君の事を前々から好きだったんだ。来世じゃなく、今世の頃から君と結婚して幸せな毎日を過ごしたかった。君と一緒に楽しく過ごせればそれだけで良かったんだよ。
でも……君が亡くなった今となってはもうその願いは叶わない。どんなに悲しんでも悔やんでも君は帰ってこないんだ……もう、君は……!」
恋心を抱いていた相手を喪った事、そして一人だけになってしまった事で少年は悲しみの涙を流し、室内にはしばらくの間少年の嗚咽だけが響いていた。
「……ははっ、本当に懐かしいな」
「ふふ……たしかに」
天井の照明が消え、目に入る光が隣に横たわる少女を見ながら涙を流す少年の映像が流れるスクリーンのみの室内で一組の老夫婦が最前列の椅子に座りながら懐かしげにスクリーンに視線を向けていた。
そして、映像が涙を流す少年の姿を上から映した物に変わり、スクリーンの下部から様々な名前などが流れ始めると、二人は笑みを浮かべながら揃ってパチパチと拍手を鳴らした。
「うん、久しぶりに観たけれど、やっぱり観る度に懐かしい気持ちになるよ。まあ、それと同時に当時の僕の演技の拙さも気になってしまうんだけど……」
「それは私も同じだけれど、演技経験が無かった子供にしてはよく頑張った方だと今なら思えるよ。ただ、お互いの気持ちを話すシーンや亡くなった後にキスをされるシーンは何度も照れてしまってだいぶ撮り直しをさせてしまった事だけが心残りかな……」
「僕が言えた事じゃないけど、そのシーンを撮る度に顔を赤くしていたからね。それで、もう亡くなってるはずなのに、キスしようとしたら顔を背けたり後ろに引いたりしてね」
「でも、それは仕方ないでしょう? 作品上は私達しかいないけど、実際は監督やカメラマンもいたし、そんな中でした事も無いキスをするのは流石に恥ずかしいから」
「たしかにね。でも、当時はただの映画好きで近所に住む大学生だった監督が世間で有名になったりこの世に出す予定が無かった『
男性がスタッフロールが流れ続けているスクリーンを見ながら言うと、それに対して女性は懐かしそうな表情で頷く。
「うん。公園で遊んでた時にお兄さんが落ち込んでるところに偶然出会って、なんだか気になったから話を聞いてみたら次第に仲良くなったんだよね。
そして、何度も話してる内に私私達を主役にした映画を撮りたいって事になって撮ったけど、まさか演技経験がない子供が主役の映画がここまで有名になるとは思わなかった。でも、これがきっかけで私達がこうして実際に結婚して子供だけじゃなく孫も出来たわけだし、監督には感謝しないとね」
「そうだね。作品の中では恋人になる前に死に別れたけど、こうして現実で夫婦になれた。そして、作品内の僕達が遂に迎えられなかった新年も作品の中と同じように曜日の話でカウントダウンしながら迎えられる。これ以上の幸せは無いし、決して手放すつもりはないよ」
「私もだよ。若い頃も他の異性にはお互い目移りしなかったし、歳を取っていつ倒れてもおかしくなくなった今でも貴方と別れるつもりはない。その気持ちは変わらないよ」
「はは、やはり僕達は本当に気が合うようだ。願わくば共に黄泉の国へ旅立ちたいけれど、それが叶うかはわからない。でも、そうなれるように願いながら僕は君の隣に居続けるよ」
「ふふ、それならこれからもお互いに熱い愛情を注ぎ合おっか。もっとも、若い頃のようにはいかないけれど、私達の愛は
「うん、そうだね」
その言葉と同時に二人は静かに肩を寄せ合った。そして、スクリーンに『FIN』の文字が浮かび上がると同時に天井の照明が次々と点き始め、映画館内が明るくなった後も二人は肩を寄せたままで幸せそうな表情を浮かべていた。
凍愛 九戸政景 @2012712
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