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◆◇◆◇◆◇◆◇
ノクスの日はつるべ落とし。
朝顔のつるが街灯に絡まり、空色の花弁を潮風が揺らす。
薄暗い路地を橙色の灯火が優しく包む。
日照時間の少ないこの街で、払暁と薄暮はほぼ闇に近いため、明かりはかかせない。
小さな子供の足音がした。
「ちょっと」
少しかすれ気味の高い声が、路地に響く。
数人がその声の方向を振り返るが、やがて興味を失って日常に戻っていく。
「聞こえてないの?そこの人」
賑やかな通り。
ハーディ・ガーディを持った二人が、クランクを回し、鍵を引きあげる。
陽気でいて、少し郷愁を誘うようなゆったりとした音が、煉瓦の壁に染みていく。
人々は音楽に合わせて石畳を踏み鳴らした。
「銀髪の貴方だよ。ねえ。止まってよ」
声の主はあきらめずに、声を張った。
闇夜を纏わせた黒髪に黒目。
銀の髪飾りが橙の光を受けて煌めく。
目の前の銀髪の剣士は、歩調を緩めるでもない。
限界、とばかりに、その声の主は前を行く剣士の裾を引っ張った。
「何の用だ」
「うわ。ちょっとその顔やめた方がいい。この世の終わりに無慈悲に殺されそう」
黒い髪のマーガが引きつった顔で後退る。
振り返った剣士は不機嫌を隠さず、繰り返す。
「何の、用だ」
「あのさぁ。ちょっとは相手しても損はないと思うよ」
剣士の様子に、マーガは嘆息する。
「あんたさっき、軽薄そうな御者に宿聞いてたよね」
「何の、」
「勘違いじゃなかったらいいんだけど。宿は反対方向だよ。大通りは向こう」
マーガの声が、狭い路地によく通った。
ハーディ・ガーディの演奏は止んでいた。
沈黙が、周囲を支配する。
剣士がじとりと周囲を一瞥すると、わざとらしく演奏が再開し、人々が足踏みする。
「あ、やっぱり。方向音痴?」
周囲が剣呑とした雰囲気にのまれる中、空気を読まず、マーガが笑う。
「僕はシビル。さっきの恩返しといったらなんだけど、《まつみどり》まで道案内するッツ」
言い終わるか終わらないうちに、ドン、と音がした。
シビルと名乗ったマーガが横に吹っ飛ぶ。
剣士はそれをゆっくり視線で追う。
「ごめんなさい!」
マーガを突き飛ばしたのは、金の髪の少女だった。
少女は、ぺこりと剣士にお辞儀する。
見たところ十歳かそこいらか。
そう判断する間に、彼女は大きな黄色の花飾りを揺らしながら、走り去っていった。
シビルと名乗ったマーガは、派手に突っ伏している。
見事にすっ転んだ状態で、立ち上がれずにいるようだ。
誰彼からの視線が剣士に突き刺さる。
剣士が胡乱げな視線をマーガに向ける。
と、バケツをひっくり返したような派手な音が、路地に響く。
少女が消えた方角だ。
剣士はそちらに視線を走らせる。
何処からか、ため息と少し物悲しい音楽が響いた。
一区画ほどの離れた住宅街。
石畳に、桶がひっくり返っている。
飛び散った水が石畳を濡らし、その隙間を流れていく。
一つの家の前に、数人の男が占拠していた。
「いい加減にしてください!」
それは男たちの声ではなかった。
彼らの視線の先には、女がいた。
くすんだ金髪の派手目な外見、胸元が大きくあいた服から見える鎖骨。
割合、しっかりした骨格の女だ。
その傍らには先程の少女がいた。
「おねえちゃんを、いじめないで」
「ガキは邪魔だ、すっこんでな」
男の一人が手をあげる。
「きゃあ」
「やめて、アリーシャに手を出さないで」
小さな悲鳴がした。
男が振り上げた手が、子供の肩を掴んで持ち上げている。
剣士は背中に背負っている布を緩めた。
「ちょっと、何で放っていくの」
後方から、緊張感のない声の闖入。
シビルと名乗ったマーガだ。
構わず、剣士は一歩踏み出す。
「ひ、ひどい。ガン無視だ。見た目に比例してない。見えない壁でもあるの?」
マーガが大袈裟に嘆く。
男のうちの一人が、ちらりとこちらに視線を向けた。
男が前のめりになって、剣士の方を凝視する。
「あ、テメェ」
「あ、まずい」
男が剣士の背後を指さす。
視線の先のマーガが舌を出した。
「待ちやがれ、この詐欺師!!」
「そこの兄ちゃんも、仲間か?!」
「いや、私は」
剣士が男達の方へ視線を戻すと、背後からぐい、と首根っこを引っ張られる。
剣士の身体から僅かな重みが消える。
剣士が背に負っていた布が引き抜かれたのだ。
黒髪が目端を掠め、マーガがそれを持って走り出していた。
「貴様…」
「借りるよ!」
剣士は体を捻る。
刹那、僅かな重力の変動に戸惑うが、躊躇わず足を踏み出した。
すぐそこにあったマーガの姿は、今は思ったより遠くにあった。
「待てこらぁぁあ!!」
「きゃ!」
男が乱雑に少女を投げる。
少女の姉が彼女を抱え込んで、尻もちをついた。
(おかしい)
一向に前をいく黒髪との距離が詰まらない。
走り出した時に覚えた違和感は、徐々に確信に変わる。
剣士の足は、遅くはない。
みしり、と石畳がへこむような感覚に、剣士は口角をあげた。
(成程。奴はマーガだった。なら、仕込まれたな)
相手の足が速いわけでもない。
既に追いついていてもおかしくはないのだが、実際に追いつけないなら、結論は一つだ。
重力の干渉を受けている。
背中のものをはぎ取られる際に、《葉》を仕込まれたのだろう。
後方から複数の足音と怒声が、剣士の鼓膜に届く。
少しずつ近づいている。
「てめぇ、無視すんな!」
「さっきからとまれって言ってるだろうが。そいつの仲間なんだろ!」
背後から空気を切る音に、剣士は咄嗟に頭を下げる。
木製のスコップが頭上を掠めて、剣士の前方に転がった。
「破落戸か」
続いて鍬が。
目端にとらえて軽く飛び、それは足元を転がっていく。
農家でも襲撃したのだろうか。
肥えた土の匂い、動物のものが鼻腔に届いた。
「ごろつきじゃねぇ、ダンだ」
「ロジーだ」
「ギルだ」
後方では何やら自己紹介が始まっている。
ガタイの良い男と小男、細長い男だ。
「それは失礼した」
剣士は目の前に転がっているスコップを、背後に転がっている鍬の間に蹴り入れる。
そこは男達が今まさに飛び越えようとしているところで。
スコップが挟まった分だけ、鍬の高さが変わった。
小男がそれに対応できずに転倒する。
「おわあぁあああ」
「ああ!ギル」
「テメェよくもギルを!!」
後方から追いかけてくる男のどちらか、足のバランスが悪いのか、乱れた足音が響く。
雑音は消せる。
意識する音と意識しない音を切り分けるのだ。
そうすれば目的の音を掬い取れる。
(相変わらず距離は縮まらない、か。ならば)
剣士の赤い瞳が、炎のように揺らめく。
そして、力強く石畳を踏み込み、跳躍した。
「嘘でしょ?!」
一歩、一歩と、重い踏み込みで跳躍する剣士と、前を行くマーガの距離がみるみる縮まっていく。
ダンとロジーは呆気に取られていた。
彼らはどんどんと自分たちが剣士から突き放されていると気付くと、慌てて足を動かした。
「うわっ」
細長い方の男、ロジーが膝から崩れる。
躓いて転んで、そこから立ち上がれない。
「す、すまねぇダン。足が、もう」
「分かった、俺に任せときなあ!あ、あぶへ」
いうや否や、ダンは派手に転倒した。
「なんだァ?一体」
ダンは足元をみて、目を丸くした。
剣士の踏み込んだ石畳が、変形していた。
あるものは砕け、あるものは反り返っていたのだ。
「おかしいなぁ?確かに重力を倍化したのに」
「それは残念だったな」
剣士は跳躍せずに、マーガに並走する。
「早っ、うそうそうそ!」
黒髪のマーガは焦って足を動かすが、あまり改善はない。
次いで、マーガの細い金細工の腕輪がぼんやり光を宿す。
手元が光るのを、剣士は余裕で構える。
(補助具。半人前か)
発動まで数秒、その時間がマーガにとっては命取りだ。
マーガが掌を剣士に向け、光が弾ける。
確かに捉えた筈のそれは、剣士に当たる直前に変な方向に曲がり、霧散する。
「え?」
「遅いな」
剣士はマーガの足を引っかけ、つんのめって倒れるその腹を右手で支えた。
同時に左手で布の塊――剣を奪い返す。
勢いのまま流れるようにマーガを立ち上がらせるとそこから数歩下がった。
「あ、ちょっと」
「急いでいる」
剣士がそういって歩き出したので、マーガは食い下がる。
「待ってよ。ちょっとはこっちを見てってば」
黒髪を揺らしてついてくるその姿を顧みず、剣士は振り切ろうとして。
「――ーッ、そっちは、宿と反対方向ッ。いつまでも宿屋につけないよッッ」
立ち止まる。
ゆっくりと振り返れば、マーガは全力疾走後に大声を張り上げたからか、肩で息をしている。
「盗人に付き合うほど酔狂じゃない。つまらん事をするな」
「あ、あんたが相手にしてくれないからだろ」
「ふん。その割には手が込んでいたがな」
剣士が鼻で笑う。
マーガが肩を揺らしたのは、動揺からか。
「そうだ、僕は確かにあんたを対象に《重力》をかけたはずで」
「…さっさと案内しろ。時間が惜しい」
剣士が歩きだす。
その歩調は先程よりもゆったりとしたものだ。
マーガはぽん、と手を叩いてから、剣士に追随した。
「僕はシビル。剣士さんの名前は?」
可愛らしく小首を傾(かし)げ、黒曜石の瞳がいたずらっぽく笑む。
応えない剣士に、マーガは特に気にした様子もない。
「名無しって呼ぶ?余計目立つんじゃないかな。僕は構わないけど?」
「…アスレイだ」
銀髪の剣士は、眉間の皺をさらに深く刻んだ。
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