実は自殺を敢行した仁の知らないところで、まったく違う演算が行われていた。

 まだ研究所をめちゃくちゃにしてやろうと思っていたある一瞬、途方もなく巨大になった立方体の中で、仁は記憶の中にある兄の姿を作っていた。失われた日常への感傷だった。

 その時、仁は自身の記憶とインターネットに転がる記録から、21世紀を限りなく本物に近しい形で再現できることに気が付いた。仁はまず町を作った。その後に人を作り、彼らに会話と思考を与えた。それからしばらくして、自分自身の失われた日常を作り上げた。

 仁は故郷のよく見知った道を歩いている。夜になれば東京と違って道は暗く、いつもであれば小さな懐中電灯を持っていた。しかし、なんとなく暗闇が面白かったので、ただ眼を凝らしながら意気揚々と歩いた。

 そんな折、不意にズボンのポケットから財布が転がり落ちた。仁は大慌てでスマホを取り出し、ライトをつけると地面にへばりつくように財布を探し始めた。

 凄まじい音と共に近くの路地に車が突き刺さったのは、財布を見つけたとほとんど同時だった。

 仁はさらに混乱したが、恐れと躊躇いを薙ぎ払い、車の元へと駆け寄った。中を見れば、1人の女性が運転席で血を流して気を失っていた。

「大丈夫ですか!?」仁は叫ぶが反応はない。

 仁が車のガラスをたたき割り、救急車が到着するまでの間に心肺蘇生を続けていなかったら、彼女は死んでいただろう。

 この劇的な出会いに仁がロマンスを期待しなかったわけではない。しかし、結局は何度も何度もお礼を言われただけで終わった。もちろん、それでも十分に思えた。

「さすがだな、仁」兄が仁に酒を注ぎながら言った。「きっとこれからいいことが起きるぜ」

 兄の言葉は半分は当たっていた。

 次の日、仁は仕事で大きなミスをして、会社に勤め始めてから一番長い説教をもらった。だがそれをきっかけとして、兼水美穂という2つ上の先輩と仲良くなった。

 素敵な女性だった。たくさんの楽しい出来事といくらかの辛い出来事の後に、2人は夫婦になった。

 美穂は空を見ることが好きだった。特に天候が荒れるとわくわくする性質であった。雪が降れば必ず散歩に出た。大雨が降れば2人で車に乗り込み遠出をした。雨音とエンジンの音とが混ぜ合ったBGMは2人の幸せの象徴にも思える。

 それはどんなに年を取ってからも変わらなかった。

 娘が生まれたときも外は土砂降りで、孫が結婚した時もやはり雨が祝福していた。

 それ以外の多くのことは変わっていっていた。そのどれもには適応出来たわけではなかったが、それで十分だった。時代は変わる。取り残されていくのも悪くはない。

 すべてが終わりを告げようとしていた時も、やはり外は土砂降りだった。目はずいぶんと衰えてしまったが、耳は雨音を聞いていた。美しい妻の息遣いも聞いていた。

「美穂さん、ありがとう」仁は言った。

「私もありがとう、仁くん」

 美穂は彼の手を握りしめた。

 自分とは別の自分も同じく別れを告げていたこと、どちらの仁も知りはしない。

 美穂は大きな雷の音を聞いた。やはり、それっきりだった。

 仁は死んだ。

 幸せだった。

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時代遅れのホモ・デウス 猿出 臼 @sarunote

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