意外にも目覚めからの3カ月間、仁は満足のいく生活ができた。食事は度々色とりどりの錠剤だけになったし、世話係の本田英二(クリークが気を使って年の近い日本人を手配してくれた)は所かまわず屁をこく男だったが、おおむね満足だった。

 面白いこともいくつか分かった。

 まず26世紀の人間は誰もが右脳に演算用と記録用のデバイスを持っていて、程度の違いこそあれども仁とは比べ物にならないほどの記憶力を有していた。

 ある時、仁が英二に今まで食べた夕食のメニューを全部言えるかと質問したら、彼はこう答えた。「弟の分だって全部言えますよ」

 英二は実際にやって見せたが1週間を過ぎたあたりで仁の方が音を上げた。それ以降、仁は毎日の夕食のメニューを覚えるように努力している。成果は大して出ていないが。

 もう1つ、仁にとって驚くべきことがあった。それは26世紀を生きる人間たちとの価値観の違いだ。

 彼らは不幸や不手際の多くを自分の責任であると考えた。自分自身以外に自分の尻を拭いてもらえることはなく、また望むべきでもないと考えていた。

 仁は彼らの思想に反感を覚えた。では、自分が21世紀から追い出される羽目になったのは、自分のせいだとでも言うのか。そう言ってやりたかった。だが研究対象としての利用価値がなくなった時、彼らが自分をどんな目で見るかを想像したために、自身の考えについては決して口に出さないことにした。

 そうしていると、案外うまく付き合えてしまうのが人間である。

「ではいいですか?」英二が屁をこいた後に言った。「くれぐれも私から離れないようにしてください」

「もちろん。けどあなたが屁をこいたときはちょっとぐらいなら離れてもいいか?」

「いいえ、むしろ尻に鼻を押し付けるくらい近づいてください」

 2人は笑いあった。仁と英二という年の近い二人は――実際には500年ほど生まれた年に違いはあるが――すでに友人と呼べるだけの関係性を築いていた。だからこそ、仁が希望した現日本国への観光でのガイドとして英二が任命されたのだ。すぐに英二は真剣な顔をして言う。「あなたが怪我でもしたら、私は明日から職を探すことになる」

 仁は英二に連れられて26世紀の日本を楽しんだ。仁はいまだに東京が首都であることに驚いた。また相変わらずの怒鳴り散らしたくなるような人だかりには愛着を持った。

「あなたの時代にもあった建物がいまもありますよ。25世紀に建て直されたものですけど」

「一体何が?」

「東京タワーです」

 正直なところ、仁には東京タワーへの思い出がなかった。彼の生きた時代であってもすでに古臭いものであると認識されていた。彼自身も数えるほどしか近くで見たことがない。

 24世紀の戦争があったせいで、この土地に新たな東京を生み出す際には、戦争を忘れるために24世紀以前の街並みを再現しようとしたらしい。そのせいで仁はこの土地にいる間中、奇妙な既視感を覚え続けていた。

 その既視感が東京タワーの目の前に立った時、ついに明確な痛みとなって仁に突き刺さった。

 よく似ているが全く違う。それがかえって仁の郷愁を煽った。

 日常に帰ることなど出来ないことを悟った。仁は涙した。英二は慌てて彼を慰めたが、彼の痛みを癒す術がないとわかると、沈黙した。

 失意のまま研究所に帰還した二日後の夜、仁は40度の熱を出して、血を吐いた。どうやら、東京で質の悪いウイルスに感染したらしい。

 21世紀に経験した時と同じように、仁の意識は闇の中へと落っこちていった。だが今度は目覚めないように祈った。

 そして、英二はクビになった。

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