第40話 そこから背中を押した者
「事件のご報告に来ていただけるのはありがたいのですが、まさか一人だけで来られるとは思いませんでした」
「あら、お坊さんはお茶も駄目でしたか?」
「別に、茶くらいは飲む。お前の入れたものを飲む気がしないだけだ」
常暁にあけすけに言われても、紀子は表情を変えなかった。
「そんなに嫌いな相手のところに、どうしてわざわざいらしたの?」
「
常暁がその単語を口にした途端、紀子の片眉だけが不自然につり上がった。
「今更とぼけてくれるなよ。この部屋に入った途端、お前の殺気を感じ取ったんだから」
「──なるほど。今まで逃げ回っていた割には、諦めがいいこと」
「逃げ続けていたら、不自由ばかり多くてかなわん」
常暁は言いながら、じっと紀子の顔を見ていた。彼女の眼窩から白目の部分が消え、全てが真っ黒に塗りつぶされていく。
「
「奴の性格にあわない」
前の事件でも、聖天は事件の黒幕にぴったりくっついて、ことの成り行きを見守っていた。実行犯の烏賀陽は、聖天の依代ではない。
「それだけの情報で、私に当たりをつけたの?」
「話を聞いていて、なんとなく──烏賀陽が最後に転がり落ちたのは、お前に会ってからのような気がしたんだ」
烏賀陽は紀子に癒やされてもいたが、同時に苛立ちも感じていたのではないだろうか。二人が手にしているものは、あまりに正反対に過ぎた。
辛うじて保っていた糸が、何かのきっかけで切れた。それが、今度の事件の発端であったような気がしてならない。
「奴の意図を読んでいたのか?」
「ええ、分かっていたわ。だって、自分より下の次元の人が考えていることなんて、すぐに分かってしまうものでしょう?」
紀子はそう言って、本当に楽しそうに笑った。
「烏賀陽のことは、どう思っていたんだ」
聞いてすぐに、常暁はこの質問をしたことを後悔した。
「嫌いだったわよ、もちろん。向こうは少し友達と思ってたかもしれないけど……私、バカは嫌いなの」
紀子はそう言って、胸の前で手を組んだ。
「頼りになる人に寄りかかって、その人に守られながら生きていく。それが最も楽な生き方だっていうのに、あかねの中には他者がいなかったわ。いつもね」
紀子は言葉を切り、苦笑する。
「だから結婚に失敗するのよ」
「ずいぶんと辛いな」
常暁は言葉少なに言い返した。
「子供や親は自分で選べないけれど、配偶者や友人は違うでしょう。そこを失敗する人は、ものを見る目がないってことよ。だからあの人、私がわざと煽ってることにも気付かなかったわ」
転がり落ちる烏賀陽と相性の良さそうな人間を会わせ、彼女が何か言いたそうでも放っておいた。全ては、そうするのが楽しかったから。とてもとても、楽しかったから。
「それをずっと、聖天様が手伝ってくださったのよ。そうでなければ、彼女が事件を起こすのにもう少し時間がかかったでしょうね」
聖天の名を口にした時だけ、紀子の頬が上気した。
「業を背負ったな」
「あなたはそれを業と呼ぶのかしら。私がしたことで、法の裁きをうけるものがいくつあると思う?」
友人がサークル内で会話するよう取りはからっただけ。
友人を家に招き、どんな生活をしているか見せただけ。
そして調子の悪い友人に、声をかけず放っておいただけ。
──いずれも刑法の対象にはならない。なるはずもない。
「ゼロだろうな」
常暁が言うと、紀子は勝ち誇ったようにうなずいた。
「そういうこと。あなたは自分の予測が正しかったことを知ったけれど、なにもできずにみじめな思いを抱えて聖天様に殺される。私はそれを、特等席でじっと見ている。それが、これから起こることよ」
紀子は高らかに笑い、見せつけるように両手を広げてみせた。常暁は動じず、彼女に向かって出された茶をぶちまける。ばしゃっ、と派手な音がして、部屋の中の空気が動いた。
「は?」
「寝言を言っているようなので気を遣ってやった。ありがたく思え」
今度は、常暁が声をたてて笑う番だった。
「法で裁ける、裁けないではない見方というものがある。それを成すのが宗教だ」
天国だって地獄だって、実際に見たことがある人間などいない。戒律が、全て法律によっているわけもない。
しかしそれでも、確かに宗教というものは、神という存在は、世界を動かしてきた。
「俺はその中にどっぷり浸かって生きてきた人間だ。法に触れずとも、俺の中ではお前は自分に負けた哀れな犬だ。誰が、みじめな思いなど抱くものか」
常暁に指さされた紀子は、けけけと笑った。その笑い方は、すでに人ではなく怪鳥のようだ。
「強がっちゃって。ケケケッ」
笑いの中、紀子の周りがぐにゃりと歪む。強烈な力が、部屋の四方から立ち上がってきた。黒い
「その蜥蜴、ただの生き物じゃないわ。あなたの骨まで食い尽くすわよ。後には何も残りはしない」
「だろうな」
蜥蜴たちは食卓から目を離さない。今更席を立とうとしても、その瞬間に飛びかかられるだけだろう。
「『詰み』というやつだな」
「あら、よく分かっているわね」
「思考は合理的にするに限る。そういう見方をしているから、お前の間違いももう一つ見える」
常暁は、紀子に向かって微笑した。
「聖天は俺を殺したがっている。奴の顔に泥を塗ったからな。それがとにかく第一だ。だから」
──お前の命を、最大限有効に使う。
常暁がそう言う前に、紀子の頭が熟れた果実のようにはじけ飛んだ。頭部から出てきた銛のように尖った骨は迷わず正面に向かう。
骨はそこにあったもの全てを貫き、壊し、絞り尽くす。一方的な蹂躙が終わるまで、時計だけが正常に動き続けていた。
「……もう動いてもいいわよ、常暁ちゃん」
西村家の中に、明るい女の声が響く。部屋の隅でじっと息を殺していた常暁は、それを合図に肩の力を抜いた。
「ひっどい有様ねえ。これ、片付けるの大変でしょう」
「……でしょうね」
ため息をつきながら、常暁はまず壁に串刺しになっている人形を見つめた。骨で壁に縫い止められているそれはまだ原型を保っているが、もともとそれを乗せていた椅子は木粉となって消し飛んでいた。
周囲はさらにすさまじい。衝撃で吹き飛んだ家具が、地震の後のように折り重なって倒れている。その上に、点々と紀子の肉片や血液、脳漿が散っていた。常暁は割れた硝子を踏まないように、奥へ進み他の扉を開いてみた。
他の部屋は、何事もなかったかのように片付いていた。しかし、寝室でも子供部屋でも、中に居る人間はぴくりとも動かない。紀子の夫と子供は、ひどく驚いた顔のまま絶命していた。
常暁はそっと扉を閉める。
「一家、皆食ったか。やり方が容赦ない」
常暁もその可能性を考えなかったわけではない。聖天に染まった紀子はもう死なせるしかないとわかっていたが、家族は助けてやりたかった。が、彼らは紀子とあまりにも近かった。何かすれば、必ず聖天が勘づく。だから、相手が気まぐれに慈悲を示すことを期待していたのだが……あいにく、向こうはそう優しくなかった。
「気にしちゃ駄目よ、常暁ちゃん。あんたが生き残っただけでも良しとしなさい。もともと、博打みたいな計画だったんだから」
常暁は、聞こえてくる声にうなずいてみせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます