第39話 女の怒り

 その時の黒江くろえは完全に、悪魔が乗り移ったような顔をしていた。


「反論してみますか? わざわざあなたが例にあげていたくらいの、とても素晴らしい証拠ですが」


 黒江のその言葉を最後に、烏賀陽うがやの言葉は途切れた。


「……あれは、事故よ。たまたま彼女と会っていたら、よろけて転んだの」

「じゃあ、どうしてすぐ助けを呼ばなかったの?」


 今までずっと後方で黙っていた三代川みよかわが、ようやく一番前に進み出た。


「低体温で死亡するには時間がかかるわ。水たまりに倒れた時点ですぐ救急車を呼べば、川住かわずみさんは助かったのよ」

「あの、それは……怖くて」

「言い訳はいいわ。理由がなんであれ、あなたは彼女を『助けない』ことを選んだのよ」


 三代川は本気で怒っていた。空気の中に彼女の殺気が染み渡っていくようで、周りの男たちは思わず身構える。


「あのね、かわいこぶるのはやめてちょうだい。同じ女としてムカつくの」

「は?」


 烏賀陽が眉をひそめる。彼女も気の強いところをみせた。


「女って言われるのが嫌なら、人間としてムカつくとでも言い直しましょうか。あんたが何を考えて生きてきたかも、どうして犯行に及んだかも話さなくていいわよ。興味ないから。それでも、これはわかる。あんたは罰を逃れられるほど、かわいそうじゃない」

「何が分かるのよ。私が今まで、どんな人生を押しつけられてきたかも知らないくせに。だから私は子供を産んで、シングルマザーになって……」

「語るなって言ったでしょうが。殺人を犯す前、あんたには選ぶ時間がいくらでもあったわよね」


 烏賀陽の瞳が、一瞬動揺したように彷徨った。


「子供の手を引いていた時、襲いかかる前。立ち止まる瞬間は山ほどあったのに、その全てを捨てたのはあんたよ。──あんたが、自分で選んだの」


 三代川が一歩進み出る。


「私は虐待された子供の遺体を、何度も見たことがある。彼ら彼女らは大きな力を前にして、全力で生きようとしても駄目だった。あんたは、そんな風になったことなんてないでしょ。いつも勝てそうな相手しか狙わなかったから」



 三代川はさらに熱く語り始めた。

「あんたは強者なのよ。弱者のフリして、いつまでもメソメソしないでよ!!」


 最後の方は、怒鳴り声になっていた。烏賀陽の顔から、不意に表情が消え失せる。


「……今」

「え?」

「今、なんて言った?」


 烏賀陽は光のない目のまま、ゆらりと体を揺らす。一瞬、彼女の見せたその異様な雰囲気に、あかしは息をのんだ。


「なんて言ったかって聞いてるんだよ!!」


 殺意とともに、烏賀陽の体が跳ねる。灯の体も同時に動き出していた。


 速い。烏賀陽にスポーツ経験はないはずなのに、追いつけるかどうかギリギリだと、灯の本能が告げていた。


 頭の中から、勝手に思考が排除されていく。体が、何度も繰り返した動きだけをトレースする。地面が、不意に遠くなった。


 気付けば、灯は跳んでいた。自分で思ったよりも、もっと遠くへ。そしてその足底は、硬いものをとらえていた。


 足が地に着いていないから、蹴りの破壊力は著しく落ちている。しかしそれでも、蹴った対象が大きくぐらついたのは分かった。


 重たいものが落ちる音がする。周囲の人の足音が聞こえ、次にようやく灯に視覚が戻ってきた。


 烏賀陽が倒れている。彼女の指が、かぎ爪のように曲がっているのが灯のところからもはっきり見えた。


「どう……なりました」

「呆れたな。覚えていないのか」


 常暁じょうしょうが鼻を鳴らした。


「三代川に襲いかかろうとしていたこいつを、横から出てきて蹴り飛ばしただろうが」

「あ、そうなんですか?」

「他人事のように言うな」


 常暁に言われたが、本当に他人事のような気すらしてしまう。蹴ったという感覚はあるのだが、体をどう動かしたかという記憶が全くないのだ。


「正直、俺には君のキックが全く見えなかったぞ……グッジョブだ、鎌上かまがみくん」

「ぐっじょぶ?」

「よくやったという意味だ。このご時世、英語くらい勉強しておけ腐れ坊主」

「俺と話したければ、向こうが日本語を学ぶべきだ」


 金崎かなさきに傲岸不遜の塊のような発言をしてから、常暁は灯に向き直った。


「しかし良かったのは確かだ。あのまま突進されていたら、烏賀陽の指が三代川の眼球に刺さっていただろう」

「……嫌なことを、はっきり口に出して言わないでよ」


 三代川が顔をしかめる。すると、黒江くろえが傍らで首を横に振った。


「私のところから見てもかなり危なかったですよ。鎌上くんが動くのが目に入ったので任せましたが、そうでなければ使っていたでしょうね」


 黒江が腰に手をやる。何を使うつもりだったかは、灯にもわかった。


「ごめん、鎌上くん。感情的になったせいで、迷惑かけて」


 頭を下げる三代川に向かって、灯は手をさしのべた。


「そんなことありません。僕も何か言ってやりたかったんですけど、三代川さんみたいにうまく言葉が出てこなくて」

「言葉ね……」


 灯の手をとった三代川は、ちょっと遠い目をした。


「何がそんなに彼女の気に障ったのかしら。過去どうこうに興味はないけど、そこは知りたいかも」

「……もしかしたら」


 灯の頭に、みのりの言葉がよぎった。


「強いとは、言われたくなかったのかもしれません」

「よく分からないわね」

「僕もです。強くなりたくて、なれなかった側の人間なので。──でも、そういう人もいる、んだと思います」


 灯は倒れている烏賀陽を見ながら言った。


「さあ、考えるのはそこまでにしましょう。彼女を連行して取り調べ、自宅の捜索をやってしまわなければ」


 黒江に言われて、灯たちはうなずく。その中で常暁だけがさっさと立ち上がって、出口の扉に手をかけていた。


「では、後は任せる。俺にはやることがあるんでな。……三代川、例のこと頼んだぞ」

「大丈夫よ」

「例のことってなんだ、俺は聞いてないぞ!!」


 鬼の形相の金崎が呼び止めるも、常暁はさっさと行ってしまった。


「待て、この……」

「金崎くん、君が邪推するようなことではありませんから安心なさい。それより、この女を担いでもらえませんか?」

「……黒江さんがやってくださいよ」

「手が穢れるから嫌です」


 本当にこの人は、いい性格をしている。


「全くもう……」


 金崎が愚痴を言いながら、屋上を出て行く。それに三代川が続いた。


「鎌上くん、私たちも行きますよ。風邪を引くのが好きと言うなら、止めませんが」

「……あの」


 灯は黒江に、意を決して話しかけてみた。


「常暁さん、前の事件の時もしばらくいませんでしたけど──何、してるんですか?」

「君が知らなくていいことです」


 黒江の返事はにべもなかった。


「──正確には、知らない方がいいことなんですよ。くだらない奴の名前なんて、ネットで検索しない方がいいでしょうね」


 常暁の「カンギテン」発言が気になって、検索したことのある灯は赤くなった。力のある神だということは分かったのだが、それ以上は踏み込まない方がいいのだろうか。


「さ、行きましょう。君には、もっといいことが待っています」

「いいこと?」


 話が意外な方向に転びだして、灯は顔をしかめた。


「下まで降りれば分かりますよ。鎌上くんだったら、担いであげるのもやぶさかではありませんが」

「自分で歩きます」


 いぶかしみながらも、灯はビルの階段を降りた。外に出ると、パトカーに混じって三代川の赤い車が見える。


「鎌上くん、こっちこっち」


 手招く美女には逆らえず、灯は言われるがまま寄っていく。すると、三代川にがっちりと腕をつかまれた。


「え……え?」


 組み手なら経験があるが、女性にこんなことをされたのは初めてだ。灯は汗をかき、その姿勢のまま三代川を凝視する。


「いや、待て」


 相手は三代川だ。特別な意図など、あるはずがない。ドキドキする必要なんて──


「覚悟してね。今夜は離さないわよ」


 ……お母さん、ごめんなさい。明日の朝まで、理性がもつ自信がありません。



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