第35話 最強のデッキを作れ

 一旦こうと決めたら、行動が早いのは私の長所であると思う。程なくして私は会社を退職してピエニに専念すると共に、夫を家から追い出して独身に戻った。一人で生きる健気な母、という新たな看板を己に馴染ませる生活が始まったのだ。


 実際は、弘臣ひろおみは私の稼いだ金をしょうもないギャンブルにつぎこんでいた。だから奴がいない方が生活は楽だったのだが、世間はそんな事情までいちいち調べるほど暇ではない。


 私は情と理を使い分ける作戦で支持者を増やしていき、ピエニは順調に大きくなっていった。


「本当に大変なのに、よく頑張ってらっしゃるわ」

「お子さん、小さいんですって? じゃあ、私はこれを……」


 私は再び賞賛の声をあび、自分に有利な海を泳いでいた。しかし、今度は前回ほど喜びまみれで浮かれている、というわけではなかった。得た地位というものは劣化する、そのことが分かっていたからだ。


 また新たなカードを探しておかなければ。そんな思いを抱えているときに、西村紀子にしむらのりこと出会った。


 彼女はのんびりとしていたし、キャリアウーマンの私を持ち上げてくれたから、一緒に居ると気が楽だった。しかし、彼女の周りの人間と話をし出すと、不愉快な思いをすることが多かった。


「あなたはいいわねえ。シングルマザーでも、ちゃんと仕事をもって自活できているんだから……」


 そう言ってため息をつく女に会ったのは、いつのことだったか。西村が通っているサークルに居たそいつ──野村のむらは、明らかに生活に疲れた様子だった。


 彼女は、そのやっかみ混じりの言葉を吐いて少し気が晴れた様子だった。しかし、私にとってはその言葉は、抑えていた怒りに火をつけるものでしかなかった。


 ──こいつは、私を再び「強者」の側に押しやろうとしている。ただでさえ残りが少ない安寧の時間を、根こそぎ持って行こうとしているのだ。


「悩んでいるのは、私だけじゃないの。他のみんなだって……」


 野村はそう言って、何人かの名前をあげた。全員がシングルマザーであるという。所属グループが違うから表だって付き合いはしていないが、境遇が同じということで愚痴をこぼしあうこともあるのだそうだ。


 新井あらいという女は、働きに行きたくてもなかなか雇ってもらえない。実家に世話になっているから衣食住は不自由ないが、両親も年をとってきてこれからどうなるか不安だ。


 新井の友人である古賀こがは、働いてはいるものの非正規の立場である。休めば休むだけ収入が減ってしまうため、娘と一緒にいたいのにそれが思うようにかなわずにいた。野村もこの状況だそうで、古賀のことを語るときはやけに力が入っていた。


 そして最近知り合った杉田すぎたという女は、心血を注いだプロジェクトの主任を外されて怒り狂っていた。女には無理だ、ひとり親には責任がとれない、と陰口をたたかれたことにも気付いており、かなり悔しがっているという。


「だから、あなたに先輩としてアドバイスがもらえないかなと思って……」


 彼女たちは、シングルマザーという属性では私と同じだ。しかし、経済状況でも私生活でも困った立場に追い込まれていた。いつから、こんな状況だったのだろうか。もはや私の立場では、かわいそうとも思われなくなってしまっているのだ。


 もう少し、せめて友彦ともひこが中学に入るまでは、「かわいそう」の枠にとどまっていられると思っていたのに、衝撃だった。


 また、厄介ごとを押しつけられる日々が始まる。私たちの面倒を見てくれと、ぶらさがってくる連中がわいてくる。


 それは、今まで立っていた大地がなくなるような感覚を私に与えた。地の底で待っているのは、私が持っている立場を根こそぎ奪おうとする亡者どもだ。


 落ちたくない。戻りたくない。私はいつまでも「弱者」でいたい。「かわいそう」と言われていたい。それを実現させるためにはどうしたらいいのか、私は本気で悩んでいた。


 その答えは、唐突にもたらされることになる。ある日、西村と並んで歩いていると、いかにも世間話が好きそうな中年女性が近づいてきた。私は嫌いなタイプだったが、西村はその女性を見ても嫌な顔ひとつせず、笑顔で応対する。


「お子さんの具合はどう?」

「家でゆっくりしていれば、大丈夫です」

「それでも、晴れた日は外に遊びに行けないんでしょう? あなたも勇気くんも、かわいそうよね」


 それから並べられる通りいっぺんの言葉を、私はうらやましく思いながら聞いていた。不運に見舞われながらも健気に生きる母として、西村は全面的に肯定されていたからだ。


「……ごめんね、待たせちゃって。悪い人じゃないんだけど、一旦話し出すと止まらなくて」


 謝る西村に向かって、私は首を振ってみせた。


「いいの。でも……勇気ゆうきくんって、病気だったの?」

「ええ。アレルギーの一種でね」


 それから語られる話を聞きながらも、私は興奮を必死に抑えていた。


「そう、あなたはなかなか大変なのね」

「大丈夫よ。みんなが励ましてくれるし、勇気も病気に負けて暗くなったりしてないしね。……これでもう少し、ゲームの時間を減らしてくれれば文句ないんだけど」

「そう、良かった」

「いいお茶があるのよ。あがっていかない?」

「ごめん、今日は寄れないの。また連絡するから」


 笑顔で私に手を振る西村と別れた後、私は少女のように高鳴る心臓をなんとかなだめていた。ようやく見つけた。シングルマザーより強い、弱者のカード……「病気の子供の母親」。


 どうして気付かなかったのだろう。お涙ちょうだいで募金を集める母親の姿は、テレビや新聞を介して今まで何度も見ていたというのに。


 いたいけな子供が病と闘う。それを支える母親は、まさに聖母のように持ち上げられていた。彼女らは、シングルマザーではなかったというのに。


 その日から私は、目標達成のために動き始めた。しかし今回ばかりは、壁につき当たることになる。友彦は、嫌になるほど健康だったのだ。風邪やインフルエンザにはかかったことがなく、学校の健康診断では必ず褒められて帰ってきた。


 私は友彦に衣食住を提供している身だから、体に悪い食事を提供することくらいはできる。しかしそれで彼が体調を崩すのは、何十年も後の事。すぐに体調がおかしくなるような仕打ちをしたら、私が虐待母と言われてしまう。


 どうすれば。

 どうすれば。


 考えても考えても、答えは出なかった。


 そして一週間がたったある夜、眠っている友彦の髪をなでさすっていた時、不意にその言葉が降りてきた。


「ねえ、お母さんのために死んでくれない?」


 どうしてそんなことを口にしたのか、自分でもよく分からない。ただ、ぽつっと生まれたとしか言いようがなかった。


 その言葉は、想像以上に私の中にしっくりと馴染んでいく。


「そうよ。子供を殺された母親は、子供が病気になった親よりもっと悲惨だわ」


 この治安の良い日本で、子供を殺された者などそうはいない。他に並び立つものがほぼいない人間になれるのだ。そんな深い心の傷を負った者を、鞭うてる存在がいるはずもない。

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