第34話 美酒に酔うと戻れはしない

 上司に結婚と妊娠の報告をしてから、私の生活は一変した。重いものは持たなくていいし、吐き気があると言えば周囲はおろおろするし、早退や休日取得も思うがままだった。


 ──ああ、なんて気持ちいいんだろう。


 私は「特別扱い」をされている快感に、首元までどっぷり浸かっていた。


 自分は何もしなくていい。ただ周りが気を遣ってくれて、私にいいように計らってくれる。弱い者、可哀想な者、いたわるべき者とされる気分は最高だった。


 この立場を手放したくない。私はつわりもほとんどなく、妊娠経過も順調そのものだったが、決してそのことを周りには漏らさなかった。


 友彦ともひこが生まれると、私はすぐに仕事に復帰した。友彦は乳児受け入れのできる保育園に放り込んである。そうしておいた方が、得なのだ。


「子供さん、小さいんでしょ? 出てきて大丈夫?」

「ええ。産休で休んでしまった分を取り返さないと」


 そう返すだけで、相手が私を感心したように見つめてくれるのだから。


 独身社員は毎日来ることなんて当たり前なのに、こと幼児の母となるとこの扱いだ。立場の違いは滑稽な程である。


 弘臣ひろおみは育児戦力としてはカスを通り越してゴミだったが、ベビーシッターと保育園、私の実家を組み合わせれば育児は問題なかった。友彦は大したトラブルもなくすくすく育ち、順調に体重を増やしていった。


「……楽だわ」


 友彦はミルクを飲んで、げっぷをさせるとすぐにすとんと寝てしまう。後は寝かせておけば機嫌が良かったから、こんなに取り扱いが楽な生物はいなかった。


「あの女は『夜泣きがある』だの『痙攣を起こす』だのうるさかったけど、子育てってこんなに楽なんじゃない」


 きっと親たちは、子育てが大変だと言っておいた方がいいと承知しているのだ。実際のところを知らなかったから、私は今までだいぶ損をした。


 それからも私は、幼児の母として同情を受けながら働いた。しかし徐々に友彦が大きくなってくると、受けていた恩恵が反比例してしぼんでいく。


「友彦くんが小学生になったら、いちさんもバリバリやれるね」


 そんなことを言い出す者まで出始めた。私はちやほやされなくなってまで、この会社にいたいとは思わない。給料も安いし、毎年の昇給も雀の涙だ。


 そこで考えついたのが、「ピエニ」だった。私はこの頃には、インターネットを使ってアクセサリーを売り始めていた。それは思った以上によく売れて、私を驚かせていた。


 高い宝飾品のデザインを研究し、その雰囲気を安いパーツで再現しぶっちぎりに価格を下げる。その戦略が良かったのか、私の店舗は順調そのものだった。


「これなら、独立できるんじゃない?」


 そう思った私は、出資金を集めるため、休みの日に企業や銀行を回り始めた。しかしそこで、思わぬ壁に当たることとなる。


「……奥さんの暇つぶしに付き合うほど、暇じゃないんだよ」

「この資金計画なんですか? これはもう少し変更していただかないと、どうしようもありません」


 事業をやるために金を集めるというのは、生やさしいことではなかった。こんなにひどいことを言われても会ってもらえた時はまだましで、たいていのところは責任者すら出てこずに門前払いされてしまう。公的機関や銀行の援助はゼロではないが、資金は多いに越したことはないのに……。


「はあ」


 ピエニを思いついて一ヶ月。その日も私は面談を断られ、気落ちしていた。ひょっとして話を聞いてみたいという誰かが追いかけてこないかと、会社入り口の壁にもたれていじましく待つ。すると、誰かが上から降りてきた。


 やってきたのが私と同じくらいの年頃の女性だったので、思わず彼女を見つめてしまった。


「……あの」


 満足そうな顔をしている彼女に、気付けば話しかけていた。


「はい?」

「ここに入ってるアパレルにお勤めなんですか」

「いいえ。私は商品の売り込みに来た、とってもしがない会社社長です。あなたはどうしたの?」

「……私は」


 口を濁した私に向かって、彼女は微笑んでみせた。


「もしかして、あなたも売り込みに?」

「はい。私は入り口で、体よく断られてしまったんですけど。──あなたはどうやって、話を聞いてもらったんですか?」


 問われた女性は、困ったように眉根を寄せた。


「そうね……計画そのものに大きな穴があればどうしようもないけど、そうじゃなかったらやっぱり熱意かな」

「熱意?」

「そう。私はどうしてもこれがやりたいんだ-! っていう、決意表明みたいなものかな。科学技術はかなり発達してるけど、お金を出すのは人の意思じゃない? やっぱりこいつしかいない、って思わせるためには熱いくらいがいいのよ」


 彼女は得意そうに言った。私が苦手な分野の話だ、と思って聞いていると……次に、こんな言葉が続く。


「ま、私は自分と子供を食わせなくちゃならないから、自然と前のめりになっちゃうの。だから、うざいと思われてることも相当あるんじゃないかな」

「シングルマザー、なんですか」

「そうよ。旦那が浮気はするわ、家に金は入れないわだったから、頭にきて蹴り出してやったの。ハハハ」


 彼女は恥じる様子すらなく、あっけらかんと言った。


「その後、どこの会社も雇ってくれなかった時は早まったかなと思ったけどね。いつまでもへこんでたって仕方無いから、こうやって走り回ってるの」

「……詳しく話していただいて、ありがとうございます。参考になりました」


 私が感じ入った素振りで頭を下げると、彼女はそれを素直に受け入れた。その後、お互いの商品パンフレットを交換し合って彼女と別れる。


 一人になった途端、私は舐めるように彼女の持っていたパンフレットを見る。普段使い用の動物をかたどったブローチ。かわいらしくなりすぎない、大人向けのラインを目指しているようだ。


 コンセプトだけなら、需要はあると言ってもよかった。しかし、私は商品を見てため息をつく。


「このブローチ、だっさ」


 基本となるデザインが、全くこなれていない。これでは売れる見込みなどなかった。そもそもブローチは構造上、どうしたって服に傷をつけてしまう。大人向けの高価な装いにつけてもらうには、一目で美しい、かわいいと思わせるレベルでなくては無理なのだ。


「……この程度の商品で、あいつは話を聞いてもらえるわけか」


 私は認識を改めた。ずっと同じ立場でいたから、目が曇っていたのだ。子供が大きくなっても使える立派な弱者カードが、まだ私にも残されている。


 起業とは、己の腕で荒波をかいていく世界。そういう世界にいる人間は、簡単に情けをくれたりしない。配偶者の庇護にある者など、彼らにとってはたいして哀れむ対象ではないのだ。


 変わらなければならない。私はより、弱者の側に行かなければならない。

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