第33話 己が隠れる繭を纏う

「子供が小さいから無理だろう」

「どうしてですか? 旦那さんに見てもらって、出勤すればいいじゃないですか。サラリーマン夫婦なんだから、土曜日は旦那さんも休みでしょう」


 そこで私は上司から目を離し、隣の女に顔を向けた。


「ねえ。私、この前もその前もあなたのかわりに出勤しましたよね? その割に、あなたが私の仕事をやってくれたことって、一度もないんですけど」


 指摘をうけた女は口ごもった。


「あの……それは、申し訳ないと思っているの。でも」

「口先だけで謝罪してないで、本当に悪いと思ってるなら代わってくれません? そもそも子供ができた時点で、どうフォローしていくかをなんにも考えなかったんですか?」


 私が責め立てると、女はまるで兎のようにぎゅっと体を丸くした。私は被害者なんだから守ってくれと外部にアピールするその姿に、ますます吐き気がこみあげる。


「言い過ぎだよ、烏賀陽うがやくん。君もいつか母親になったら分かる」

「こんな無能にはなりませんよ」

「君ね……」

「自分で股開いて作ったものの管理もできないなんて、無能の証拠じゃないですか」


 軽く下ネタを入れて言い返すと、上司は顔を真っ赤にして固まっていた。隣の女も、恐怖の混じった表情で私を見ている。とりあえず、くだらない論争に決着がついたことを喜び、私は仕事に戻った。当然、その週の土曜は休んで予定を満喫した。


 上機嫌で月曜に出社すると、すぐに私は怖い顔をした上司に呼び出された。会議室でただ二人、彼とにらみ合う。


「呼ばれた理由は分かってるね?」

「真面目に仕事をしない社員を注意して、呼び出される理由がわかりません」


 私が言い返すと、上司は苦り切った表情になった。


「あのね、君がやったのはマタハラなの。マタニティハラスメント。分かる?」


 上司の話を聞くと、妊娠・出産や育児休暇中に受ける嫌がらせを、外国でそう呼んでいるということだった。


「今は大々的に取り上げられることはないけれど、これをなくそうという流れは絶対に日本にも来る。その時うちがマタハラしてたとわかったら、企業イメージがすごく悪くなるんだよ。それが分からないかい?」


 本当に分からなかったので、私は首をひねった。


「人より楽な仕事をしておいて、何も言われたくないなんて甘ったれた人間を、どうしてそんなに重んじるのかが分かりませんが」


 私が言い返すと、上司は困り切ったように息を吐いた。


 その時、思い知ったことがある。この世界では、弱者と認定された者こそが、絶対的に優先されるのだと。そいつの負担を軽くしてやっている強者が不満を言うことは、天に唾吐く行為とみなされるのだと。


「……君は分かっていないようだけど、このことは上にも報告されているんだよ。最悪の結果になっても、文句を言わないでほしいな」


 そうなのであれば、私は立ち位置を変えてみせよう。強者から弱者へと。そして、今度こそ思うがままに生きるのだ。


「最悪の結果とは?」

「懲戒、解雇もあるかもね」

「そうですか。こんな会社に未練はないですが、そうなってしまうと次を探す時に困りますね」


 そのために必要なカードを、すでに私は持っている。


「課長から、上をなだめてもらえませんか?」

「君、今まで言いたいように言っておいて、それは都合が良すぎるよ」

「言ってくれないと、課長にセクハラされると訴えます」


 マタハラを知っているのだから、どうせついでにこれも調べただろう。予測して言ってみると、案の定、上司の顔色が一気に悪くなった。


「ねえ、課長。この部屋には他に誰もいませんし、私はまだ二十代の女です。スカートに手を入れられたって私が言ったら、信じる人はけっこういるんじゃないかな」

「ば……馬鹿馬鹿しい。そんなもの、私が否定するに決まっているだろう」

「否定したところで、『やってない』ことを完璧に証明するのって難しいんですよ。その上、こんなものまで出てきちゃったら大変です。誰が課長の言うことを信じてくれるんでしょうね」


 私は、上司と不倫相手がばっちりくっついている写真を見せてやった。


「愛人と肩組むのが平気なおっさんが、会社の後輩には手を出してないなんて言い訳しても、説得力ないでしょ」

「なんで……わかった……」

「特定の曜日だけいっつも直帰して、同じラブホ使ってればバレますよ。課長の頭、脳味噌詰まってないんですか?」


 私はそう言って、課長の目の前で写真を揺らした。


「上には、私が反省して退職するとか、適当に言っておいてくださいよ。そう約束してくれないと、私は我慢できなくなって叫んじゃうなあ」

「待て、待て。分かった、言われた通りにする。それで文句ないだろう」


 額にうっすら汗を浮かべる上司を見て、久々に私は心から笑った。


「ああ、良かった。無事にことが済むまで、この写真は預かっておきますから」


 私は笑い顔のまま、会議室を出た。あまりに自分の思うとおりにことが運んだので、胸の中には驚きすら宿っている。


「……なんだ、もっと早くこうすればよかったんだ」


 強くあろうとすること自体は悪くない。もともと私の気質は、そうなるようにできている。しかし、あからさまに強者であると示してしまうと、周りはこちらを平気でないがしろにしてくる。


 だから、確立しておかなければならない。誰よりも弱く、誰よりも同情される立場というものを。


 会社をやめる手続きその他もろもろはなかなか面倒だったが、このことを知れたのは私にとって大きな転機だった。


 次の会社では、私は勝手に両親を病気にした。週末は彼らの通院に付き添わなくてはならない、という体をとったのだ。


 このカモフラージュもないよりはましだったが、そんなに強いカードではなかった。具体的に症状をつっこまれると説明しなければならないし、中には「あなたの親くらいのトシなら、自分で通院できるはず」と食い下がってくる人もいたからだ。


 やはり親というのは大人であるため、子供より数段弱い。ボケが入って徘徊でもしていれば別だろうが、そこまで話を作り込むことはできなかった。


 やはり、安楽に暮らすには作るしかない。子供を。


 私はそういう結論に至り、動き始めた。妊娠さえできればいいため、相手は本当に誰でも良かった。それで引っかかったのが弘臣ひろおみだったのが情けないが、その時の私にとっては生殖能力さえあれば合格点だったのだ。


 避妊具の使用に弘臣が飽きてくれたおかげで、私は程なくして妊娠した。そのことを知った弘臣は文句を言ってきたが、生活資金のほとんどをまかなっていた私に、


「じゃあ別れる?」


 と言い返されると、文字通りぐうの音も出ない様子だった。

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