第32話 闇の産声
「い、いた! いた!
戸口で怒鳴ったのは
「なんですか、ずいぶん賑やかですね。どうされたんですか」
「分かったんですよ。三代川さんのおかげで、とんでもないことが!」
「……それに、そのゴミが何か関係しているのか?」
「人のことをゴミ扱いすんな!」
「そのクズが何か関係しているのか?」
「言い直しても一緒じゃねえかこの野郎!!」
常暁につかみかかろうとする弘臣に、三代川が顔を向けた。
「やめておきなさい。せっかく少し心証が良くなったっていうのに、手を出したら台無しよ」
三代川の一言で、ようやく弘臣は動きを止めた。
「始めから説明します。この市弘臣は起訴されていますが、今だ拘留中です」
保釈金を払えば拘置所を出られるケースもあるそうだが、市はそれにはあてはまらないという。
「あかねがそもそも電話にすら出ねえのが悪い!」
「お金があっても、あなたは無理ですよ。一度証拠を捏造した人間の保釈なんて、裁判所が認めるはずがありません」
弘臣の愚痴を、
「……だから拘置所の大部屋に居るんだけど、そこで同室になった奴とギャンブルの不正話で盛り上がってたらしいの」
「それはそれは」
「やっぱりゴミじゃないか」
常暁が冷たく言い放つ。確かに、捕まってなおそんな話をするなんて、反省していないにも程がある。
「その話を聞いた職員がいてね。私に教えてくれたのよ。あの犯人、ちっとも反省してないよって」
「顔が広いんですね、三代川さん」
「みんな優しいから、出不精の私のところへ来てくれるのよ」
優しさというより、多分に下心が入った奴もいるだろう。しかし先が聞きたかったので、
「その時、この男が言ってたんだって。いかさまは結構やってきたけど、最近のパチンコ屋はだめだ。だって──」
その先を聞いたとたん、灯たちは弾かれたように動き出していた。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
玄関から出て行く息子を、私は笑顔で見送る。──もうこの台詞を言うことはないのだと思うと、少しだけ寂しく感じた。
しかしそれよりも、これからのことを考えると胸が躍った。
「ごめんね、
私は昔に戻りたくないのだ。どんな手を使ってでも。
「あかねちゃんは、しっかりしてるから」
昔から何故か、そう言われることが多かった。人より少し体が大きかったからなのか、あまり怒ったり泣いたりしなかったからなのか、詳しいところはわからない。
理由はどうであれ、大人にとって私は都合のいい存在だった。
「あかねちゃん、トシちゃんと一緒に遊んでくれる?」
クラスの中で一番うるさくて、何をやらせてもまともに続かない子を押しつけられたのが、始まり。今思うと、あの子にはなんらかの障害があったのだろう。
「イヤ」
私は当然断った。私だって、大人しくてかわいくて、いい匂いがする子たちと遊びたい。なにが悲しくて、いつもよだれの臭いがする子を押しつけられないといけないのだ。
──しかし私がそう主張すると、大人たちはまるで裏切られたような顔をするのだった。
「あかねちゃんならできるでしょう?」
「そんな意地悪言わないで」
私があくまで拒否していると、周りはそう言ってなんとか厄介者を押しつけてこようとする。
馬鹿馬鹿しい。私が人より少し何かができるからといって、厄介者の面倒を見る理由にはならない。そんなに価値があるというなら、大人が自分でやればいいのだ。
本当はみんな分かっている。汚い子には関わりたくない。頭が悪い子には関わりたくない。だから体よく押しつけられそうな子供を、必死に探しているのだ。
成長し学生になっても、私が「しっかりしていそう」と思われるのは同じだった。クラスの委員長、面倒な係、そういうものが次々と降りかかってくる。
私はそれを断る理由を探す中、ぼんやりとこんなことを考えていた。
「普通の子はいいなあ。あれやれ、これやれって言われなくていいんだもの」
私がスポーツや勉強を頑張っても、無能の尻ぬぐいをさせられるだけというのが納得いかない。優秀と認めているなら、むしろそういう雑務をさせないのが思いやりではないだろうか。
「人を助ければ、今度は自分が助けてもらえることもあるんだぞ」
たまに説教してくる教員がいると、私はこう言い返すことにしていた。
「先生はそうしてきたんですか?」
「そうだよ」
「それでその程度の人生なんですね。他人に使う時間を余所に回していたら、もっと成功したんじゃないですか?」
大体の教員は、これで言葉をなくす。たまに生意気だと怒鳴ってくる奴もいたが、それは理屈で勝つことを諦めた敗北宣言だとみなしていたから、気にとめなかった。
そうやって可愛げのない子という評価を確立した私だったが、わりと自由にさせてくれる大学という組織とは気質が合った。大きなトラブルも起こさず、しれっと猫をかぶって就職も成功させたのだから、あの頃の私はうまくやれていたのだ。
それに反して、社会人になってからの生活は面倒くさいものだった。そこそこ大きな商社に入れたものの、一番下として扱われる経験があまりなかったから、余計にそう感じるのだろう。
いちいち服装にうるさいおばさん、紙をなめる時に指に唾をつけないと気が済まない上司、すれ違う時わざと私にぶつかってくる同僚。
日々、私を苛つかせることの連続だったが、中でも一番腹立たしいのが隣の席の女だった。
「すみません、部長。娘が熱を出したと保育園から連絡があって……今日は、あがらせてもらってもいいですか?」
女には二歳になる娘がいて、しょっちゅうこうやって娘の病気をダシにして帰っていく。その残り作業を負担させられるのが、私を含む独身者というわけだ。
ふざけるな。何故そうなってもいいように、手配した上で仕事をしようとしないのか。私はずっとそう思っていたし、上司も同じことを言うものだと想像していた。それなのに。
「大変だね。うちのも小さい頃は、よく熱を出したよ。早く帰ってあげなさい」
彼女の行動を、表だって咎める者は誰もいない。自分のしたいことは全て許される、まさに王侯貴族のような立ち振る舞いだった。
たまに仕事がたてこむと土曜や日曜に出勤させられることもあるのだが、そんな時にも彼女は決まってそこにいなかった。声をかけることすらせず、彼女が休むのは当たり前の権利のように認められていた。
私はそれがどうしても許せなくて、ある日とうとう爆発してしまうことになる。
「今度の土曜、
「その日は用事がありますので」
「出てくれないと困るよ。出張やら営業やらで、他に行ける人がいないんだから」
禿げた頭をいやらしく光らせる上司に向かって、私はにっこりと微笑んでやった。
「え? 先輩がいらっしゃるじゃないですか。私より社歴も長いし、適任だと思いますけど」
そう言った時、隣の女がびくっと肩を震わせたのを、私は見逃さなかった。
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