第31話 運とは善悪なきもので

「最初は替え玉なんて想定してませんからね。私は根掘り葉堀り聞いてみました。兼井かねいさんと駅で別れた後、烏賀陽うがや──この場合川住かわずみですが、トイレに行くと言って近藤と別れています。時間は六時半過ぎから、七時前くらいまで。女性トイレは混んでいることが多いにしても、ちょっと長いなとは思ったそうです」

「なるほど」


 この時に、本物と偽物が入れ替わった可能性が高い。しかしそれにしても、三十分もはかかりすぎだ。何かトラブルがあったのかもしれない。


「川住が行くと言っていたのは、東口付近のトイレ。おそらくそこが待ち合わせ場所でしょう」

「その周辺で何かあったのかもしれないですね。行ってみます」

「できれば、同じくらいの時間に訪れてもらえるとありがたいですね。その時にしか見えないものがあるかもしれませんから」


 手がかりを与えてもらって、あかしの体に力がみなぎってくる。常暁じょうしょうだけは嫌そうにしていたが、事件を解決しに来たのだからそれは飲みこんでもらおう。


「駅に六時半となると、もうあまり時間がないな。車を回してくる」


 金崎かなさきが急いで部屋を出て行った。灯たちも最低限のものだけ身につけて、彼に続く。


 やや長めの信号に巻き込まれたため、灯たちが現場に着いた時には六時十五分を回っていた。


「駐車場を探していたら時間が過ぎる。先に行ってくれ」


 金崎からどやされて、灯たちは車を転がり出た。東と言われているのに西へ向かおうとする常暁の首をひっつかみ、灯は問題のトイレへ向かう。


「あった!」


 トイレは駅の外へ向かう通路の途中にあった。今も、数人の女性が順番待ちをしている。


「ここで、何があったんでしょう……」


 灯が遠巻きにトイレを見ていると、その目の前をズカズカ横切っていく者がいた。


「じ、常暁さん!? ここ、女子トイレですよ!?」


 制止の声もなんのその。常暁は並んでいる女性を無視してトイレに入ってしまった。たちまち、女性たちから悲鳴が上がる。


「後で黒江くろえさんに報告しないと」


 灯がトイレの外でやきもきしていると、しばらくたってから涼しい顔で常暁が出てきた。


「……あんまり聞きたくないんですが、中でなにしてたんですか?」

「全ての個室に入ってみた」

「入るなよ」


 灯は思わず、今まで保っていた丁寧モードを脱ぎ捨てる。


「川住がなにを見たかを追体験してみたかったんだ。だが個室には窓もなく、外の音も聞こえない。他人の目もある。ここでトラブルがあった可能性は低いだろう」

「……いくら言っても聞いてくれないのは、分かってましたよ」

「ここで三十分近くとなると……」


 常暁は周りに目をやる。灯も諦めて、彼にならった。駅の中から、外へ視線を移していく。


「あ」


 灯の目は、闇に沈みかけた街中に浮かび上がる、パチンコ屋の看板をとらえていた。




「それで、パチンコ屋の監視カメラの映像を提供してもらったと。なかなかの成果じゃないですか」

「川住はギャンブル狂です。パチンコ屋を見つけて、それを無視するのは難しいのではと思いまして」

「良い着眼点ですね」


 九州から帰ってきた灯たちは、報告のために署に来ていた。話を聞いていた黒江は一瞬満足そうな顔をした後、ふっとそこに黒いものをにじませた。


「──女子トイレに変質者が出た、という誤解をとくのはかなり大変でしたからね。それくらいの成果はなければ」

「申し訳ございませんでした」


 聞けば、正則まさのりまで頭を下げて回ってくれたようで、灯は恥じ入るばかりだった。


「いいんですよ、鎌上かまがみくんが謝らなくても。──そろそろ、あの映像ばかり見ている常暁くんが顔を上げてくれればいいなあ、とは思いますが」


 黒江がため息をついても、常暁が会議室のモニターから離れる気配はない。目がちかちかするようなパチンコ店の内部を、舐めるように見つめていた。


「いたぞ」


 そして詫びの言葉など知らぬといった顔で、不意に振り向く。


「この人は……」


 灯は呆れたが、黒江の興味は映像の方にうつっていた。


「確かに川住さんですね。後で画像を拡大してもらえば、もっとはっきりするでしょう」


 高そうなスーツを身にまとった川住が、嬉しそうに台の前に座るさまが映っている。彼女の首には、カラオケ大会でもらった金メダルがかかっている。この時、六時三十五分。


 それからしばらくは何もなかったが、二十分後に誰かが川住に近づいてきた。


「来た!」


 灯は思わず声をあげた。


「女だな」


 常暁がつぶやく。女は川住と同じスーツをまとっているが、顔は完全にマスクとサングラスで隠れていた。


 その女はしばらく川住と問答している様子だったが、メダルを受け取ると脱兎のように去っていった。


「……これで終わりですか。女の顔がはっきりしませんねえ」

「別人だと烏賀陽に言い切られたら、負けるかもしれんな」


 黒江と常暁が苦い顔をしている。


「でも、烏賀陽さんが同じスーツを持っていたら証拠になりません?」

「あのスーツは高価なものなんですが、オーダーメイドではありません。軽く数百着は出回っていますから、それだけで烏賀陽だと断じることはできませんよ」

「え、駅のカメラはどうですか。兼井さんと別れるところが映っていれば」

「調べてもらいましたが、ダメでした」


 食い下がる灯に対して、黒江は首を横に振った。


「兼井さんは駅と言ったようですが、実際は駅の少し手前で別れています。近藤と一緒にいるときも、彼女はカメラに背を向けていて顔が映っていません。川住がカメラの位置まで把握していたとは考えにくいので、これは烏賀陽の悪運のなせる技でしょうね」

「そんな……」


 灯は呆然とした。九州まで行って、ようやくつかんだ手がかりだと思ったのに。


 飲み屋を回っても、烏賀陽を追い詰める証拠はなかった。これが最後の希望だったのだ。


 ここまでやったのに、結局は相手の悪運に負けるのか。次の子供が殺されるまで、何もできず見ているしかないのか。


 悔しさで頭が真っ白になる。そんな灯を、常暁と黒江がじっと見ていた。


「──運って、意地悪ですね」


 しばらくたって、灯はようやくそれだけ言った。常暁がうなずく。


「そうだな。悪運に後押しされている人間というのは、確かにいる。烏賀陽は今までの犯行でも、一度も姿を見られていないしな」

「そんなのって……」

「顔を上げろ」


 常暁が真剣な顔で、灯に向き直った。


「運というのは、海の波のようなものだ。勝手に来て、中に入っている相手を押し流すだけ。そこにいる相手が、良い奴か悪い奴かなんて関係ない。正義は必ず勝つなんてのは、現実を知らない子供のためのおとぎ話だ」


 今までの経験に裏打ちされた常暁の言葉は、深く灯の胸をえぐった。


 そのことは、自分でもよく分かっている。どんなに努力したって、それが無に帰すことなんてざらだった。


 でも、でもせめて。今回だけは、どうにかならないのだろうか。


「……だとしたら、運に恵まれなかった人間は、黙って我慢しているしかないんでしょうか」


 助けを求めるように言った灯の肩に、常暁が手を置いた。


「そうとは限らない。波というのは、いつかは必ず引くものだ。いくら人間が押しとどめようとしてもな」

「それって、どういう……」


 灯がさらに聞こうとした時、会議室の扉が手荒く開かれた。

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