第7話 ギリギリ合法

「オン・マリシエイ・ソワカ」


 両手の人差し指と小指を合わせ、印を組む。吉祥天きっしょうてんの周囲から水柱があがり、寮のベランダを包み込んだ。


 次の瞬間、衝撃をもって何かが次々と水柱にぶつかってくる。一発受けるだけで、常暁じょうしょうの腕に鉄棒で殴られたような痛みが走った。


「……矢でしょうが、奇妙な形ですね。当たったら、この部屋もろとも吹き飛びますよ」

「分かっています」


 水を透かして、矢の形が見える。長さ1メートルほど。直径もそのくらいあり、破城槌のように太く、先が平らだ。貫くつもりではなく、相手を肉塊に変えるための矢である。


「気配は隠していたが、まさかこんなに早くばれるとは」


 常暁の額に汗がにじむ。相手には疲れがまるで見えないのに、水の盾はみるみる削られていった。そして、次第に矢がはっきりと見えるようになってきた。


「だめだ、法力勝負では勝ち目がない」


 こちらは十分な祈祷もできていない。正面からぶつかったら粉砕されるだけだ。ずるいのは承知で、歓喜天かんぎてんが嫌がることをするしかない。前回も、そのような感じでようやく撃退できたのだ。


 問題は、その役割を誰がやるかということだった。黒耳天こくじてんはもう行ってしまったし、吉祥天と常暁は攻撃を防ぐだけで手一杯。新しく眷属を呼び出すことなど、できそうになかった。


 解決策はもう見えているのに、一向にそれに手が着けられず運に任せるしかない。苛立たしくて、常暁は唇をかんだ。


「常暁!」


 吉祥天が、切羽詰まった声で言う。すでに、飛んでくる矢がベランダを激しく揺らし初めていた。古びた金属の柵が、音をたてて吹き飛ぶ。


 跳ねた柵が外へ飛んでいくのを見ながら、常暁は舌打ちをした。その時、ふっと隣を何かが通り抜けていくのを感じる。ここについている低級霊が、危険を感じて逃げだそうとしているのかもしれない。


「……この状況でぐうぐう寝てるこいつに腹が立つ」


 自分のせいではあるのだが、常暁はあかしの足を蹴ってやった。


「それでも、彼だけは部屋の外に飛ばさなければ。死んでしまいます!」


 吉祥天が言う。常暁が必死に印を組みつつ、その手段について考え始めた時──


「なあ、あれなんだ?」

「映画の撮影か? 聞いてないけど」

「さっき幽霊みたいなのが手招いてたよな。凝ってるなあ」


 下から大きな声が聞こえてきた。それと同時に、容赦なく放たれていた矢がぴたりと止まり、かき消えた。


「はあ……」


 吉祥天が術を解くと同時に、常暁は床にへたりこんだ。汗で着衣がじっとり濡れて重い。吉祥天とのつながりを保つのも難しくなっていて、彼女の姿が幽霊のように透けて見える。


「助かりましたね。しかし、あそこまで優勢でなぜ攻めるのをやめたのか……」

「人が来たからですよ。あいつはまだ、自分の存在が表に出ることを望んでいない。……もちこたえていれば寮なんだから誰か顔を出すだろうと思ったが、どいつもこいつも寝ているのか知らぬ顔だ」

「なるほど。あの方たちはあなたの救いの神というわけですか」


 常暁はボロボロになったベランダから下を見た。くたびれたスーツを着た、刑事とおぼしき目つきが厳しい男が二人。──そしてその横に、霊体がふたつ佇んでいるのが見える。


 明らかに善良そうな男女の霊だった。死んだのはずいぶん前なのか、二人とも和髪に着物姿だった。彼らの顔を見て、常暁は何が起こったか理解する。


「これはまた強力な守護霊だな」


 男女の霊の顔には、灯の面影がある。


 先祖が子孫を見守っているのはそう珍しいことではないが、意思をもち人を動かすというのはそうできることではない。墓参りなどを欠かさずしていて、霊に力がある状態になっていないと難しいのだ。


 霊たちは常暁に一礼すると、すっとかき消えた。それと同時に、灯が身じろぎをする。


「ん……」


 寝ぼけ眼の灯を、常暁は軽くにらんだ。


「いい夢見てたようだな」

「はい、死んだじいちゃんが胸の上にのってました」

「……それでよく寝てられたな」

「なんか、じいちゃんが『あの坊主が余計なことをしてるから、終わるまで寝てろ』って言ってたんで」

「間違ってはいないが、腹が立つな。感謝の言葉が引っ込んだ」


 すでに姿を消している吉祥天が、常暁の耳元でくすくす笑う。


「何故、ベランダがバッキバキに壊れてるんですか?」

「知らんでいい。寝ろ」

「枕投げるのやめてくださいよ。さっき嫌な話したとこなんですから」

「うるさい。いいから寝ろ」

「寝るのに文句言ったりまた寝ろって言ったり、なんなんですかあんた!」


 いい年をした男たちの言い合いは、結局夜が明けるまで続いた。





「……リストの件ということでしたが、何か進展がありましたでしょうか」


 軽く仮眠をとってから、灯と常暁は再びピエニ本社を訪れていた。相変わらず烏賀陽うがやと近藤の身だしなみは完璧で、ちょっと皺のいったスーツを着ている灯は気後れする。


「進展はありましたが、リストがあったからではないんです」

「むしろリストが邪魔をしている」


 常暁がずばっと斬り込むと、流石に烏賀陽も嫌な顔をした。


「精一杯協力させていただいたつもりでしたが、お邪魔とはどういうことでしょう?」

「肝心なところが載っていない」


 灯は、常暁の手がすっと動くのを見た。指が奇妙な印を組んでいる。また何かやるつもりなのに気付いたが、今更止められなかった。


「……肝心なところといいますと」

「ブレスレットのパーツから、社長の指紋が出ました」


 灯が身を乗り出すと、烏賀陽がぐっと息をのんだ。


「社長が店舗に立たれることはあまりないと聞きます。それなのに指紋が出たということは、社長が犯人か──社長が触ったものを手に入れられるくらい、近しい関係の人か、ということになります」

「私は犯人ではありません」

「では、近い関係の人に恨まれている覚えは?」

「そう言われましても。私のような自由業は保証がない分、付き合う方を選べるのが良いところでして」


 烏賀陽は話をそらしたが、その表情はだいぶ苦しそうだった。


「揉めたら関係を絶ってしまうと?」

「そういうことです。いつまでも私のような者を覚えておくほど、暇ではない……でしょう……」


 烏賀陽の話の途中で、常暁が組んだ指を下に向けた。その途端、烏賀陽と近藤の首ががくっと下がって、目がうつろになる。


「……いつも思いますけど、これって違法スレスレですよね」

「つべこべ言わずに聞き出せ。俺はやることが多いんだ」


 常暁が術をかけて、相手の心の抵抗を下げている。これでぺらぺら喋る者もいれば、水を向けてやらないとしゃべらない者もいる。烏賀陽たちは後者のようだ。


 これは常暁がいつもやっていることだが、今日はやけに難しい顔をしている。何かあったのは間違いないが、常暁は語るつもりがないようだった。


「あえてリストに載せなかった名前がありますね?」


 この問いに対して、近藤の肩がぴくっと動いた。灯は彼女に向き直る。


「なにかご存じなんですね?」

「……友彦ともひこくんのことで、弘臣ひろおみさんとちょっと……」


 聞き慣れない名前が飛び出してきたので、灯は背筋を正した。


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